第7章:火薬庫の余熱⑥
「サンテルラン方面軍総司令官にトーマス・フォン・ブラウエン大将を任じ、戦時規定により『元帥』に任ずるものとする」
大陸暦1276年8月3日
エルデンライヒ帝国はついにサンテルラン央王国に対し、アルツベルク=ローレナウ地域でのアムステルブルフ条約違反を理由に宣戦布告を行った。その期日は、条約締結からちょうど1か月後、条約が効力を持ち始める施行日でもあった。
国境地帯に集結するサンテルラン陸軍は180万以上。エルデンライヒ陸軍も、セプテンデル攻略作戦で展開した兵力に加え、後方支援体制の強化と増員を経て、総勢220万に達していた。
これらはすべて参謀総長エリアスの戦略構想と作戦指示書に基づき配置された戦力である。かつて帝国盟主大戦で対グラウエンシュタイン主力軍を指揮した経験を持つブラウエン大将が元帥に昇格し、総司令官に任じられたのは、単なる人事上の理由ではなかった。
「いよいよだな、エリアス」
ブラウエン元帥は満足げな表情でそう言った。
「はい。我々はこれより、エルデンライヒ帝国を真の覇権国とする戦いに乗り出します」
二人は作戦会議の場で知り合った程度ではない。かつて王国軍時代から、同じ方面軍に所属した旧知の仲であり、同じ主を頂く同志でもあった。
「アルツベルク=ローレナウ地域の電撃的攻略――それだけがお前の狙いではあるまい?」
「無論です、ブラウエン元帥。我々は国境地帯に集結するサンテルラン軍を一挙に粉砕し、同地域を5週間以内に奪還。そして――」
エリアスの瞳が鋭く光った。
「――央都ヴェルデールまで侵攻し、これを陥落させます」
それは帝国首脳部に提出された作戦計画書には記されていない目標であった。しかし、この密談だけの思いつきではない。すでにエリアスの手によって計算され、文書化された作戦であり、表には出ていないだけである。
ブラウエンをはじめ、かつて王国軍南部方面軍の指揮官であった者たちは皆、その認識を共有していた。アルツベルク=ローレナウ地域の奪還は、あくまで前哨戦に過ぎない。
帝国首脳部に短期決戦に見合わぬ長期戦の動員計画を具申し――否、命令として下したのも、後に控える本命の戦いがあったからに他ならない。
「お前は変わらんな。俺たちが求める前に作戦案を立てている。可愛げのない奴だったよ」
「そういう性分です。ですが、私でも“ブラント元帥”には認めていただきました」
彼らが帝国首脳部に反する思惑を抱くのは、共通の目的があるからであった。
「そうだな……俺たちの働きが義父殿に届けば……」
「必ず届きます。ブラント元帥は必ず」
その中心には、彼らが尊敬する“父”の存在があった。自らの手でかつての栄光を取り戻す、衝動に突き動かされる息子たちである。
「サンテルランを下し、アルバレオンも必ず屈服させる。しかし、それを成し遂げるのは皇帝陛下ではない。我々こそが――」
その強い意志が参謀総長を燃え立たせた。
――戦場に英雄はいらない。
――だが兵士には英雄譚が必要だ。
――命を捨てさせる口実としての英雄譚が。
それが彼の揺るがぬ信念であり哲学であった。そして、その英雄譚にふさわしい人物を彼はただ一人に定めていた。
それは皆に慕われた実父ではない。栄誉を与えられず表舞台を去った、かつての軍父である。
彼は自ら創った組織でその人物を支え、偉大なる帝国に相応しい英雄譚を築こうとしていた。
そのための舞台が必要であった。古き大国を打倒し、真なる覇権国となり、未来永劫称えられるべき英雄と、それを支えた組織と国家体制を示すための舞台が。
「――ここから、真のエルデンライヒ帝国の歴史を始めるのです」
エリアスの不敵な笑みは、ブラウエンにとっても同じ感情の表れであった。
こうして、大陸で最も歴史ある大国サンテルラン央王国と、新進気鋭の新興大国エルデンライヒ帝国との間に戦端が切って落とされた。
この戦争は、当事国の両国名を取って『エルデンライヒ=サンテルラン戦争』と呼ばれることもあれば、特定の地域の領有を巡った経緯から『アルツベルク=ローレナウ紛争』とも呼ばれた。
だが、歴史においてはそれでは足りない。より相応しい名称がすでに用意されている。
――『第一次ルガルディア大戦』
この地にルガルディア帝国が成立し、その名を冠した大陸における、騎士王戦争以来の大戦争である。
当事者たちが“短期決戦”や“前哨戦”と高を括っていたのは、歴史の皮肉である。
時代は、彼らが生きてきた段階から次のステージへと移り変わったことを、最も冷酷な手段で示したのだと、後世の歴史家は嘆息する。
だが、もしこの時代の被害者たちに、時代の変化と世界の変革を突きつけるとしたら――その意味を端的に伝える言葉は、たった一つで十分である。
ようこそ、大陸十傑の時代へ。
ここまで作品をお読みくださり、本当にありがとうございます。
これにて【第5編 大陸十傑の時代へ】は完結となります。
次回からは、第二部における一つの大きな山場――大戦編へと物語が進んでまいります。
長丁場となる予定ではありますが、これからも彼らの旅路を共に見守っていただければ幸いです。
それでは、新編にて再びお会いできることを、楽しみにしております。




