第2章:ルーカス・クルーガー①
兵士になる理由は、語られるほど立派なものばかりではない。
国家に尽くしたい。家族や大切な人を守りたい。父祖から受け継いだ土地や誇りを守りたい。
そうした矜持を持つ者はよく語られ、それこそが兵士になる最も純粋な動機だと考える者も多いだろう。
しかし、それだけではない。
行き場を失い、軍に流れ着いた者もいる。家族を養うため、あるいは捨てるために、望まぬまま、その道を強いられた者もまた存在する。
そしてまた、一部の者には理解も共感もされない動機がある。
それは――名誉だ。
武勲を立てたい。自分が“何者か”であると証明したい。英雄として名を残したい。
ある意味では純粋な、“戦うための動機”を抱く者もいる。
当時、それは決して珍しいものではなかった。
ローゼンベルク王国の国是を色濃く受け継ぐエルデンライヒ帝国において、兵士となり戦場へ赴き、武勲を立てて昇進し、英雄となることは称賛されるべき道だった。
特別な才能を持たぬ者でも、身一つで掴み取れる夢でもあった。
戦場は英雄を生み出す。
それが自分かもしれない――いや、自分こそが祖国の英雄になるべき戦士なのだ。
そんな心地よい錯覚に酔う者は、決して少なくなかった。
エルデンライヒ帝国領となった、とある農村で平凡に暮らしていた青年ルーカス・クルーガーもその一人である。
彼は兄弟たちと小麦畑を耕し続けるだけの人生に、うんざりしていた。
土にまみれて生きる父の背中を、自分もなぞるのかと思うと吐き気がした。
そんな退屈な生を望んだことなど、一度もなかった。
だからこそ、村に掲げられた志願兵募集の触れ込みに真っ先に飛びついた。
兵士となり、戦場へ行くことを望んだのだ。
それは決して彼だけではない。
徴兵を嘆き、顔を歪めて連れていかれる者たちを除けば、多くの若者にとってそれは悪くない話だった。
数か月の訓練を経て、彼は歩兵として前線へ送られることになる。
行軍の間、彼の胸は誇りで満ちていた。
自分は帝国のために宿敵サンテルランと戦う戦士であり、武勲を立て、勲章を携えて帰郷し、英雄として迎えられる――その未来を疑いもしなかった。
隊列を組む新兵たちの多くも、同じ感覚を共有していた。
軍歌を張り上げ、乾いた土を踏み鳴らしながら、訓練された歩幅で進む。
その瞬間だけは、彼らは確かに英雄だった。
これほど喜び勇んで戦場へ向かい、国家のために戦おうとする若者たちを、英雄と呼ばずして何と呼ぶべきか。
だが――前線に辿り着いたとき、彼らはもはや“英雄”ではなくなる。
そこでは、英雄など必要とされていなかった。
彼らの多くは、英雄と呼ばれる前に死ぬ。
戦場はもはや武勲を立てる“戦士”を求めてはいない。
求められているのは、絶え間なく補充される“兵士”だった。
ルーカス・クルーガー二等兵がその事実に気づいたのは、前線に到着した翌日――小銃弾を7発撃った後のことだった。
まず目に入ったのは、ぬかるんだ泥と、周囲が崩れぬように積み上げられた土嚢と木組みが支配する空間だった。
「クルーガー二等兵、お前の持ち場はここだ」
そう言われて案内されたのは、目印らしいものもない通路の脇だった。新品の軍靴が泥に汚れていくのに顔を歪めながら、ルーカスは自分が“外れ”の戦線配置を命じられたのだと内心で悪態をついた。
そこはセプテンデルとの国境にほど近いオーバーロル戦線の一角。“激戦地”の一つとして知られており、ルーカスも配属を熱望していた。だが、いざ来てみればあまりにも静かで、地面に掘られた穴と通路の中でどう戦えというのかと困惑するばかりだった。自分が望んだ戦場とは違う。経験の浅い新兵だから希望が通らなかったのだろうと、彼は無理やり自分を納得させる。
――ならば、ここで武勲を立ててやる。
早く実戦に身を投じ、功績を上げて、必ずや本当の激戦地へ転属する。ルーカスはそう心に決めた。
「聞いたぞ、クルーガー二等兵。お前さん、射撃の腕がいいんだってな」
虚ろな表情で押し黙る塹壕の中で声をかけてきたのは、グロスマン軍曹だった。彼はルーカスの直属の上官であり、この周辺の兵士たちが属する分隊の長である。
「はい、教育隊では一番でした!」
ルーカスは『フォーゲル小銃FV76』を誇らしげに掲げた。
彼は射撃の才能に恵まれていた。初めて銃を手にし、弾を込めて引き金を引いたそのときから、自分の腕が他の訓練生より優れていると分かった。教育隊では複数の科目で成績が評価されるが、射撃は特に比重が高い。ルーカスはそこで群を抜く成績を収め、上位の席次で課程を修了した。その結果、配属任地の希望も通りやすくなっていた。
威勢のいい若造が来たものだ――グロスマン軍曹を含め、周囲の兵士たちは皆そう思ったが、咎める者はいなかった。使い物にならないよりはずっといい。
ルーカスは聞かれてもいないのに、自分のことを語り始めた。
立派な兵士となって武勲を立てたいこと、教育隊で見かけた将校のように騎士候勲章をもらいたいこと――夢を次々と並べ立てる。さらには、故郷の村で自分に嫉妬した者の話や、自分に惚れていた幼馴染の女を捨ててやったことまで、得意げに語った。
誰も特に聞きたくはなかったが、娯楽の乏しい塹壕では、それでも暇つぶしにはなった。多少の不愉快さはあったものの、止める者はいなかった。
それが遮られたのは、砲声が響き渡り、泥土が激しく跳ね上がった瞬間だった。
「え⁉」
「伏せろ、二等兵!敵の砲撃だ!」
グロスマンの怒声に、ルーカスは慌てて鉄帽を押さえ、身を屈める。先ほどまでの自信に満ちた姿は消え失せ、終わりの見えない砲撃の中で、彼はみっともなく身を縮めていた。
「逃げないんですか⁉ここにいたら危険です!」
砲撃音に負けじと叫ぶルーカスに、近くの兵士が答えた。
「逃げるってどこにだ、新兵⁉砲撃はこの一帯に撃ち込まれてる!せいぜい、自分のところに落ちてこないことをルガリスにでも祈るんだな!」
その言葉が真実であることを、ルーカスは思い知らされる。塹壕は一直線ではなく、敵の侵入や砲弾の直撃で全滅しないよう、幾度も折れ曲がっている。全体を見渡すことはできないが、少なくとも視界に入る兵士たちの中に逃げ回る者はいない。ただ身を低くし、耳を塞ぎ、あるいは各々の神に祈っていた。
「ようこそ、オーバーロル戦線へ!」
グロスマンは、怯えきったルーカスを見て茶化すように言った。
言い返したい気持ちはあったが、初めての実戦にそんな余裕はなかった。
「これは、いつまで続くんですか⁉」
今にも泣き出しそうな声で、ルーカスは叫ぶ。
「さあな。夕暮れまでか、明日の朝までか――サンテルランの連中に聞いてくれ」
「でも、砲撃のあとには敵が来るんじゃ……教育隊ではそう習いました!」
「よく知ってるな。そうだ、砲撃のあとには歩兵が突っ込んでくる。だが安心しろ。今は来ない」
その言葉に、ルーカスは少しも安心できなかった。
グロスマンは続ける。
「奴らも、“出し尽くしたばかり”だ。今は来られないさ」
その意味を、ルーカスが知るのは翌朝になってからだった。
「いいか、撃ったら、すぐに伏せるんだ」
グロスマンにそう言われ、ルーカスは初めて塹壕から顔を出した。とはいえ外は完全な闇だ。月のない新月の夜で、視界はほとんど利かない。ところどころ砲撃の名残で火が燻っているが、それ以外に光源はなく、見張りといっても何も見えなかった。
「……これじゃ戦果なんて稼げたもんじゃないな」
誰も聞いていないのをいいことに、ルーカスは小さく愚痴をこぼした。
彼が思い描いていたのは、志願兵募集のポスターにあったような、勇敢に戦場を駆ける兵士の姿だ。夜陰に紛れて塹壕から頭だけ出し、ただ見張りをする自分の姿とはあまりにもかけ離れている。情けなささえ覚えた。
それでも他にやることはなく、彼は律儀に見張りを続けていた。本来なら誰もやりたがらない役目だが、娯楽のない塹壕では、それすら時間潰しになる。
そんな折、視界の端にかすかな揺らめきが映った。
「ん……?」
目を凝らす。暗闇の奥、遠くに何かが動いた気がした。気のせいかとも思ったが、一度そう見えてしまうと、人影にしか思えない。
報告するべきか――ルーカスは一瞬迷った。だが、その距離は遠く、教育隊で射撃訓練をしていた標的と同じくらいに感じられた。
もし見間違いだったらどうなるか?
昼間の砲撃で見せた醜態もある。ここで「敵影を見た」などと言えば、笑い者になるだけだ。
だったら――
ルーカスは銃を構えた。
それは使命感というより、自尊心に突き動かされた行動だった。仮に勘違いでも、咎める者はいない。
パァンッ!
一発の銃声が闇を裂く。
――そして。
ァァァ……!
かすかな悲鳴が、確かに聞こえた。
「……やった?やったのか⁉俺の初戦果だ!」
全身に熱が走る。これまでの鬱屈が一気に晴れるような高揚感。小銃の反動と硝煙の匂いすら心地よく、ルーカスはその余韻に浸った。
グロスマンの忠告も忘れて。
「それ見てみろ!俺だっ――」
カァンッ!!
激しい衝撃が頭部を打った。
「二等兵⁉大丈夫か⁉」
グロスマンの声で、ルーカスは意識を引き戻される。
「……え?なにが……」
「馬鹿が!撃たれたんだよ!こいつのおかげで助かっただけだ!」
乱暴に頭を叩かれ、ルーカスはようやく状況を理解する。グロスマンが外した鉄帽の側頭部には、弾痕が残っていた。
「鉄帽が……?」
「そうだ。言っただろうが。撃ったら伏せろって。発射炎で位置がバレる。撃ち返されるんだよ」
ルーカスの背筋に冷たいものが走る。功を焦った軽率な一発が、自分の命を奪いかけたのだと、今さら理解した。
「他に怪我はないか。立てるか?」
気遣うグロスマンを見つめながら、ルーカスはか細い声で言った。
「……ずっと、こんなことを?」
昼は砲撃に耐え、夜は闇の中で身を晒す。撃てば撃ち返され、少しの油断で死ぬ。思い描いていた戦場とはまるで違う現実に、ルーカスの胸に広がったのは、ただの絶望だった。
グロスマンはしばらく黙り込んだ。
「……いや。明日の朝は違う」
言いにくそうに、ぽつりと続ける。
「攻撃だ。敵陣に出る」
その言葉に、ルーカスの顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか⁉やっと戦えるんですね!」
塹壕に張り付くこの戦いより、前に出て戦う方がよほど“戦場らしい”――そう思えたからだ。
グロスマンは、そんな彼をどこか気の毒そうに見たが、それ以上は何も言わなかった。
遠足を前にした子どものような高揚を胸に、ルーカスはその後も見張りを続けた。
もっとも――その夜、再び引き金を引こうとは思わなかったが。




