第2章:ルーカス・クルーガー② ⚔
ルーカスは興奮のただ中にいた。
「いいか!ラッパの合図で一斉に塹壕を出て、敵陣に突撃せよ!」
塹壕には、ルーカスと同じような兵士たちが所狭しとひしめき合っている。その狭い通路を、士官と思しき男が大声で命令しながら歩いていた。
戦場に鳴り響く砲撃は、突撃支援のためのエルデンライヒ軍重砲によるものだった。昨日サンテルランで聞いたそれとは違い、ルーカスにはむしろ爽快さすら感じさせる音だった。
顔色の悪い者、無表情な者、興奮で手を震わせる者――反応はさまざまだ。ルーカスはその中でも後者に属していた。もっとも、そうした反応を見せるのは、配属されたばかりの新兵がほとんどである。未知への不安と、それを打ち消そうとする昂揚が入り混じり、自制が効かなくなっているのだ。
だがルーカスは、彼らとは少し違っていた。確かに不安がないわけではない。だがそれ以上に、「ついに戦場に立てる」という高揚が、胸の内を満たしていた。
数十分にも及ぶ支援砲撃が、次第に耳障りに感じられ始めた頃、人混みをかき分けてグロスマン軍曹が現れ、新兵たちに声をかけて回った。
「いいか。外に出たら絶対に密集するな。できる限り散開しろ。それから、途中で小銃を撃とうなどと思うな。怖くても、とにかく前へ走れ」
緊張をほぐそうとしているのか、それとも新兵には戦いは無理だと見切っているのか――グロスマンは同じ言葉を繰り返した。
密集するな? 撃つな? 怖いかもしれない?
ルーカスは鼻で笑った。教育隊で教わったのは、突撃時には戦力を集中させ、突破力を高めるという戦法だったはずだ。銃も撃たずに、どうやって戦うというのか。今さら怖がるなど臆病者のすることだ――自分は違う。
ただ一つ、「とにかく前へ走れ」という言葉だけは気に入った。それこそが勇敢さの証であり、何より“戦っている実感”を得られそうだったからだ。
グロスマンの言葉は、ほとんど耳に入ってこなかった。
「突撃、30秒前!」
士官の声が響く。ルーカスは、震える手を抑えきれなかった。
ここから自分の英雄譚が始まる――ただそれだけを考えていた。
塹壕を飛び出せば、そこには夢にまで見た栄光の戦場が広がっている。そして自分は、輝かしい戦果を上げるのだ。
英雄になったあとはどうするか。村へ帰って自慢するのもいい。エルデンライヒ軍人として羨望の眼差しを浴び続ける人生も悪くない。多くの女性が自分に魅了され、軍人になることを反対した家族を見返すこともできる。
そんな空想に、彼はわずか30秒のあいだ浸っていた。
――それが、どれほど幸福な時間だったことか。
その時は、ついに来た。
「突撃にぃぃ――!」
兵士たちの身体に力が宿る。
「前へぇぇ!!」
勇ましい号令と、響き渡るラッパの音。それを合図に、兵士たちは梯子や足場を駆け上がり、塹壕の外へと飛び出した。
――夢の舞台へ。
そう信じて。
「うっ……!」
ルーカスの前にいた兵士が、身体を半ば塹壕の外へ乗り出した瞬間、そのまま後方へ崩れ落ちた。
続こうとしていたルーカスは勢いを止めきれず、正面からその兵士にぶつかる。
「……え……は?」
何が起きたのか分からない。狼狽するルーカスの背を、巡回していた士官が強く叩いた。
「止まるな!!早く出ろ!!」
怒号に押されるまま、ルーカスは前へ出た。梯子に足をかけ、よじ登る。
そして――目にした。
「なんだ……これ……」
そこは荒廃に満ちた平原だった。だが空は鉛のように重く濁り、青はどこにもない。世界は灰色に沈んでいた。
地面はさらにひどい。掘り返された土がむき出しになり、無数の杭と黒ずんだ鉄線が突き立っている。至る所が砕け、抉られ、とても走れるような状態ではない。
そして、その凹凸の傍らには――必ずと言っていいほど、軍服を着た“肉”が転がっていた。
これが戦場なのか。
そう思った、その一瞬。
ドバァンッ!!
目の前の地面が爆ぜた。小さな噴火のように土が吹き上がり、ルーカスの顔面に叩きつけられる。
「くそ、汚ねぇな……」
顔を拭おうとする。だが、べっとりと張り付いたそれは簡単には取れない。何度も手を往復させて――ようやく気づいた。
「血……?」
それは泥ではなかった。
爆散した兵士の体液。真っ赤ではない。黒ずみ、濁った、どす黒い色。
かすり傷で流れる血とはまるで違う。身体の奥を巡っていたものが、外に晒された“本来の姿”。
あまりに多くの出来事が、あまりに短時間に起きすぎていた。
「止まるな!!走れ!!」
怒声に押されるように、ルーカスも走り出した。
つい先ほどまで抱いていた英雄譚など、跡形もない。ただ、わけも分からぬまま足を動かす。
穴だらけの地面。音もなく倒れていく兵士たち。遠のいた耳にもなお響く砲声と銃声。
それが、彼の世界のすべてだった。
「くそ……遠い……」
走りながら、ルーカスは初めて知る。敵陣は、思っていたよりはるかに遠い。
すぐ目の前などではない。小銃では到底狙えない距離が、そこにあった。
足場の悪い地面を蹴り、走る。
敵陣からは絶え間なく砲撃が降り注いでいた。距離を詰めるほど、その密度は明らかに増していく。
途切れない射撃音。耳元をかすめ、空気を裂く音。
そして――一団が、ほんの2秒ほどで崩れ落ちる。
横目にそれを捉えた瞬間、グロスマン軍曹の言葉の意味をルーカスはようやく理解した。
ここまで、ルーカスは一発も撃っていない。撃つ暇などなかった。
立ち止まれば、死ぬ。
それが直感で分かるほど、この場は苛烈だった。
「なんだよ、これ……なんなんだよぉぉ!!」
叫びと同時に、砲弾がすぐ脇をかすめ――
バァァァンッッ!!
爆音が、世界を引き裂いた。
「……ッ!?」
衝撃波が背中を押し、身体が宙に浮く。
次の瞬間、地面に叩きつけられた。
「カハッ……!」
肺の空気が強制的に吐き出される。息ができない。
口をぱくぱくと開閉し、必死に空気を求める。それしかできない。
酸素の足りない頭で、ルーカスは理解する。
「地獄だ……これが……」
もはやそこに、想像していた英雄の姿はなかった。




