第3章:国家総力戦②
「あ、生まれる」
――何が、とは誰も問わなかった。あまりにも明白だったからである。
「ア、アイゼンドルフ中佐!すぐ病院に!」
「いや待て、まず軍医だ!軍医を呼べ!」
「教官殿、とにかくお座りください!倒れられては一大事です!」
その場にいた若者たちは皆、激しく動揺していた。だが、当のシャルロッテは、むしろ誰よりも落ち着き払っている。
「大丈夫よ。生まれるまでには、案外時間がかかるものだから」
張りつめた腹を軽くさすりながら、彼女は訓練生たちに「課題を進めておくように」とだけ言い残し、すたすたと教場を後にしようとした。まるで昼食にでも向かうかのような気軽さで出産に臨もうとするその姿に、砲術学校の訓練生たちはただただ混乱するばかりであった。
シャルロッテは、ジークハルトとの第二子を身ごもっていた。長女リーゼロッテに続く新たな命の誕生に、ジークハルトはもとより、アイゼンドルフ家、さらには彼女の生家でもある砲術学校の関係者たちも大いに喜んだ。
しかし当の本人は、そうした祝福などどこ吹く風とばかりに、身重の体でなお軍務に就き続けていた。
現在の彼女の任は砲術学校の教官であり、前線に立つわけではない。それでも、女性であり、しかも妊婦が軍務に従事することに対して、参謀本部や陸軍省からは度々注意がなされていた。もとより女性の従軍に否定的な層も存在しており、シャルロッテは彼らにとって格好の非難の的であった。
だが戦況の悪化が、その声を一時的に封じた。サンテルランとの戦争により砲兵の需要は急増し、育成のための人材が強く求められた結果、彼女にも白羽の矢が立ったのである。機動戦闘団の砲兵隊指揮官を務めた実績、そして砲術学校を取りまとめるアイゼンドルフ家の出身という背景――そのいずれを取っても、適任であった。
姉御肌で面倒見もよく、兵たちからの信望も厚い。ゆえに彼女の教官としての着任は、むしろ歓迎されていた。
加えて、シャルロッテという女性兵士の存在は、象徴的なロールモデルとしての意味を持っていたとされる。これは軍事社会学でしばしば言及される「ロールモデル効果」の一例であり、男性中心の組織の中で成果を上げた女性兵として、彼女は軍務を志す女性たちの間で広く知られ、ひとつの参照点のような存在になっていた。
実際のところ、社会学、とりわけ軍事社会学の分野では、性差によって軍務を志す動機そのものに大きな違いは見られないのではないか、という見解がある。もちろん、体力的な差や、性別に伴う制度上・生理上の制約は無視できない。ただそれらは主に任務遂行の条件に関わるものであって、「兵士になろうとする動機」とはまた別の問題として扱われることが多い。
そのため、女性が兵士を志すこと自体は理屈の上では十分に説明可能だとされる。むしろ論点になるのは、その志向がどの程度社会の中で表に出てくるかという点である。
このあたりについては、社会構成主義的な考え方がよく参照される。つまり、人がどのような職業を選ぶかという傾向は、生物学的な要因よりも、「男性は戦うもの」「女性は守られるもの」といった社会的な役割意識や規範によって左右される部分が大きい、という見方である。その結果として、女性が軍に進む割合が相対的に少なく見えるのではないか、と考えられている。
もっとも、こうした議論のどれがどこまで正しいのかについては、後世においてもなお結論が出ていない。
いずれにせよ――そうしたさまざまな事情の中で、シャルロッテは日ごとに大きくなる腹を抱えながらも、教官としての職務を続けていたのである。
当初、彼女が批判や好奇の目に晒されていたのは間違いない。妊婦でありながら家で静養するでもなく、軍服に身を包み教壇に立つ――その姿は、多くの者にとって異様に映ったはずである。
だが、砲術学校の訓練生が皆そのような考えの持ち主だったわけではない。彼らの中には農村出身者も多く、そこでは妊婦が農作業に従事することも珍しくなかった。ゆえに抵抗感はさほど強くなかったのである。
加えて、シャルロッテの姉御肌の気質は教官という役割に驚くほど適合していた。尊敬を集めるまでに、そう時間はかからなかった。むしろ、十代で軍に入り、幼い弟妹を持つような家庭で育った者たちにとって、彼女はどこか故郷に残してきた母を思わせる存在でもあった。懐かしく、それでいて愛おしい――そんな感情すら抱かれていたのである。
だからこそ彼らは、陣痛が来るその時までシャルロッテを教壇に立たせてしまったことを、後になって強く悔やむことになる。
女性でもなく、出産に立ち会った経験もない彼らには、何をどうすればよいのか分からない。ただ右往左往することしかできなかったのだ。
ようやくのことでシャルロッテを砲術学校の医務室へと運び込んだ、そのとき――さらに追い打ちがかかる。
「あ、破水した」
あまりにもあっさりと告げられたため、訓練生たちは一瞬、その意味を理解できなかった。だが、それが出産間近を示すものだと気づいた瞬間、混乱は一層深まった。まるで幼い頃、弟や妹が生まれる場に居合わせたかのような狼狽ぶりである。
幸いにも医務室には常駐の軍医がいた。加えて、学校本部という立場もあり、シャルロッテの母ヘートヴィヒと妹アンネリーゼも駆けつけ、出産に立ち会った。前例こそなかったが、砲術学校での出産は決して不可能ではなかった。
そして――
オギャアァァ、オギャアァァ!!
陣痛が始まってからほどなくして、産声が砲術学校の校内に響き渡った。元気な女の子であった。
「やった……生まれた!」
「ああ、神様……」
「よかった……本当に……」
教場で課題を言い渡されていた訓練生たちは、もはやそれに手をつけられるような心持ちではなかった。皆どこか上の空で、ただ机に向かっているだけである。そこに響いた赤ん坊の泣き声は、彼らの胸に言葉にしがたい感情を呼び起こした。
それは、敬愛する教官に子が無事生まれたという、それだけの出来事ではない。
今は戦時であり、前線では万単位の戦死者が出ている。家族を失った者も少なくない。そして自分たちもまた、いずれその戦場へ向かうことになる――そうした緊張の中にある彼らにとって、その泣き声は、救いであり、喜びであり、そして確かな希望でもあった。
その夜、多くの者が故郷の母へ手紙を書いた。生んでくれたことへの感謝。これまで伝えられなかった想い。そして、必ず生きて帰るという決意を。
前線の兵士にとって一本の煙草が心を支えるように、これから戦場へ向かう彼らにとって、この出来事はかけがえのない支えとなった。
「何かお祝いしよう!」
「そうだな、俺たちにもできることを!」
そう言って教場を飛び出した訓練生たちは、訓練の名目で“祝砲”を放った。砲兵らしい、不器用で、それでも精一杯の祝福だった。
「うるさい!」
誰かの怒声が聞こえた気もしたが、彼らは意に介さず撃ち続けた。
イルムガルド・フォルラート――
その少女は、砲声に祝福されてこの世に生を受けたのである。




