第3章:国家総力戦④
大陸暦1277年9月1日
その日は、エルデンライヒ帝国の成立を祝う祝日であった。最前線といえど例外ではなく、兵士たちは帝国国歌を斉唱し、士気の高揚を図っていた。
だが、この日がエルデンライヒにとって特別であることは、敵国サンテルランも承知している。
「今日は一段とうるさいな……」
「仕方ないさ。帝国成立の日なんて、あいつらにとっては忌々しい厄日だろうよ」
北西オーバーロル戦線の塹壕の中で、ルーカス・クルーガー一等兵は、近くの兵士とそんな言葉を交わしていた。
もっとも、それは静寂の中での会話ではない。南方から絶え間なく降り注ぐ砲撃と、その爆音に鼓膜を打ち続けられながらのやり取りである。
当初、エルデンライヒ兵たちは砲声に対抗するかのように国歌を張り上げていた。だが、砲撃が止む気配を見せないと悟るにつれ、歌声は次第に萎み、やがて力なく言葉を交わすだけになった。
そしていつしか、彼らは砲撃そのものにも慣れてしまった。
サンテルラン軍は、塹壕や後方地帯にまで届く重砲の配備を進めつつあるらしい。しかし、その数はまだ少なく、砲弾も潤沢ではないのか、攻撃は散発的にとどまっていた。頭を抱えて震えるのも馬鹿らしくなり、兵士たちはまるでソファに寝転ぶかのように四肢を投げ出し、泥にまみれた塹壕の底に身を沈めていた。
ルーカスが配属されて、ちょうど半年が過ぎている。
第五次オーバーロル会戦こそ勃発したものの、それ以降、軍上層部から無謀な突撃命令が下ることはなくなっていた。兵士たちの間では、皇帝ヴィルヘルムが将軍たちに対し、徒に犠牲を増やす攻勢作戦を禁じたらしい、という噂がまことしやかに囁かれている。
真偽のほどは分からない。だが少なくとも、有刺鉄線の絡み合う泥濘を駆け抜け、機関銃と砲弾の雨に身を晒すような地獄が一時的にせよ収まったことは、ルーカスの寿命を確実に引き延ばしていた。
一方のサンテルラン軍は、なお戦果を求めているのか、定期的に歩兵突撃を敢行してきた。兵士たちの間では「6週間に一度」と囁かれている。
その内容も様々で、これまでと変わらぬ無謀な突撃から、機関銃を無理やり担いでの鈍重な前進まで、工夫らしきものは見られる。だが、いずれもオーバーロル戦線を突破するには至らなかった。
もはや戦場の常識は明白だった。攻勢は圧倒的に不利であり、防御側は機関銃と障害物によって絶対的優位に立つ。
――もっとも、ルーカスの知らぬことだが、その「6週間」という周期は偶然ではない。サンテルラン軍ではおよそ6〜8週間ごとに指揮官の交代が行われており、そのたびに新任の指揮官が攻勢を試みていたに過ぎなかった。
やがてサンテルラン軍も、突撃では戦果が得られない現実を理解し始めたのか、戦術を変えつつあった。歩兵突撃は減少し、その代わりに塹壕や障害物を狙った砲撃が増加している。
結果として、戦場はかつてよりも、はるかに多くの砲声に満たされるようになっていた。
そして、それに起因するのか、ある異変が兵士たちの間に現れ始めていた。
「……」
「おい、大丈夫か?」
「よせ。耳も気も飛んじまってる」
呼びかけにも一切反応を示さず、虚空を見つめる兵士を前にして、ルーカスはまたか、と小さく息をついた。
砲撃の頻度が増して以来、このように呆然とする兵士が目につくようになっていた。まるで遠く1000m先を見据えるかのような虚ろな視線、止まらぬ震え。ひどい者になると、言葉を失い、歩くことさえままならなくなる。
兵士たちはそれを「砲撃に怯えた臆病者」と嘲った。だが実際には、それは明確な精神障害の一種であった。
後世において『PTSD(心的外傷後ストレス障害)』と総称される症状――過度の心理的ストレスや長期にわたる緊張状態に晒されることで発症するものである。当時はとりわけ砲撃によるものが多く、「シェルショック」と呼ばれていた。
このエルデンライヒ=サンテルラン戦争を契機に広く知られるようになったが、当時の理解は極めて乏しかった。精神医学自体がまだ黎明期にあり、前線の兵士にとっては「恐怖に負けた弱さ」としか認識されていなかったのである。
ゆえに適切な処置が施されることはほとんどなく、最悪の場合には士気低下を理由に見せしめとして処刑されることさえあった、という報告も残っている。
さらに、塹壕という環境そのものも、兵士たちを蝕んでいた。
「クソ……昨日の雨でふやけちまった」
「乾かしとけよ。“塹壕足”になるぞ」
ルーカスは軍靴を脱ぎ、中に溜まった泥水を吐き出した。びしょ濡れの靴下を脱ぎ、水でふやけた足の裏を手でこする。
「塹壕足」と呼ばれるこの症状は、塹壕戦を経験した兵士たちを最も苦しめた疾病の一つであった。水膨れや感染症を引き起こし、最悪の場合には壊死に至り、切断を余儀なくされることも珍しくない。
塹壕は構造上、雨水が溜まりやすく、そこに死体や排泄物が混じることで、極めて不衛生な環境が形成される。湿った泥の中に長時間身を置き続けることで、低体温や感染症の危険が常につきまとっていた。
さらに、狭隘な空間で姿勢を変えられず、立ち続けることも多いため、血行不良も引き起こされる。予防には足を乾かし、温め、清潔を保つことが不可欠であるが、前線ではそれすら満足に行えなかった。
近頃は大規模な突撃が減り、直接戦闘の機会が減少したことで、安堵する兵士も少なくない。だが、それは決して安全を意味しない。
彼らは今、砲撃と劣悪な環境という見えない敵と、静かに戦い続けているのである。
そして、その状態にもやがて限界が訪れる。戦闘力の低下が無視できなくなれば、軍もまた対策を講じざるを得ない。
「とはいえ、明日からは短期休暇だ。ここよりはずっとマシな場所だぞ」
「俺は行ったことないけど、そんなにいい所なのか?」
「ルーカスは志願兵だったよな。なら待遇はいい。きっと気に入るさ」




