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第3章:国家総力戦③

「悪辣だ。下劣極まりない」


 マクシミリアン・フォン・グラウエンシュタインは、独りそう吐き捨てた。旧グラウエンシュタイン大公国の首都ノイ・ヴィーンの市長となった彼が、これほどまでに不機嫌である理由は、つい先刻、エルデンライヒ帝国陸軍省大臣から直々に手渡された「帝国文化振興企画書」にあった。


 陸軍の軍政を統括する陸軍省が、なぜ文化事業などという畑違いの案件を持ち込んできたのか――結局のところ、それは“戦意高揚プロパガンダ”に他ならない。文化と学問の中心都市ノイ・ヴィーンにおいて、帝国の戦争遂行を後押しすることは、現在の帝国にとって最重要任務の一つであり、その意向を示すには、この上なく象徴的な施策だったのである。


 内容は多岐にわたるが、第一に掲げられているのは、舞台演劇や音楽、絵画といった芸術分野において、戦争賛美を主題とする作品を重点的に採用せよ、というものだった。文面自体はそこまで露骨ではない。あくまで、そのような演目や題材に対して国家が補助金を支給する、という体裁を取っており、任意であって強制ではない、とされている。


 だが、それはあまりにも意図的な誘導であった。戦時経済体制下では、戦争遂行に直接寄与しない文化・芸術分野は、資源や人材の配分において国家統制の制限を受けることが法的に義務づけられている。加えて、臨時娯楽税として通常より高い税率が課される。すなわち、表向きは任意としながらも、制度そのものによって帝国内の意思を戦意高揚へと向けさせる、軍事偏重の政策に他ならなかった。


 舞台女優である妻を持つマクシミリアンにとって、こと舞台演劇の変質は、看過しがたいものであった。


 ――エルデンライヒ帝国はルガルディア大陸に覇を唱える偉大な国家である。


 ――戦場で武勲を立てることこそ男の至上の誉れである。


 ――戦う戦士たちのために、国に尽くせ。


 そうした、民意と価値観を露骨に刺激し、戦意高揚を狙う文言ばかりが並ぶ演劇予定表を目にしたとき、彼は眩暈を覚えた。さらに、戦意高揚にとどまらず、戦時国債の購入まで観客に促す徹底ぶりに激怒し、劇場の席を立ったのは、つい最近のことでもある。


 そして、それと反比例するかのように、敵国サンテルラン央王国に対する悪評が執拗に流布されていた。


 ――サンテルラン央王国は騎士王以来の侵略国家となろうとしている。


 ――正統ルガルディア帝国を滅ぼした元凶は彼らである。


 ――占領地では悪逆非道の限りを尽くしている。


 恐怖と憎悪を煽り、「共存は不可能である」と印象づけるための言説ばかりが並ぶ。これに対しても、マクシミリアンはただ白眼視するほかなかった。


 彼自身、サンテルランを訪れたことはない。ゆえに、語られている悪評のすべてが虚偽であるとは言い切れない。だが、その国には、彼の妹マリアが王妃として嫁いでいる。彼にとってサンテルランは、無条件に憎悪を向けるべき対象ではなかった。


 それゆえにこそ、これらの言説を疑いもなく受け入れていく民衆の姿に、彼は言いようのない寒気を覚えたのである。


 マクシミリアンは、かつてグラウエンシュタイン次期大公の地位にあった。しかし国政にも軍事にも関心を示さず、その野心と政務能力の欠如ゆえに、一族の中では例外的に寛大な処分を受けるにとどまり、生まれ故郷ノイ・ヴィーンの市長へと据えられた。


 政治的野心を持たないことは、市政を担う官僚たちにとってむしろ都合がよかった。彼は権力争いに関与せず、ただノイ・ヴィーンの芸術・文化・学問の振興に専念していればよい――そういう意味で、彼は“名君”であり得たのである。


 しかし、サンテルランとの戦争が始まって以来、これまで行政に口出ししなかったマクシミリアンも、次第に苦言を呈するようになった。嫌悪してやまないローゼンベルク式軍政、芸術の戦争利用、民衆の感情をいたずらに煽る言辞、そして強大な国権による圧力――そのいずれもが、彼の癇に障った。


 とはいえ、彼は側近たちや妻カトリンに感謝すべき立場にあった。彼のように反戦的な意識や帝国への不満を抱いた政府高官たちは、開戦以降、相次いで姿を消している。行方は知れず、まるで最初から存在しなかったかのように消息を絶つ者も少なくない。まるで裏で、不穏分子を密かに狩り立てる何者かがいるかのようであった。


 そうした不穏な情勢の中にあって、彼がいまだ無事でいられるのは、身近な者たちの働きによるところが大きい。彼らはマクシミリアンの無能さと移ろいやすい気質を、必要以上に周囲へ喧伝していた。危険視するに足らぬ人物である、と。


 その意味において、マクシミリアンは皮肉にも「長生きするタイプの政治家」であった。


 無論、不満を抱いているのは彼一人ではない。これまで恋愛劇や英雄譚を上演してきた舞台が、戦争一色へと染め上げられていくことに、関係者たちは少なからぬ不安を覚えていた。誰もが納得してその役を演じているわけではない。


 人気女優として名高いカトリンとて例外ではない。帝国財務相アーデルハイトを演じ、戦時国債の購入を観客に促す役どころに、何も感じていないはずがなかった。


 しかし、世論はそうではなかった。


 正統ルガルディア帝国が崩壊し、その後継として成立したエルデンライヒ帝国は、新たに国民となった者たちにとって、いまだ若い祖国に過ぎなかった。だが、この帝国の臣民となって以降、暮らし向きが向上したことは紛れもない事実である。


 彼らには、誇りが必要だった。


 限界と停滞、閉塞に苦しんでいた旧帝国から脱し、発展と進歩に満ちた新たな国家へ――努力と才覚次第で何者にでもなれると信じられるエルデンライヒ帝国という祖国を、自らにとって何よりも尊く、何者にも侵されぬ神聖な存在として信じたかったのである。


 ゆえに彼らは、父や夫、兄弟、息子、恋人、友人といった大切な者たちを戦火で失い、家計の担い手を欠いて困窮する生活に苦しみながらも、それでもなお戦い続け、勝利を目指す帝国のあり方を受け入れた。そして、そこに付随する耳障りのよい「名誉」「栄光」「偉大」という言葉を、何よりも重んじた。


 帝国が真に一体となって団結している――そう言えば聞こえはいい。だが実際には、熱に浮かされ、その犠牲すら肯定しているに過ぎない。


 それでも、彼らにはそれでよかった。白金色の皇帝と、その覇業を支える強大な軍部が、帝国のために戦っているのだから。彼らが敗れるはずがない――そう信じることこそが、不条理と不確実性に満ちた世界において、帝国臣民がかろうじて握りしめていられる確信だったのである。


 ゆえに、たとえ誰かが、あるいは多くの者が、この異様な状況に違和感や不信を抱いたとしても、それを止めることはできなかった。


 後世のある著名な政治学者は、国家の暴走を担う主体として、この時代のエルデンライヒ帝国を例に、3つを挙げている。すなわち、国家の指針を示す「君主」、国家運営を実行する「国家組織」、そしてそれを支持する「国民」である。


 破滅へと向かいかねない戦争を引き起こし、なお止められない段階へと至らしめるのは誰か。感情と熱に浮かされる国民か、それを理性と合理によって遂行する国家組織か、それとも国家の威信そのものとして最終責任を負う君主か――この問いは、後世においてもなお決着を見ていない。


 ただ一つ確かなのは、破滅的な戦争を止められない原因が、単一の要素に還元されることはない、という点である。


 感情も、理性も、威信も――そのいずれを欠いても、国家はおろか人間そのものが成り立たない。


 エルデンライヒ帝国が、サンテルラン央王国との大量の犠牲を伴う戦争を止められなかった理由は、あるいは、時代そのものの趨勢に、歴史の構造に、不可避な人間の営みに求められるのかもしれない。

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