第2章:ルーカス・クルーガー④
もう、何も考えられなかった。
「負傷兵を担架に乗せろ!歩ける者はそのまま後方へ下がれ!」
「持ち場に戻れ!前方警戒を怠るな!」
塹壕の中は、戦闘直後の怒号に満ちていた。皆、ふらつきながらも忙しなく動き回っている。その様子が、ぼやけた視界にもかろうじて映る。
だが、ルーカス・クルーガーには、それが現実の光景とは思えなかった。身体の力が抜け落ちるのに引きずられるように、意識もまた空虚だった。
「大丈夫か、新兵?」
肩を叩かれ、その声でようやく意識が引き戻される。
「はい……怪我はありません……」
幾度もの爆発に巻き込まれ、有刺鉄線に足を取られた。それでも、幸いにもルーカスは無傷だった。声をかけた兵士は「運がいいな」と言い、再び肩を叩いた。
しばしの沈黙ののち、ルーカスは重くなった首を左右に動かし、ある人物の姿を探した。
「グロスマン軍曹は、どちらに……?」
兵士は気まずそうに目を逸らした。
「戻っていないそうだ」
その意味は、新兵のルーカスにも分かった。あの地獄の中で“戻っていない”ということは、つまり――そういうことだ。
「そんな……」
今さらながら、後悔が胸を締めつける。
グロスマン軍曹は直属の上官で、昨日配属されたばかりのルーカスに何かと気をかけ、助言を与えてくれた人物だった。だがルーカスは、その言葉の多くを聞き流していた。
それでも彼の教えは命を救ってくれた。ちゃんと聞いておくべきだった。感謝を伝えるべきだった――そう思わずにはいられないほど、この半日足らずの出来事は重かった。
愕然とするルーカスを見て、兵士はグロスマンについて語り始めた。
かつてグラウエンシュタイン軍に所属し、アルトグレーツの戦いを生き延びた古参兵。真面目で面倒見がよく、部下から慕われる下士官。そして、サンテルラン軍との戦いが始まってからは、常に最前線に立ち続けてきた歴戦の兵士――。
なんと立派な人物だったのか。つい数時間前まで、取るに足らないことばかり言う下士官だと思っていた自分が恥ずかしくなる。
だが同時に、思い知らされる。
それほど誠実で、数多の死線をくぐり抜けてきた兵士であっても、戦場はあまりに容易く命を奪う。
その死は、英雄譚のようなものではない。
どこで死んだのかも分からず、無数の死体の一つとなって、今もあの戦場に転がっているのだ。
まるで消耗品のような最期――そんなものは御免だ。
ルーカスは、ただ戦慄した。
「警戒任務に就かんか!敵の逆襲を受けたらどうする!」
見回りの士官が怒鳴りつける。喪失感に沈む兵士たちなど、まるで意に介さない。
思わず反抗的な視線を向けてしまったのかもしれない。隣の兵士がルーカスの鉄帽をぐいと引き下げ、士官の視線からかばった。
「新兵、鉄帽は替えたほうがいい。小銃も失くしたんだろ?」
「はい……でも、どこに申請すれば……」
「その辺のを使え。好きなのをな」
顎で示された先には、塹壕に転がる兵士の死体があった。
「もうそいつらには必要ない。軍は気前がいいわけじゃないからな。使えるものは現場で調達しろ、ってことだ」
一瞬、抵抗を覚えたのは確かだった。
だが感覚のどこかが麻痺していた。ルーカスはしばらく立ち尽くしたのち、息絶えた兵士から鉄帽と小銃を外した。
よく見ると、それは若い兵士の亡骸だった。自分と同じ時期に配属された新兵――だから装備も新品だった。
その装備を、いつの間にか周囲の兵士たちが群がるように剥ぎ取っていく。まるで餌に集まるカラスの群れのように。
ルーカスは、生理的な嫌悪感を覚えた。
それが、新品の装備を狙っての行為だと気づいたとき、なおさらだった。
「こんなんなら、戦場には来たくありませんでした」
「新兵、思うのはいい。だが、口に出すな」
兵士は再び顎で視線を促した。
ルーカスが目を向けた先にあったのは――
「戦いたくない!」「家に帰りたい!」
そう泣き叫ぶ兵士たちが、士官によって次々と射殺されている光景だった。
突撃命令を無視し、塹壕から出なかった者たちだという。
その処罰は即決で、しかも誰の目にも分かる形で執行されていた。
ルーカスは、思わず口を噤んだ。
自分もああなりたくない――ただ、それだけだった。
彼らに同情がないわけではない。
だが、多くの兵士が恐怖を押し殺して塹壕から飛び出した中で、自分だけ安全に留まろうとした行為は、やはり反感を招くものでもあった。
幸か不幸か、ルーカス自身はむしろ戦場へ出ることを望んでいた。だから、その場では踏みとどまることはなかった。
だが、この経験を経た今、もう一度行けと言われれば――強い抵抗を覚えるだろう。
その矛盾した思いは、単純な言葉にできるものではなかった。
複雑に絡み合った感情が、ルーカスの口を閉ざしていた。
「いいか、新兵」
その内面を見透かしたように、先輩の兵士が静かに言った。
「生き残ることだけを考えろ。英雄になろうなんて、絶対に思うな」
昨日聞いていれば、臆病者の言い訳だと切り捨てていたに違いない言葉だった。
だが今は、素直に受け入れるしかなかった。
「どれだけ勇敢でも関係ない。撃たれるときは撃たれる。敵も味方も同じだ。
この戦線が動かないのは、勇気や能力が足りないからじゃない――そういう場所なんだよ、ここは」
ルーカスも、それに頷くしかなかった。
戦術も作戦もあったものではない。ただ兵力を投げ込み続けるだけの戦場で、どれだけの命が失われたのか見当もつかない。だが、そんなやり方で突破できる未来が見えないことだけは、はっきりしていた。
「はい……」
たった一日で、ルーカスの中の英雄像は崩れ去った。
放った弾はわずか7発。戦果と呼べるものは、暗闇の中で聞いた敵兵の悲鳴だけ。
立ち止まってくれた工兵の命と引き換えに生き延び、助言をくれた上官には感謝すら伝えられなかった。
そして自分は、これからもこの塹壕に留まり続ける。
それは、英雄を夢見ていた若者の価値観と死生観を打ち砕くには、あまりにも十分すぎる現実だった。
やがて兵士は、朝方まで武勲を立てると豪語していた新兵に向き直り、静かに告げた。
「ようこそ、オーバーロル戦線へ」
エルデンライヒ=サンテルラン戦争の主戦場、アルツベルク=ローレナウ地域の戦線は、「長期塹壕線」と呼ばれる戦争形態をとっていた。
両軍は塹壕と防御線を築き、長期間にわたって対峙し、攻防を繰り返す――そんな消耗戦が続いていたのである。
しかし、それはすべての戦線に当てはまるわけではなかった。
全長300㎞を超える塹壕線は、地点ごとに戦い方も戦略的価値も大きく異なっていた。
たとえば南東の「マルネー戦線」。ここはサンテルラン本国の国境に築かれた警戒線と防御陣地によって、強固な要塞線を形成していた。
サンテルラン軍にとっては極めて有利な戦線であり、エルデンライヒ軍も攻撃には慎重にならざるを得なかった。
一方でサンテルラン側にとっても、ここは絶対に突破を許せない本土防衛線である。
そのため戦争初期の大会戦以降、両軍による大規模な衝突は起きていない。
要塞攻略という不利を背負うエルデンライヒ軍と、戦力を他戦線に回したいサンテルラン軍――両者にとって、ここで戦端を拡大する余裕はなかったのである。
アルツベルク=ローレナウ地域の中央を走る中央塹壕線も、比較的静穏だった。
ここは主要二戦線をつなぐ中継地帯であり、仮に中央突破を図っても、左右の戦線から挟撃を受ける危険が常につきまとったからである。
実際、かつて大攻勢によって一時的に突破が試みられたことはある。
しかしその結果は、両翼からの反撃と本国からの増援による激戦に終わり、以後は示し合わせたかのように両軍とも大規模攻勢を控えるようになった。
長大な戦線を維持し続ける負担を考えれば、それは合理的な判断でもあった。
では、両軍が戦略的に最も重視し、戦力を集中させた戦線はどこか。
それが北西の「オーバーロル戦線」である。
ここは両国国境の北端に位置し、セプテンデルを含む三国国境が交わる要衝であった。
さらにこの地域の戦争において、エルデンライヒにとっては「残された奪還目標」、サンテルランにとっては「絶対に失ってはならない防衛拠点」という意味を持っていた。
軍事的に見ても、その価値は明白だった。
膠着した戦線の端にあたるこの地点を突破すれば、敵戦線の側面、さらには後背に回り込むことができる起点となるのである。包囲殲滅すら視野に入る、決定的な位置である。
南東に強固なマルネー要塞線を抱える以上、その役割は必然的にこのオーバーロル戦線に集中することとなった。
すなわちこここそが、二大国の命運を分ける決戦の地であった。
両軍は突破を目指し、絶えず兵力を投入し続ける。
戦力回復のための小康状態はあれど、その本質は終始変わらない。
まさに激戦地――その名にふさわしい戦場であった。
ルーカス・クルーガー二等兵は、自ら望んだその“激戦地”に配属された。
もっとも、それが本当に望み通りのものであったかは、もはや疑わしいが。
彼は、この地でなお3年以上戦うことになる。
なぜなら――彼は、兵士だったからだ。




