第7章:火薬庫の余熱⑤
「あらあら。お若い宰相様も必死ねぇ」
艶やかな赤髪が潮風にはためいた。強い日差しが、その色白の肌を眩しく照らしている。
巡洋艦『ハローポート』は青い海を切り裂くように進んでいた。
その甲板に、アルバレオン王国の上級外交官――モーガン・ファーガス・シンクレアの姿がある。
「シンクレア卿。本国からは何と?」
同じ船に乗り合わせている若い下級外交官が、遠慮がちに声をかけた。
「本国?相変わらずよ」
モーガンは肩をすくめる。
「あのセンスのない狸親父のやることなんて、どうせ知れてるわ」
自国の首相を堂々と狸呼ばわりする上司の言動を補佐官の立場にある青年としては、聞かなかったことにするしかない。
では、何が彼女をそこまで上機嫌にしているのか。
そう視線で問うと、モーガンは1枚の書面を差し出した。電報で届いた外交文書の写しであった。
「エルデンライヒの、若くて素敵な宰相様からよ。うちの狸親父より、ずっと素敵」
再び飛び出した悪口を軽く受け流しながら、補佐官は文書を読み上げる。
「――この度、我がエルデンライヒ帝国は、旧アルツベルク辺境伯領およびローレナウ地域におけるサンテルラン央王国ならびにその国軍によるアムステルブルフ条約違反行為を非難するとともに、同条約の定めるところに則り、民間人保護を目的とした行動を即座に実行に移す旨を貴国に通達する――」
そこで青年は顔を上げた。
「……これって」
「宣戦布告文よ」
モーガンはあっさり言った。
「律儀に第三国にも通知しているんだから、まめよねぇ」
「しかし、この程度の文面なら、我が王国にはさして――」
「肝心なのは、その下」
促され、青年は続きを読む。
「――この国権の発動に対し、エルデンライヒ帝国は当事国以外に対して何ら危害を加える意図も敵意もなく、従って第三国には無用な介入を控えていただきたく、本書をもって通知する」
読み終え、青年は眉をひそめた。
「……強気ですね」
「そう?」
「こんな書き方をすれば、第三国の批判を招きかねません」
モーガンはくすりと笑った。
「確かに強気ではあるけど……どちらかと言えば、必死さが滲んでるわ」
「必死さ?」
青年は首を傾げる。
「ええ。力を誇示して相手を牽制する。傍から見れば暴力的だけど――本当は逆よ」
モーガンは海の向こうを眺めながら言った。
「“ここまでやるつもりだぞ”って見せておいて、周りに手を引いてもらう。
つまり、実際に力を使わなくて済むようにするための――ある意味、丁寧なお願い」
モーガンは続けた。それは子供にもよく見られる行為なのだという。
力を行使して他者を屈服させることは一見容易に思えるが、実際には様々なリスクが伴う。自分の力がそれほど大したものではないと露呈してしまうかもしれないし、行使すれば周囲の反発を招くこともある。
だからこそ、言葉や示威行為によって力を誇示する。そうすることで周囲が恐れ、距離を取り、あるいは退いてくれれば、実際に力を使わずに済む場合もある。
要するに、エルデンライヒのやっていることとは、まさにそれなのだと、モーガンは語った。
そして書面を軽く振る。
「サンテルランと戦うのは対立がある以上仕方ない最終手段でも、他国まで敵に回したくはない。
だから――“余計なことはしないでね”って、ちゃんと書いてある」
モーガンは楽しそうに微笑んだ。
「ほら。必死でしょ?」
その健気さが可愛いのよ、とでも言いたげに。
その先の展開は、経験の浅い補佐官の青年にも容易に想像がついた。アルバレオン本国が取るであろう対応は、ほぼ決まっている。
「アルバレオン王国はこの対立に対して中立の立場を確約するとともに、情勢を見極めた上で紛争解決の橋渡し役となり、両国の仲介に当たる――」
青年が言うと、モーガンは肩をすくめた。
「――という建前、よね」
「ええ」
モーガンの笑みには、無邪気さのかけらもない。妖艶さと、そしてどこかずる賢い光が混じっていた。
アルバレオン王国は、エルデンライヒとサンテルランの双方に対し、いずれの陣営にも与しない中立の立場を表明している。
中立国として両国の衝突を傍観する――それが公式見解だった。
だが、それはあくまで表向きの話である。
「大陸で二つの勢力が潰し合って、勝手に疲弊してくれるなら結構なことよ」
モーガンは海を眺めながら言った。
「わざわざアルバレオンまで首を突っ込む必要なんてないわ」
そして、ゆっくりと付け加える。
「それに――」
アルバレオン王国は、受動的な恩恵だけで満足するような国家ではない。
後騎士王時代以降の国是を見れば、それは明らかだった。
この航海そのものが、その方針の一環である。
外交官であるモーガンたちを乗せた巡洋艦『ハローポート』。
その護衛として随伴する駆逐艦1隻。
島国の軍艦は黒煙を吐きながら、海を北へと進んでいた。
「――エルデンライヒの勢力を削ってくれるのは、何もサンテルランだけじゃないわ」
その進路の先にあるものを、青年は理解していた。
「ノルドハーヴァンは……乗ってくるでしょうか?」
彼が口にした名は、北中海で恐れられる存在だった。
――北中海の主、ノルドハーヴァン。
「乗らざるを得ないわ」
モーガンは即答した。
「そのために、ちゃんと仕込んであるもの」
アルバレオンとノルドハーヴァンは、海洋覇権をめぐるライバル勢力であった。
かつてアルバレオンは北中海への進出を試みたが、ノルドハーヴァン――より正確には海賊王ハラルドによって返り討ちに遭っている。以来、北中海の海洋覇権と交易利権はノルドハーヴァンの独占を許すこととなった。
その苦い過去ゆえ、両勢力の関係は決して良好とは言い難い。
とはいえ、協力が不可能というわけでもなかった。
それもまた、国際関係の常である。
「彼らにとっても、エルデンライヒ海軍は面倒な相手でしょう?」
半年以上前に壊滅したエルデンライヒ帝国海軍であったが、彼らはそこで終わらなかった。否――今まさに、その勢力を拡大させる途上にあったのである。
先のアムステルブルフ条約――エルデンライヒ・サンテルラン・アルバレオンの勢力均衡を主眼に置いた『三鼎条約』――において、エルデンライヒはセプテンデル製の海軍艦艇を購入する権利を獲得した。
装甲艦が5隻、コルベットとフリゲートが10隻――数としてはアルバレオンに比べれば小規模であり、陸軍大国サンテルランの海軍にも到底及ばない。
しかし、大陸国家でほとんど海軍を持たなかったエルデンライヒが、小規模ながら確かな海軍戦力を持ち始めたこと――それ自体が重要な兆しであった。
海洋国家アルバレオンにとって、それは決して面白い話ではない。
たとえセプテンデルの目的が三大国の勢力均衡であったとしても、海洋覇権に異議を唱える挑戦者の出現は、邪魔者以外の何者でもない。
だが、この不都合はアルバレオンだけのものではなかった。
エルデンライヒ帝国海軍の増強は、北中海の勢力図を書き換えかねない事態である。
そこに利害を持つノルドハーヴァンも、当然無関係ではいられない。
ゆえに――付け入る隙がそこにあった。
「これで固定化していた状況に変化を与えられるわ。いよいよ――“私たちの海”が広がるのよ」
アルバレオンが望んでいるのは、ノルドハーヴァンと連携してエルデンライヒ帝国海軍に対抗することだった。
これまで北中海では、ノルドハーヴァンの旗を掲げた船しか自由に航行できなかった。
だが、その海に――いずれアルバレオンの旗がはためく日が来る。
そうした損得勘定があったからこそ、アルバレオン首脳部はセプテンデルによるエルデンライヒへの海軍艦艇売却を黙認したのである。
もっとも、それほど単純な話でもない。
それはあくまでアルバレオン側が弾き出した利害計算にすぎず、ノルドハーヴァンの意思はまったく考慮されていない。
だが、先に述べた通り――ノルドハーヴァンがこの問題に無関係でいられない。
その避けがたい事実こそが、何より重要だった。
近代的な装甲艦を含む新たな艦隊。
キルベック砲撃を受けて再整備が進む軍港都市『ヴァルデンハーフェン』。
さらに近郊には、ザールマルクをはじめとするエルデンライヒ有数の工業地帯が集中している。
いまはまだ見過ごされがちな変化かもしれない。
だがそれらは、将来確実に脅威となる芽だった。
だからこそアルバレオンは、エルデンライヒとサンテルランの武力衝突の最中に、別の方面から圧力をかけようとしている。
しかもそれを――“中立国”という立場を非難されないよう、決して表に出さず、巧妙に。
それこそがアルバレオンという国家の外交であった。
「ホント……国際政治って残酷で残忍よねぇ」
自分自身がその当事者であることを承知のうえで、モーガンはルガルディア大陸の政治を、そして自国の政治事情をそう評した。
「まあ、もっとも――」
だが、補佐官の青年には見せていない文書が、実はもう1通ある。
モーガンはそれを隠したまま、微笑んだ。
「何もエルデンライヒだけを目の敵にしているわけじゃないのだけれどね」
――本当に素敵な宰相様。
モーガンは心の中でそう呟いた。
若く、有能で、そして――いずれ最も手強い敵となるであろう、エルデンライヒの宰相を。




