第4章:第四次ノッセル回廊会戦⑥
さて、このように組織の最上位者2名がそろって失態を演じ、どちらがマシとも言えない状況に陥ったとき、部下たちはどのような反応を示すのか。多くの場合、各部署が司令部を無視して独自の判断で動き出すか、あるいは下手に動いて責任を押し付けられることを恐れ、来るはずもない正当な命令を待ち続けるかのどちらかである。
ノッセル要塞では後者が主流となった。司令部に集う幕僚たちは、ただそこに“いる”だけの存在と化していた。
結果としてノヴァクは、司令部で唯一発言を許される立場として、今後の方針を一手に背負わされることになった。もっとも、彼が立案した作戦が部下の支持を得られるかは別問題である。感情を優先し、命令には従わず、しかし責任だけは回避しようとする部下たちの上に立たされること自体が、彼にとっては苦痛でしかなかった。
「ブジェゴフカ後方基地からの連絡は、まだつかないのか?」
ノヴァクの問いに、幕僚たちは互いの顔を見合わせるだけで、誰一人として明確な答えを口にしなかった。もはや、自身を守ってくれそうな強い立場からの命令しか聞こうとしない現状に、ノヴァクは思わず舌打ちをする。
そんな空気の中でも懲りず、あるいは挫けずに口を挟むのがラドムスキであった。それもまた、ノヴァクの不快感を増幅させる要因の一つである。
「補給が断たれてから、もう丸一日だ。それなのに、状況すら分からぬとはな」
「なら貴様が行けばいい。腹が減ったと小言を言う暇があるならな」
食料の枯渇は、最も深刻な問題の一つであった。ノッセル要塞は戦闘能力を重視するあまり、それを支える後方機能を軽視しすぎていた。その結果、要塞に常駐する兵士たちの食料は、後方基地からの逐次輸送に全面的に依存する体制となっていた。
その補給が、丸一日途絶えたのである。
わずかに備蓄されていた保存食もすでに尽き、全員に行き渡らなかったため、前日から何も口にしていない者も少なくなかった。
当初は、補給部隊が遠方で聞こえる砲声に怯えているだけだと思われていた。しかし、後方基地からの連絡は途絶え、基地へ派遣した連絡員も一人として戻らない。この異常事態こそが、彼らが把握できる数少ない情報であった。
非難を受けたラドムスキは、「私はここに残る義務がある」と、形骸化した職務を盾に連絡員となることを拒否した。その一方で、「食料問題はどうにかせねばならない」とだけ付け加える。
ついに堪忍袋の緒が切れたノヴァクは、皮肉を込めて、淡々と言い放った。
「食料がないのなら、兵士を突撃させればいい。食い扶持が減って、かえって都合がいいだろう」
ノヴァク自身は、あくまで皮肉のつもりで口にしたに過ぎなかった。しかし、周囲の無責任で感情的な人間たちは、それを司令官の本心と受け取り、ノヴァクへの信頼を大きく損なう結果を招いてしまう。
人の何気ない言葉が、誇張され、歪められ、独り歩きするのもまた人間の性であろう。突撃を命じられていた兵士たちがその噂を耳にしたとき、心中が穏やかであるはずもなかった。直接その場に居合わせた幕僚たちも、変質した噂について言及しようとはしなかった。
そして、運命の時が訪れる。
「し、司令!」
司令部に駆け込んできた前線指揮官の一人が、外の状況を報告した。
「ローゼンベルク軍の本隊と思しき大軍が、国境線を越えました!確認できただけでも1万以上です!」
ノヴァクは思わず立ち上がった。拍子に机に足をぶつけたが、その痛みなど意識の外であった。
ヴィルヘルムは、ついにローゼンベルク軍東部方面軍を戦線に投入したのだ。常備兵5000、戦時召集兵8000、計1万3000の兵力。それを、ノッセル要塞正面に叩きつけてきたのである。
ノヴァクは絶望した。
北側観測所は奪還できないまま精鋭数百に占拠され、西側国境からは1万を超える大軍が迫る。後方基地からの援軍も物資も途絶え、備蓄の食料と医薬品は尽き、弾薬も底をつきかけている。要塞砲台の半数はすでに機能停止し、歩兵を塹壕に配置しても、側面から例の連射銃を持つ敵精鋭の格好の的となるだけであった。
その絶望に追い打ちをかけるように、別の人物が司令部へ担ぎ込まれた。
中年の男性将校で、大尉の階級章をつけている。軍服は煤と埃にまみれ、全身に出血を伴う傷を負っていた。その痛ましい姿に、ラドムスキは露骨に眉をひそめた。
「誰だ、貴様は。名乗りたまえ」
「……シモンスキ工兵大尉であります。ブジェゴフカ後方基地より、参りました……」
息も絶え絶えながら、将校は姿勢を正し、所属を告げた。ラドムスキは内心で援軍の到着を期待したが、あまりに不穏なその様子に、表情だけは冷ややかに問い返す。
「それで?」
「報告します。ブジェゴフカ後方基地は――壊滅しました」
司令部に沈黙が落ちた。
「壊滅、とはどういうことだ?」
ノヴァクだけが、その言葉の意味を問い質した。
「敵の奇襲を受け、集積されていた弾薬が誘爆……基地そのものが消滅しました」
誰もがすぐに受け入れられたわけではない。しかし、その場に立つ将校の姿を前に、虚偽だと断じられる者もいなかった。
呼吸を整えた工兵将校は、さらに続ける。
「襲撃部隊は、首都へ通じる橋を破壊して輸送路を完全に遮断。その後、基地に残されていた馬すらすべて射殺しました。追撃をかわして要塞へ辿り着けたのは、私一人です」
他の連絡員は、すでに全員殺害されたという意味であった。
そして、将校は最後の一撃を放つ。
「その襲撃部隊は現在、要塞へ向けて進撃中です。基地を攻撃した大砲も有しています。どうか後方地帯確保のため、援軍を――」
「無理だ」
ノヴァクは即座に切り捨てた。
「すでに北と西から圧力を受けている。それに対処する戦力すら心許ない。後方に回す余力などない」
言い捨てて、ノヴァクは理解した。
この要塞は、継戦能力を失ったまま三方向から包囲されている。内地からの援軍も期待できない。頼れるのは、敵弾に耐える岩盤の壁だけだ。
戦局は、すでに決していた。
不動の勇将として知られるノヴァクは、それを悟っていた。幕僚たちもまた同様であったが、誰一人として口にしようとはしなかった。例外は、ラドムスキだけである。
「好機ではないか!」
彼は興奮気味に叫ぶ。
「敵はこの難攻不落の要塞に集結するのだろう?まとめて撃破すればよい!その奮戦は必ず議会に届く!援軍も送られてくるはずだ!」
日和見主義の幕僚たちでさえ、呆れを隠さなかった。籠城できる物資はすでになく、残っているのは堅牢な壁だけである。食料も弾薬も尽きかけた要塞など、無理に攻めずともいずれ落ちる。しかも敵は連絡路を徹底的に遮断しており、戦況が首都へ届く見込みもない。
沈黙の司令部で、ラドムスキだけが空回りする中、再び来訪者が現れた。
「ノヴァク司令官。ローゼンベルク軍より使者が参りました」
「使者だと?」
「はい。“停戦の申し出”とのことです」
その言葉を聞いたラドムスキは、顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「停戦だと⁉どの口が言う!この戦争を始めたのは奴らだ!一人残らず撃滅せねば終わらん!」
もはや正気を失った継戦論に、幕僚たちは一斉にノヴァクを見た。つい先ほどまで見限っていたにもかかわらず、節操のない態度である。しかし、ノヴァクにはどうでもよかった。
「受けよう。この戦は、我々の負けだ」
「愚か者め!貴様に停戦を結ぶ外交権限などない!誇りある議会から任命された、この私だけが戦争の終結を決められるのだ!」
ノヴァクは、ラドムスキをどう説得すべきか思案した。事実、要塞政務監である彼にしか正式な停戦交渉の権限はない。彼を交渉の席に着かせねば、兵士たちを待つのは餓死か、無謀な突撃による無意味な死だけであった。
だが、その思考は無意味となる。
「……ん?何の騒ぎだ?」
司令部の外の喧騒に気づき、ノヴァクが扉へ視線を向けた瞬間、武装した兵士たちが雪崩れ込んできた。
長銃が、一斉に彼へ向けられる。
「お前から死ね!俺たちは使い捨てじゃない!」
抗弁の暇すら与えられず、引き金が引かれた。
次の瞬間、ノヴァクの軍服には複数の穴が穿たれ、その背後の壁には、穴の大きさに見合わぬ量の血が叩きつけられた。
兵士たちは、ノヴァクが口減らしのために無意味な突撃を命じるつもりだという噂を信じ込んでいた。さらに停戦の申し出を知り、「ノヴァクがそれを受けるはずがない」と確信し、その元凶を排除するために司令部を襲撃したのである。
床に崩れ落ちるノヴァクと同じく、腰を抜かしたラドムスキの顔からも血の気が引いた。
そして、彼は叫んだ。
「停戦だ!停戦しよう!」
人の意志とは、いったいどのような形をしているのか。未だ解明されてはいない。
だがそれは、誇りや信念よりも先に、恐怖に折れて風に舞う、薄い紙切れのようなものなのだろう。
続きの話は、本日20時に投稿予定です。




