第3章:国家総力戦①
「アドリアンよ、私は何かを誤ってしまったのだろうか」
エルデンライヒ=サンテルラン戦争の開戦から8か月が過ぎた初春のある日、皇帝ヴィルヘルムは帝国政策顧問官アドリアンにそう問いかけた。彼にとって、男とも女とも、若者とも老人ともつかぬその風変わりな人物は、政治哲学の師であった。
「珍しいこともあるものですねぇ。陛下がそのように弱気なことをおっしゃるとは」
道化師じみた奇抜な装いの政治思想家は、ゆっくりと紅茶に口をつける。
「やはりアルバレオン産の茶葉はよろしい。いかにも彼ららしい、下劣な味わいです」
「茶化さずに答えよ、アドリアン。私はこの帝国の在り方を損なってしまったのだろうか」
いつもは堂々と玉座に君臨する若き皇帝も、このときばかりは珍しく疲労の色を隠せずにいた。
「陛下、先の会戦における犠牲については、さほどお気に病む必要はございません。あれは陛下のご采配によるものではなく、軍の失策に起因するものです」
「その軍こそが問題なのだ。彼らは帝国の剣の鋭さを、あまりにも過信しすぎている」
ヴィルヘルムのその評価も無理からぬことであった。サンテルランとの戦争が始まって以来――いや、それ以前から、参謀本部の強権的な振る舞いは目に余るものがあった。開戦初期の大損害を含め、この1年にも満たぬ間に、エルデンライヒ兵は60万以上が戦死している。前代未聞の数字であった。騎士王戦争の時代においてすら、聞いたことのない規模である。さらに負傷者はその3倍以上にのぼる。到底、常識の範囲に収まるものではない。
「私はシュトラウセンの教えを守ろうとした。しかし、それを貫くには多くの兵の犠牲を覚悟せねばならぬ。前へ進むための犠牲であれば、やむを得まい。だが、この戦争のどこに前進があるというのか」
それは、ヴィルヘルムが抱くサンテルランとの戦争への、明確な非難であった。
アドリアンはただ静かに耳を傾ける。彼はヴィルヘルムの側近の中では珍しく、国政にも軍政にも関与しない純粋な相談役であった。ゆえに、ヴィルヘルムの愚痴ともいえる個人的な吐露に対して、何らのリスクを負うこともない。
「オーバーロル戦線における度重なる攻勢の失敗は、もはや看過できぬ。戦死者の遺族年金だけでも莫大な費用がかかっていると、アーデルハイトが苦言を呈している。戦時国債も同様だ。こんな無益な戦いのために、帝国臣民の貴重な財産が費やされている。まことに、無益な戦争だ」
「ごもっともでございます。陛下のお考え、いずれも反論の余地はございません」
淡々と応じるアドリアンに、ヴィルヘルムは珍しく苛立ちを覚えた。政治哲学と国家思想を授けてくれたこの道化師は、いつもはどこか飄々と、物事を笑い話へと転じてみせる。望んでいたわけではない。だが、あまりにも真面目な面持ちで返されると、かえって違和感と居心地の悪さを覚えてしまうのであった。
ゆえにヴィルヘルムは、自らを皇帝の座へと押し上げた張本人に問いかけた。
「アドリアン。今の私は、貴候の望んだ皇帝の姿か。これが理想とすべき帝国の在り方なのか。答えよ、アドリアン」
畳みかけるように問うヴィルヘルムに対し、アドリアンは明確に言い切った。
「その苦悩こそ、まこと正常な反応にございます。率直に申し上げて、この戦争は、これまでの常識が一切通用しないものへと歪に進化してしまいました。言い表すならば――精神の成熟を待たぬまま、図体と腕力だけを肥大させてしまった童の闘争、といったところでしょう」
「……それは、急ぎすぎたがゆえに生じた悲劇なのか?それとも人間という種は、いかなる時代にあっても、技術と文明、そして理性を使いこなせぬ獣にすぎぬということか?」
「その両方でございます」
アドリアンは、いかにも不味そうに紅茶を一口すすった。
「はっきり申し上げましょう。おそらく騎士王陛下がお隠れになってからの150年のうち、この10年はあまりにも濃密に過ぎました。本来であれば数十年を要する変化を、まるで途中の過程をすべて飛ばすかのように、一気に踏み越えてしまったのです」
それは、エルデンライヒ帝国という国家がわずか数年で成立したこと、そしてそれを支えた科学技術の急激すぎる発展を指していた。ヴィルヘルムが歴史の表舞台に立った頃、機関銃は存在せず、国家総力戦という概念すらなかった。数十年に及ぶ戦争はあり得ても、その全期間にわたり戦い続ける力を、人は持ち得なかったのである。戦の季節があり、全く刃を交えぬ年があり、君主や将が代わることで局面は移ろう――そうした未熟さゆえに辛うじて保たれてきた均衡が、この戦争によって大きく揺らいでいる。
その只中にあって、ヴィルヘルムが困惑し、自らの在り方を問い直さずにいられぬのも無理はなかった。アドリアンの言葉を借りるならば――「精神と身体が伴わぬまま、制御不能の激情に突き動かされる思春期」。ヴィルヘルムは、まさにその時代を生きていたのである。
「まこと愚かなことだ。歴史に学ばぬ者は愚者だというが……私もまた、その一人になるとはな」
「陛下、それは違います」
歴史から学べなかった己を自嘲するヴィルヘルムに、思想哲学の師はきっぱりと否を告げた。
「帝国はすでに、貴方様お一人で動かせる段階を超えております。ゆえに、この帝国と戦争において、貴方様が無関係であるとは申しません。しかし――それが本質ではないのです」
アドリアンは、祖国における一人の英雄を引き合いに出した。
「かつて大陸の大半を征服なされた騎士王陛下は、まこと偉大なお方でした。ですが、かの王がお隠れになったとき、遺された“帝国”は、その体躯を支えきれなかった」
彼は断言する。偉大な君主一人によって成り立つ大国家とは、骨格の育ちきらぬまま辛うじて立っている赤子に過ぎない――ゆえに、その支柱を失えば、自重すら支えきれず崩れ落ちるのだと。
「ゆえに、このようにも考えられます。此度の戦争は、未熟な精神と過大な体躯との矛盾を解消するための営みである、と。陛下お一人が背負うものではなく、軍が、帝国が、人間が、そして世界そのものが、それに見合う姿へと至るための成長期にある。これは――おぞましき成長痛にほかなりません」
「……それは、いささか達観に過ぎはしないか?積み上がる死屍累々を、世界の成長に必要な養分に過ぎぬと見なし、甘受せよと――貴候はそう言うのか」
その言葉は、亡きヘルマンの遺言をなぞるかのような響きを帯びていた。苗木が大樹となるために要する水と時間を、国家の流血によって賄うというのなら――それは少なくとも、ヴィルヘルムの哲学に反するものであった。
人類史を俯瞰するかのような物言いのアドリアンに、ヴィルヘルムは鋭く問い返す。もっとも、アドリアンにとってその反応すら、予期されたものであったが。
「結論から申し上げます。その通りにございます」
アドリアンは言い切った。それは不可避の、人間的営為の帰結であると。理性や理想の敗北ではなく、構造そのものがそうなっているのだと――ニヒルな笑みを浮かべながら。
「人間は、過去から何一つ学びません。理解したつもりになっても、それは書物の文言をなぞっているに過ぎず、それを以てより良い時代を紡ぐことはできないのです」
「忘れていたよ。貴候は人間嫌いであったな」
「ですが――まったくの無学というわけでもないようです」
アドリアンの瞳には、わずかな困惑が宿っていた。
「同じことを繰り返す対流の中にありながら、それでも人類は文明を前へと進めてきた。いるのです――時代を押し進める者が」
そう結論づけながらも、その声にはなお確信しきれぬ響きが混じっている。
「陛下は――そう在ることを望まれますか?」
ヴィルヘルムを射抜くその視線は、値踏みとは異なる。だが確かに、何かを見定めようとする光を帯びていた。
「……そう在れると思うか?」
「陛下がお望みになるならば」
そしてアドリアンは、再び騎士王を引き合いに出した。
「騎士王陛下がご重用なされた大砲は、当時“悪魔の武器”と呼ばれておりました。それまで、そのような破壊力を持つ兵器は存在しなかったからです。城を崩し、村を焼き、人を粉砕する――ゆえに憎悪の対象であった。しかし、陛下はそれをあえて用い、大陸の大半をその手中に収められた。すなわち、大砲によって世界を形作られたのでございます」
――あくまで文献上の話ではありますが。
そう付け加えて、アドリアンは微かに笑った。
「陛下が此度の戦争にご困惑なさるのも無理はございません。ですが、時代を前へ進め、歴史の因果から人類を解き放ちたいとお望みであれば――どうぞ、“世界”をお取りくださいませ」
その“世界”においては、皇帝の論理こそが絶対の正義であり、そのまま法則となる。アドリアンは、己の理想とする世界像を、夢見る若き皇帝へと静かに差し出した。
「ああ……そうだったな。でなければ、皇帝となった意味がない」
「左様にございます。立ち止まっている暇などございません。もっとも――」
再び鋭さを取り戻したヴィルヘルムの瞳を見つめながら、アドリアンは面白いものでも眺めるように口元を緩めた。
「陛下には、すでにお考えがあるのでは?」
「……うまくいくかは分からん。それが正しいことなのかも、自信はない」
「先ほどまでの御言葉を偽りにしたくないのであれば――どうか、傷つくことを恐れなきよう」
誰が傷つくのか、アドリアンはあえて言わない。彼にとって重要なのは、目の前の皇帝が歴史の輪廻に呑み込まれるか否か――ただそれだけであった。歴史に学ばぬ者は愚者であり、失うことを恐れる者は臆病者である。果たしてこの皇帝はどちらか。アドリアンの関心は、その一点にのみ注がれている。
「……私としては意外なのだが。貴候の祖国が、それによって滅びるやもしれぬのだぞ。少しの抵抗もないのか?」
「ええ、まったく」
アドリアンは、こともなげに答えた。
「かの国には、もはや騎士王陛下がおられませんので」
不遜な笑みが、その口元に浮かんだ。




