第3章:国家総力戦⑥ ⚠
※本話には性的な描写が含まれます。苦手な方は無理をなさらずお読み飛ばしください。
本描写は物語の世界観およびテーマ性を重視したものであり、特定の思想や行為を肯定・推奨する意図はありません。あらかじめご了承ください
それは長い歴史の中で、「切り離せないが、常に矛盾を抱えた関係」として存在してきたものであった。すなわち、軍隊の周辺には必然的に性産業が発生するという経済構造である。
その背景には、軍隊という組織の特性がある。若年の男性を中心に構成される長期集団であり、長期間にわたって家族や恋愛関係から切り離される以上、正規の家庭形成は困難となる。また、戦場という極度の緊張とストレス環境は、一定の需要を生み出す要因ともなった。さらに、軍は移動と駐屯を繰り返す組織であり、その随伴者であるにせよ現地住民であるにせよ、そこには必然的に需要と経済機会が発生したのである。
この構造自体は古く、ルガルディア帝国を建国した始祖ルガルドの軍隊においても、その存在を示す記録が残されている。言うなれば、最古のサービス業の一形態ともいえるだろう。それは社会における必要悪として存在し、表舞台には立たないまま、しかし決して切り離すことのできない存在であった。
この関係が明確な問題として認識され始めたのは、騎士王時代である。大陸の広域を支配下に置いた騎士王軍は、統一と秩序のみならず、「性病」という形で新たな脅威をも拡散させた。それまでの戦乱期においても軍隊の移動は存在したが、その規模は限定的であり、感染症の広域的な蔓延に至ることは少なかった。
しかし、騎士王軍は異なる。大陸南方を平定し、そのまま大軍勢をもって中央部へ進出したことで、南方由来の感染症が広範囲に持ち込まれたとする説が有力とされている。加えて、その進軍路には性産業の集積も伴っており、結果としてそれらは大陸全域へと拡散していった。
当時、シャルル騎士王に反感を抱く者たちは、この感染症の蔓延を「シャルルの置き土産」と揶揄したとされる。ここで問題となったのは、感染症の拡大が兵士の戦闘力低下や長期的な戦力喪失を引き起こし、軍事・医療の双方において深刻な社会問題となった点である。
以後、各国軍にとってこの問題は無視できないものとなった。性産業そのものを全面的に禁止しようとする試みも存在したが、その多くは失敗に終わる。それは、兵士という集団が人間である以上、欲求の抑制には限界があるためであり、また士気維持の観点からも単純な禁圧は適切とは言い難かったからである。加えて、需要が存在する以上、それは地下化し、かえって無秩序な形で拡大する危険を孕んでいた。
その結果、各国は性産業を「排除する対象」ではなく、「管理する対象」として扱う方向へと舵を切ることになる。すなわち軍および国家による統制のもとで、従事者および兵士双方に対する衛生検査を制度化し、感染の拡大を抑制しつつ戦力低下を防ぐという方針である。発生した場合には隔離と治療を行い、戦力としての損耗を最小限に留めることが目的とされた。
エルデンライヒ帝国軍も例外ではなかった。前線近くに形成されつつあった非公認の売春宿は取り締まりの対象となり、同時にそれらを軍の管理下に置くことで秩序化が図られた。これは積極的な政策というよりも、戦力維持のために不可避とされた消極的な選択であったといえる。帝国はその暗部に目を閉ざしつつ、性産業を戦争遂行のための制度的装置として取り込む道を選んだのである。
そして、その担い手は戦時においては常に溢れていた。
「大丈夫。力、抜いて」
リーゼルの手が肩に触れた瞬間、ルーカスの身体は強張るでもなく、ただ動き方を忘れたように固まった。前線で聞き慣れた怒号や悲鳴とは違う、あまりにも近くて静かな声だった。そこにいるのは敵でも上官でもない。ただ一人の女性。それだけのことが、かえって現実味を失わせていた。
自分の身体でありながら、どう動かせばいいのか分からない。
「ゆっくりでいいから」
彼女の手が、自分の手に触れる。その瞬間、意識がわずかに揺れた。
――温かい。
ただそれだけのことを理解するのに、妙に時間がかかる。これまで触れてきたのは、泥にまみれた身体か、冷えた肉塊か、あるいは生死を確かめるためのものばかりだった。
視線を上げると、そこにリーゼルがいる。露わな肌、柔らかな線、呼吸に合わせてわずかに揺れる胸元。初めて目にするはずなのに、どこか現実のものとは思えなかった。
「見てるだけじゃなくて」
リーゼルの声が少しだけ柔らぎ、ルーカスの手を取って自分の方へ導く。
「触ってみて」
指先が触れた瞬間、ルーカスは息を止めた。
信じられないほど柔らかい。壊れてしまいそうなほど繊細な肌だった。
前線にこんなものがあるはずがない――そんな場違いな考えが一瞬よぎる。
もう一度、確かめるように触れる。ゆっくりと。指先から伝わる温度が腕を伝い、胸の奥へと広がっていく。
妙な感覚だった。
興奮と呼ぶにはあまりにも静かで、欲望と呼ぶにはあまりにも穏やかだ。むしろそれは――安心、と呼ぶべきものだった。その事実に、ルーカス自身が戸惑う。
リーゼルが距離を詰める。身体が触れ合い、柔らかさと重み、そして確かな温度が伝わってくる。そのすべてが、内側で張り詰めていた何かをほどいていく。
気づけば、深く息を吐いていた。
――生きている。
その実感が、遅れて胸に落ちてくる。
前線ではそんなことを考える余裕すらなかった。ただ次の瞬間をやり過ごすだけで、自分が生きているのかどうかさえ曖昧になる。
けれど、今は違う。
温かく、柔らかく、確かに息がある。それを感じ取れている自分が、ここにいる。
そして、不意に遠い記憶が蘇った。戦争へ行くずっと前、故郷で母に抱かれたときの感触と温もり。言葉は思い出せないのに、その優しさだけがはっきりと残っている。
どうして今なのかも分からないまま、胸の奥が締めつけられ、視界が揺れた。
「……ルーカス?」
名前を呼ばれ、その声に引き戻される。
次の瞬間、張り詰めていたものが限界を迎え、ぽとりと涙が零れた。
理由は分からない。ただ、その現象に戸惑う。悲しいわけでも、苦しいわけでもないはずなのに、どうしても止めることができなかった。
「あ……ごめ……おれ……」
「謝らなくていいわ」
何に対して謝っているのかも分からないまま言葉がこぼれる。リーゼルはそれを遮らず、ただ静かにルーカスの頭を撫でた。
何も脅かすものがない場所で、逃げ場を塞がない距離で、ただそこにいてくれる。
それだけで、張り詰めていたものが崩れていく。
ルーカスは、まるで子供のように泣き続けた。
軍隊において性産業が求められる理由は、単なる性的欲求や衝動だけではないとされる。
そこには、“人肌の温もりを求める”という側面がある。
極限状態に置かれた人間は、性的充足よりもむしろ安心感や接触、人間らしさの回復を強く求める傾向にあるという。心理学的研究においても、誰かに触れること、優しくされること、日常的な会話や生活の感覚を取り戻すことが、精神の安定に寄与する現象として記録されている。
そうした行為は、「自分はまだ人間である」という感覚を取り戻す契機となる。そしてその意味において、性産業は単なる欲望の発露の場ではなく、人間性の回復を担う側面を持つとする解釈にも、一定の根拠があった。
ルーカスにとって、リーゼルとの触れ合いは確かな“救い”であった。
「……ありがとう」
ひとしきり泣き、ようやく落ち着いた後、ルーカスは掠れた声でそう言った。
「どういたしまして」
リーゼルはわずかに目を細めて応じる。彼女にとって、それは特別な出来事ではなかった。こうした反応を示す兵士は決して珍しくない。そして、それに応じることこそが、彼女の“仕事”でもあった。
「大丈夫、焦らなくていいわ」
リーゼルの手が、そっとルーカスの背に触れる。
先ほどと同じはずのその手は、しかしどこか違って感じられた。
わずかに、規則的すぎる気がした。
だが、その違和感を追うことなく、ルーカスはただ温もりに身を委ねた。
戦場には存在しないもの。けれど確かに、自分が求めていたもの。
その感覚に包まれながら、その夜初めて、ルーカスは――生きていると実感した。




