第1章:開戦④
それは、個人の判断に依拠した決断であった。
「我が左翼軍は前進しない。現状では戦況を見極めることこそが賢明だ」
サンテルラン左翼軍60万を指揮する司令官サン=マルタン元帥の命令である。
この命令に、彼の幕僚や指揮官たちは困惑した。エルデンライヒからの宣戦布告が通達され、いよいよ両軍が雌雄を決するべく正面衝突しようとしているこの時に、目の前の貴族軍人は一体何を言っているのか――そう思わずにはいられなかったのである。
部下たちは再三にわたり進言した。しかしサン=マルタン元帥は耳を貸さず、防御態勢の維持のみを厳命した。
ラ・ロシュ元帥率いる右翼軍が大胆な快進撃を見せ、サンテルラン軍の威信を示しているというのに、その半数の兵力しか割り当てられていない左翼軍は、ただ展開地に留まるばかりで、一向に前進しようとはしなかった。
それは右翼軍との連携行動であったのか――否である。
シャルル英傑王からの特別な命令があったのか――否である。
では、彼自身に何か策があったのか――それもまた、否であった。
サン=マルタン元帥には、この状況を打開する名案も策謀も存在しなかった。つまり彼は、純粋に自身の感情的な判断によって、エルデンライヒ軍との積極的な交戦を避けたのである。
そこには、一つのトラウマとも言うべき失敗への恐怖があった。
先のエルデンライヒ=セプテンデル戦役において、サン=マルタン元帥は方面軍を指揮し、マールスドレヒト要塞攻防戦でエルデンライヒ軍と交戦している。
当時の彼は、強い焦燥に駆られていた。
同僚であるラ・ロシュ元帥は、かつてのセプテンデル独立戦争で敗北を喫していたとはいえ、依然として高い名声を保っていた。さらに、植民地戦争で名を馳せた最大のライバルであるガブリエルも本国へ帰還していた。
そのような状況の中で、サン=マルタンは何としてもシャルル英傑王に認められる戦功を挙げ、彼らより抜きん出ようと考えたのである。
その舞台として選ばれたのが、マールスドレヒト要塞攻防戦であった。
だが、それは英傑王からの正式な命令によるものではなかった。
王が与えたのは「機を見て攻めよ」という、発破に近い口頭の言葉に過ぎなかったのである。
そして、その結果は惨憺たるものであった。
功を焦ったサン=マルタンの攻勢は失敗に終わり、たった一度の会戦で5千名以上の兵士を失った。さらに、その敗北は外交の席においてまで影響を及ぼし、彼は政治的にも大きな失点を被ったのである。
これは彼にとって、あまりにも大きな痛手であった。
シャルル英傑王は、この件をラ・ロシュ元帥の過去の敗北と合わせ、「両者一敗ずつ」と評した。
しかし、その評価の受け止め方は両者でまったく異なっていた。
ラ・ロシュ元帥は戦果によってそれを雪ごうとした。英傑王に勝利を献上するため、大胆とも言える大規模進撃を敢行したのである。
一方、サン=マルタン元帥は違った。彼が導き出した結論は、「敗北しないこと」であった。
すなわち、再び積極攻勢に出て失態を演じるくらいなら、戦わない方が良い――そう考えたのである。エルデンライヒ軍との交戦を可能な限り避ける。それが彼の選んだ道であった。
臆病風に吹かれたと言ってもよいこの姿勢は、当然ながら部下たちの不評を買った。
しかし皮肉なことに、その消極的な判断が、結果として思わぬ方向へ戦局を転がすことになったのである。
「司令官!エルデンライヒ軍の部隊が接近しつつあります!その数、少なくとも20万!」
「20万⁉ そんな大軍勢を送り出してきたのか……」
サン=マルタン元帥は思わず生唾を飲み込んだ。
彼はこれほどの軍勢を相手に戦った経験がなかった。さらに右翼軍が壊走したという報告も入っている。状況を考えれば、不安に駆られるのも無理はなかった。
「いかがなさいますか?」
幕僚が命令を促す。だがその声は、彼の耳にほとんど届いていなかった。サン=マルタンはうわ言のように、小声で命じた。
「……迎撃態勢を整えなさい。速射砲も機関銃も、とにかく並べて応戦するのです……」
「……了解しました」
命令を聞き取った部下は、戦う前から戦意を失っている司令官の様子を見て、これは駄目だと首を振りながら司令部を出ていった。
攻勢主義を誇るサンテルラン軍が聞いて呆れる――そう悪態をつきたくなるほど、その命令は彼らにとって屈辱的なものであった。
しかし、奇しくもそれが功を奏することになる。
「……撃退できている?」
伝令兵から戦況を聞いた幕僚の一人が、思わず聞き返した。
「はっ! 栄光あるシャルル英傑王陛下の我が軍は、憎きエルデンライヒ軍に対して優位を取り、応戦しております!」
「……本当か?エルデンライヒ軍の欺瞞攻撃ではないのか?」
「はっ! 前線ではデュラン機関銃によって進撃を食い止め、敵を一歩も近づけておりません!」
守勢に回ったサンテルラン軍がエルデンライヒ軍の攻撃を凌いでいる――その報告を、司令部の幕僚たちはすぐには信じられなかった。
前線の兵士が奮戦しているのだろう。あるいは3倍に及ぶ兵力差が何とか支えているのかもしれない。
彼らはそんな解釈をしていた。
だが、真偽を確かめるために天幕を出て前線へ視察に赴いた瞬間、幕僚たちは言葉を失った。
「……なんだ、これは……」
彼らの目に映ったのは、まさに“地獄”であった。
「あれは……すべて敵兵の死体なのか?」
思わずそう問いかけると、現場指揮官が答えた。
「はい。突撃を敢行してきたエルデンライヒ軍を、リュミエール速射砲とデュラン機関銃で撃退いたしました!」
その言葉を、今度こそ幕僚は疑わなかった。
平原を埋め尽くすように転がる死屍累々。そのすべてがエルデンライヒ軍の軍服を身につけていた。今にも起き上がりそうなほど綺麗な遺体もあれば、砲弾によって肉片となり原形を留めていないものもある。
それに対し、サンテルラン軍の損害は軽微であった。
直接戦闘における優位は、疑いようもなかった。
しかし、幕僚たちの胸を満たしたのは、勝利の高揚よりもむしろ戸惑いであった。
自軍60万と敵軍20万が衝突したというには、あまりにも呆気ない結末だったからである。
彼らが想像していたのは、大軍同士の激突による壮絶な乱戦であった。だが目の前にあるのは、ただ一方的に積み上げられた死体の山であった。
もっとも、その理由を見つけるのは難しくない。
そもそも攻勢に出たエルデンライヒ軍は歩砲連携による突撃を試みたものの、直接戦闘においてはサンテルラン軍に分があった。しかもサンテルラン軍は、3倍の兵力を持ち、防御態勢を整えた状態で迎撃していたのである。
純粋な軍事的観点から見れば、「防御側」「3倍の兵力差」「技術的優位」――サンテルラン軍の勝利条件は、ほぼすべて揃っていた。
さらに幸運なことに、かつてマールスドレヒト要塞攻防戦で猛威を振るったエルデンライヒ軍自慢の重砲は、まだ運搬の途上にあった。火力支援という点において、エルデンライヒ軍は決定的な要素を欠いていたのである。
簡潔に、そして冷静に状況を分析するならば、ただそれだけのことであった。
しかし、この不可解で前例のない状況において、幕僚たちは状況判断を誤った。
「閣下! これはチャンスです!」
「……チャンス?」
未だ半信半疑の表情を隠し切れないサン=マルタン元帥は、訝しげに部下の言葉を聞き返した。
「はい!エルデンライヒ軍は大軍による攻撃に失敗しました!彼らは少なからぬ損害を被っています。しばらくは容易に攻勢をかけてこられないでしょう!」
「確かに朗報です。ならば、このまま防御態勢を維持し――」
「いいえ、閣下!」
幕僚はその言葉を遮った。
「この機に前進すべきです!我らサンテルラン軍は“野戦”においてはエルデンライヒ軍よりも強力なのです!」
後から振り返れば、これこそが致命的な判断ミスであった。
この幕僚は、エルデンライヒ軍を撃退した理由を、単純に「サンテルラン軍の方が強かった」という一点に帰結させてしまったのである。
そして、先の敗北は要塞戦という特殊な環境に原因があったに過ぎず、純粋な野戦であればサンテルラン軍に分がある――そう結論づけた。
確かに、その認識は完全な誤りではなかった。
今回の戦闘でエルデンライヒ軍は重砲陣地も防御陣地も構築していなかった。さらに野戦における直接戦闘能力において、サンテルラン軍は明確な優位を持っていた。ルノー小銃、リュミエール速射砲、デュラン機関銃――それらは前面火力において他国軍を凌駕する兵器であったからである。
だが、彼は最も重要な要素を見落としていたのである。
「今度は我々左翼軍が攻勢に出てエルデンライヒ軍の戦線を撃破します。そして敗走する右翼軍を追撃している敵部隊を、背後から襲撃すればよいのです!」
「そんなことが可能でしょうか……」
「可能です!野戦能力に優れる我が軍であれば!」
堂々と言い切る幕僚の言葉に背を押され、サン=マルタン元帥は次第に戦意を取り戻していった。
「……いいでしょう。それでは我々左翼軍はこれよりエルデンライヒ軍戦線を突破し、右翼軍を追撃している敵部隊を野戦において撃破します」
サン=マルタン元帥がこの攻勢案を採用したのは、それが現状において戦果を挙げ得る有効な作戦に見えたからだけではない。
右翼軍を救い、敵軍に打撃を与えることができれば、同僚であるラ・ロシュ元帥に恩を売ることもできる――その計算も瞬時に働いていたのである。
しかし彼らは、単なる戦闘能力の優劣だけを見ていてはならなかった。
あるいはそれも戦局に影響する要素ではあった。だが、真に重要だったのは“戦場の構造”を理解することであった。
皮肉なことに、つい先ほどの局地戦において、彼ら自身がその構造によって勝利を得ていたはずである。
本来ならば、誰よりも早くそれに気づくべき立場にあった。
だが、それは戦争の様相そのものを変えつつある“新しい戦争”の姿であった。
長く“古い戦場”で戦ってきた者たちが、その変化を見落としたとしても、それはある意味で避けがたいことであったのかもしれない。
――人は、自らが所有するものを当然と見なした時、その価値に対して盲目になる。
ある哲学者の言葉である。
しかし、この言葉が軍事の分野で引用されることになるとは、当の本人も思わなかったであろう。




