第5章:戦後という動乱①
『カルノヴァ=ストリェッツ共和国』は、シャルル騎士王が創ったと言っても過言ではない国家である。
かつてこの地はカルノヴァ王国と呼ばれ、王制の下にあった。しかし、騎士王戦争において敗北を喫し、王家は排除され、以後は騎士王を宗主とする事実上の傀儡国家として再編される。騎士王は次なる戦争への前線基地とすべくこの地に長く留まり、厳冬を越えるために嗜んだ強酒が、皮肉にも彼の命を奪うこととなった。
宗主を失ったカルノヴァは、騎士王軍撤退後、自らの手で国家を立て直さねばならなくなった。しかし、彼らは王制への回帰を選ばなかった。騎士王がこの地に撒いた『人間の平等』や『法の普遍性』といった理念――すなわち法的平等――に触発された都市市民層は、かつて想像すらできなかった政治参加への扉を叩き、旧支配階層である貴族や王党派の打倒を目指した。真の自由と平等、そして権利を保障する市民主体の国家という理想が掲げられ、こうして両者の軋轢は長きにわたる内戦へと発展したのである。
だが内戦は決定的な勝敗を生まなかった。勢力は明確に二分されることなく、まだら模様のように錯綜し、無秩序な戦いが続いた結果、双方は疲弊するのみであった。最終的に導き出された妥協が、旧支配階層である貴族を中心とする『貴族院』と、内戦を通じて政治参加権を獲得した市民階級による『市民院』からなる二院制共和体制であった。
そもそもカルノヴァ王国においても、王権は形式的なものであり、実権は貴族が握っていた。そうした歴史を踏まえれば、共和制という帰結は決して突飛なものではない。むしろ、騎士王の祖国サンテルラン央王国が共和制移行に失敗した事実を思えば、彼らは『成功した側の息子』と呼ぶことすらできたかもしれない。
しかし両院の関係は、建国当初から不信と遺恨に彩られていた。持つ者と持たざる者、失った者と得た者――その対立は、まさに拮抗した均衡の上に成り立つ共和国議会を形作っていた。国名に含まれる『ストリェッツ』とは“政治参加を志す市民”を意味する言葉であり、国家の名そのものが妥協の産物であることを隠していなかった。市民院の改革案は貴族院で停滞し、貴族院の予算案は市民院で否決される。相互妨害が常態化していたのである。
転機が訪れたのは、隣国ローゼンベルク王国が侵攻を開始した第一次ノッセル回廊会戦であった。フリードリヒ2世率いるローゼンベルク軍は緒戦で圧倒的勝利を収め、共和国領の奥深くまで侵入し、ついには国土の2割を占領するに至った。この国家的危機を前に、両院は建国以来初めて挙国一致体制を決断する。敵軍が進撃限界に達したその時、『国土防衛非常事態宣言』が発令され、第二次ノッセル回廊会戦において、大規模に動員された市民兵の多大な犠牲の上に、共和国はついに国境線まで敵軍を押し戻すことに成功した。
この勝利は、共和国に強烈な成功体験と自負を与えた。たとえその主因がフリードリヒ2世の無能と虚栄心であったとしても、彼らにとっては重要ではなかった。
だが、講和交渉はフリードリヒ2世の頑迷さによって停滞し、関係改善は進まなかった。その頃から挙国一致体制にもほころびが生じ始める。原因は、両院の間に横たわる生まれと利権の根本的な差異であった。
貴族たちは所領と税収を有し、国家予算の供出を担っていた。また、市民兵として動員される者たちも元は彼らの領民であり、領地経営の延長線上で共和国軍に参加していたにすぎない。彼らにとって戦争とは、財と人命を消耗する忌避すべき国家事業であり、重要なのは“これ以上失わないこと”であった。
一方、市民院の議員たちは、比較的裕福で教養ある都市市民の出身ではあったが、その収入は議員給与に依存していた。所領も税収も持たず、極端に言えば人口の減少が彼らに直接的な不利益をもたらすことはなかった。さらに、市民層が政治参加権を得たのは内戦を通じてであったがゆえに、「戦うことでしか権利と自由は得られない」という共通認識が深く根付いていた。彼らにとって重要なのは“より良い状況を手に入れること”であり、戦争はその明確な手段だったのである。
ある貴族院議員は、市民院に対して次のような皮肉を投げかけたと伝えられている。
「諸君は議場に座したまま戦争を賛美する。何も持たぬがゆえに、失われるのが我々の民であることを理解していない」
その後、事態に大きな影響を及ぼす事件が起こる。フリードリヒ2世の息子ルートヴィヒが、第三次ノッセル回廊会戦を主導したのである。幸か不幸か、ルートヴィヒは軍事に無気力で、父譲りの無能さを備えていた。久方ぶりの大攻勢は注目を集めたが、彼は指揮を部下に丸投げし、早々に王宮へ引き上げてしまった。共和国は二度にわたり、敵国王族の無能によって国家防衛を果たしたが、その受け止め方はこれまでになく過激なものとなった。
市民院の議員は声高に叫んだ。
「王制は危険思想である。断固たる意志をもって対処せねば、共和国の権利と自由、そして平和は脅かされる。ゆえにローゼンベルク王家を打倒し、国民を解放すべきだ」
これに対し、貴族院の議員はこう応じた。
「大国ローゼンベルクの王家を打倒するなど非現実的だ。我々は防衛に徹し、和平を模索すべきである」
その美辞麗句の裏に、それぞれの利害と打算、そして実現性を欠いた理想があったことは言うまでもない。打倒する力はなく、かといって停戦も和平も望めない――その袋小路の現実の中で生まれた妥協の奇形児こそ、『ノッセル要塞』であった。
ノッセル回廊という物流と経済の大動脈を完全に封鎖し、ローゼンベルク軍の侵入と経済的利益の双方を断つこの強硬策は、断腸の思いの末の決断であった。“要請”の名の下に膨大な人的資源を投入し、6年以上の歳月と国家予算3年分に相当する資金を費やして築かれたのが、この要塞である。
それは誰にとっても満足のいく選択ではなかったが、相反する希望を両立させるための唯一の妥協点であった。明確な“外敵”の存在が、彼らをかろうじて協力させていたのである。
では、その“外敵”が失われたとき、共和国はどうなるのか。
以下は、第四次ノッセル回廊会戦終結後に開かれた議会での出来事である。




