第3章:国家総力戦⑤
そこは、言い表すならば別世界であった。
「すげぇ……」
ルーカスは、思わず感嘆の声を漏らすことしかできない。そこは彼が生まれ育った小麦畑の農村でも、軍の訓練施設でも、ましてや砲弾の飛び交う前線の塹壕でもなかった。
彼のこれまでの人生で見たことのない、「都市」と呼ぶにふさわしい街並みがそこにあった。
前線から離れた後方に位置する中規模都市クラウゼンハインは、帝国陸軍が指定する休養都市の一つであり、ルーカスにはここで7日間の休暇が許可されていた。
泥と悪臭にまみれたまま到着した彼は、他の休暇兵たちと同様に軍服を脱がされ、広い浴場へと通された。久々に浴びる清潔な湯は、それだけで別世界のようだった。さらに感染症予防のための消毒湯に浸かり、石鹸で身体の隅々まで洗われる。
清潔なシャツに着替えさせられた後、兵士たちには軍票と呼ばれる代用通貨と、一枚の慰安配給券が手渡された。これらを使い、規定の寝床に戻るまでの7日間、この都市で自由に過ごすことが許されるのだという。
クラウゼンハインの街並みは、小ぢんまりとしながらも整然としていた。石畳の通りは丁寧に掃き清められ、両脇には三階建てほどの建物が規則正しく並ぶ。白い漆喰壁に濃い木骨が走る家屋。通りの一角にはカフェがあり、白布をかけた丸卓が並んでいた。戦場とはあまりに異なる光景だった。
ここが軍指定の休養都市であることは、一目で察しがつく。街を行き交うのはほとんどが若い男たちであり、通常の街よりも憲兵の姿が多い。負傷兵の姿も散見され、包帯を巻いた者が静かに歩いていた。さらに、洗濯された軍服が大量に干されており、この都市が戦争の延長線上にあることを静かに示している。
陸軍大臣ヨハンの主導により、長期化する戦線を支えるため、兵士の休養と士気回復、そして療養を目的とした休養都市制度が整備されていた。徴集兵は対象外か、あるいはごく短期であるが、長期勤務の志願兵には一定の休暇が与えられる仕組みである。
そしてルーカスの目に、もう一つのこの都市特有の光景が映った。
「働いてるの、女の人ばっかりだ」
パン屋も食堂も、カフェも酒場も、そこで働くのはすべて女性だった。到着してからというもの、憲兵以外の男の職員を見ていないことにようやく気づいた。
サンテルランとの長期戦争により、軍は大量の兵力を必要としていた。その結果、国内の男性労働力は徴兵・志願兵として吸収され、産業の空白を補う形で女性の社会進出が進んでいった。彼女たちは前線に出た男たちに代わり、都市の生活を支えている。
休養都市では特にその傾向が強く、軍が雇用する軍属女性が多く配置されていた。後方業務を女性に担わせることで、男性兵士を戦力として維持する意図もあった。
年齢もさまざまだった。貫禄のある中年女性もいれば、ルーカスとそう変わらぬ年頃の少女もいる。
それは、エルデンライヒ=サンテルラン戦争が生み出した、ひとつの戦時風景だった。
ルーカスは、その光景にわずかな高揚を覚えた。
泥と血にまみれた塹壕ではない、清潔で整った街並み。
冷えた軍用パンを水で流し込む野戦食ではない、温かく油の乗った料理。
男だけの臭気に満ちた前線ではない、花とパンの香りが漂う都市。
そのすべてが、昨日までいた戦場とはあまりにも違っていた。
農村から出たことのないルーカスにとって、それは夢のような華やかな世界だった
まず、ルーカスは腹一杯ヴルストを食べた。久しぶりに口にする肉の味に、唾液腺が弾けるように反応し、思わず涙がにじむほどだった。その味を、彼は生涯忘れられなかった。
人生で初めてカフェにも入った。そこで彼は、故郷で飲んでいたコルネルよりも上品なコルネルを注文し、試しに砂糖を入れて飲んでみた。
音楽施設にも足を運んだ。そこではさまざまな楽器が奏でられ、働く女性たちに混じって、うまくもないダンスを踊った。
街には娯楽が満ちていた。それは生まれ故郷の農村にいたままでは、一生触れることのなかった種類の幸福だった。
その瞬間だけは、軍隊に入ってよかったと、ルーカスは心から思った。地獄のように続いた日々が嘘のように、彼は天国のような快楽の中に身を沈めていた。
7日間の休暇を一瞬たりとも無駄にすまいと、彼は貪るようにクラウゼンハインを巡った。
そして、前線で親しくなった兵士から聞いていた、ある施設へと足を向ける。
「慰安配給券を提示せよ」
そこはクラウゼンハインの中でも例外的に、男の憲兵が受付を務める施設だった。
「12号室だ。階段を上がって右奥、二番目の部屋へ行け」
事務的なやり取りののち、ルーカスは指示通りに階段を上る。
その間、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。それは鼓膜を内側から叩くような鼓動であり、彼の動揺をそのまま形にしたかのようだった。
階段を上ったせいだけではない。喉は異様に乾き、何度も唾を飲み込んだ。数えるのも馬鹿らしくなるほど、それでも緊張は収まらなかった。
やがて、指定された扉の前に立つ。震える手でノックをした。
「どうぞ。入って」
中から声がした。若い女性の声だった。
恐る恐る扉を開けると、そこには髪を整え、簡素だが清潔な服を着た若い女性が立っていた。
「初めて?」
扉の前で固まるルーカスに、彼女は穏やかに微笑む。どこにでもいそうな、しかしこの場所ではあまりに現実離れした存在に見えた。
言葉が出ないまま、ルーカスは小さく頷くことしかできなかった。
「そう。緊張しなくていいわ。皆、最初はそんなものよ」
彼女はそう言うと、彼を部屋の中へ案内し、椅子に座らせた。
「名前は?」
手の置き場さえ分からず、視線を泳がせながらルーカスは答える。
「……ルーカス。ルーカス・クルーガーだ」
「そう。私はリーゼル」
「リーゼル……」
彼はその名を、ただ反芻するように繰り返した。
それが、リーゼル・クレーマーとの出会いだった。
――戦争によって、生きるためにその道を選ばざるを得なかった女性との。




