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第4章:第四次ノッセル回廊会戦⑦

 『清廉なるノッセル回廊の和議』


 後世においてそう呼ばれることになるノッセル回廊を巡るローゼンベルク王国とカルノヴァ=ストリェッツ共和国との戦争――実に18年に及んだこの長期戦争――は、大陸歴1270年4月3日、ついに停戦協定の締結をもって幕を下ろした。


 本協定が、それまで幾度となく模索されてきた停戦案と決定的に異なっていた点は、単なる戦闘停止ではなく、事実上の戦争終結を規定する講和条約としての性格を有していたことである。もっとも“事実上”と但し書きされるのは、ローゼンベルク側の調印者が国王フリードリヒ2世ではなく第二王子ヴィルヘルムであったこと、また共和国側も議会そのものではなく、要塞政務監の職にあったラドムスキ議員が署名したに過ぎなかったという政治的事情による。


 しかし、この停戦協定が強い実効性を持つことは明白であった。共和国はすでに戦闘能力と防衛基盤を徹底的に破壊されており、もし戦闘を再開すれば、2万人を超える兵士の死が確実視されていた。加えて、莫大な費用を投じて建設したノッセル要塞は、機能停止状態とはいえ、ローゼンベルクの完全な支配下に置かれることになる。万全の態勢で即時再開が可能なローゼンベルク軍と、補給路も連絡路も断たれ、援軍すら望めない共和国軍との間には、もはや覆しがたい力の不均衡が存在していた。共和国に拒否権はなかったのである。


 ゆえに、ラドムスキを代表とする共和国側は、ヴィルヘルムが提示する要求をすべて受け入れざるを得ない覚悟を固めていた。たとえそれが過酷な条件であっても、抗う手段を完全に失っていたからである。


 ところが、停戦協定交渉は思わぬ方向へと進展した。その主導権を握ったのは、他ならぬヴィルヘルムであった。


 彼が共和国側に提示した条件は、次の通りである。


 ・両軍は即時、すべての戦闘行為を停止する。


 ・停戦協定締結後、ローゼンベルク王国軍は48時間以内にノッセル回廊の当該戦場から全面撤退する。


 ・正統性を欠く領土割譲は一切要求しない。


 ・停戦後、ローゼンベルク軍東部方面軍は、必要最低限の警戒・駐屯部隊を除き、大部分の戦闘団を撤退させる。


 ・共和国軍はノッセル回廊を非武装地帯とし、相互に国境線を侵犯せず、不測の事態防止に努める。


 ・共和国軍捕虜は全員、即時解放する。


 ・両国の平和と安定のため、停戦連絡局を設置し、今後の連携を図る。


 ・以上の条件が受け入れられない場合、ローゼンベルク王国軍は即座に戦闘を再開し、共和国議会に対して停戦協定を勧告する。


 この条文を目にしたとき、目を疑ったのはラドムスキだけではなかった。勝者の条件としては、あまりにも無欲である。あまりに都合のよい話に、共和国側の外交団は疑念の視線をヴィルヘルムへと向けた。


 しかし、その疑念は次第に揺らいでいく。ヴィルヘルムの態度は終始堂々としており、さらに彼が実際に行っていた戦場処理――要塞内の共和国軍人への食事提供や医療支援、戦死者収容への協力、非人道的行為および軍規違反の徹底的な禁止――を否応なく目の当たりにさせられたからである。共和国側にとって、もはや彼の言葉に縋るほかなかった。


 ヴィルヘルムは自らの意図をこう説明した。長きにわたる無益な戦争に終止符を打つことこそが目的であり、そのためには父王フリードリヒ2世を納得させる“勝利”が不可欠であった、と。戦果なくしては、父王は戦争継続を主張し続けるであろう、とも。


 その説明は一定の説得力をもって受け入れられた。両国間で長らく停戦が成立しなかった最大の要因が、フリードリヒ2世の頑迷な姿勢にあったことは周知の事実だったからである。その父に比べ、目の前の王子は明らかに理性的で合理的な人物に見えた。


 停戦はローゼンベルクのみならず、共和国にとっても利益であった。共和国はこの戦争によって財政を疲弊させ、国民生活は限界に近づいていた。この問題を解消できなければ、遠からず国家そのものが破綻することは明白だったのである。ヴィルヘルムの申し出は、まさに渡りに船であった。


 もっとも、全員が彼を無条件に信じたわけではない。戦争終結を目的とするにしても、ローゼンベルク側の得る利益があまりに少ない点は、当然疑念の対象となった。国家間交渉において、理想論に酔うことは許されない。しかも当時、共和国にはラドムスキ以外に実質的な政治的決断を下せる人物がほとんど存在せず、彼の判断は国家の命運を左右するものであった。


 しかし当のラドムスキが考えていたのは、国家よりも自己保身であった。彼は繰り返し「議会の指示を仰がねば返答できない」と言葉を濁し、決断を避け続けた。


 その曖昧な態度に業を煮やしたかのように、ヴィルヘルムはふと天幕の外へと視線を向けた。それにつられて共和国側の数名も同じ方向を見やったが、続く彼の一言は彼らの心を大きく揺さぶった。


「我々は即時停戦を望んでいる。もし、これを拒否したと知った共和国軍の諸官が、どう行動するか――想像したことはあるだろうか」


 その言葉は、かつて兵士の暴走によって要塞司令官が殺害される現場を目撃したラドムスキの肝を凍らせた。軍隊とは、感情と暴力の手段を併せ持つ集団であり、戦場とは人を容易に理性の外へ追い込む場所である。その現実を、彼は痛いほど理解していた。


 ついにラドムスキは、ノッセル要塞の最高責任者として、また外交の席に着く共和国議員として、この停戦協定に署名した。それは後日の責任追及よりも、目の前に迫る暴力の危険から逃れることを優先した選択であった。


 ヴィルヘルムもまた、相手方の署名が記された協定書に自らの名を書き込みながら、18年にも及んだ苛烈な戦争が、たった一枚の紙切れで終結してしまう不条理と、人間の理性というものの滑稽さを、冷ややかに噛みしめていた。


 後に、この戦争を総括する言葉が生まれた。


「フリードリヒが18年の戦争を始め、ヴィルヘルムが3日の勝利で終わらせた」


 第四次ノッセル回廊会戦は、ヴィルヘルムが軍事的才覚と政治的手腕を初めて示した戦いとして、歴史に記されることとなる。

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