第7章:火薬庫の余熱③
「陛下、よろしいのですか⁉シュトラウセン参謀総長の振る舞いは危険です!」
御前会議の終了後、ヴィルヘルムは執務室を兼ねた書斎へと戻った。
その後を追うように、宰相兼外相エルンスト、皇后兼財務相アーデルハイト、そして陸軍相ヨハンという、昔からの同志たちが集まっていた。
「そう言うな、アーデルハイト。確かに些か挑戦的ではあったが、シュトラウセンの言っていることも、決して理に反しているわけではない」
そう言ってヴィルヘルムは、一冊の冊子を取り出した。作戦計画書である。
「奴も事前に備えていたらしい。セプテンデル併合作戦も視野に入れて組み上げていた。抜け目がないと言うべきか、それとも計算高いと言うべきか」
「失礼します」
冊子を受け取った3人は、対サンテルラン戦を想定した戦力配置と補給体制の計画に目を通した。
「これは……」
「春季大演習――セプテンデル攻略作戦で用いられた陽動作戦の配置、そのままではありませんか」
「まさか、シュトラウセン参謀総長はサンテルラン戦を見据えていたと?」
三者三様の反応ではあったが、評価は一致していた。
――漏れも、隙も、穴もない。ほとんど理想に近い配置。
エリアスの考案した作戦計画は、まさにそのような完成度を誇っていた。
「シュトラウセンは、セプテンデル攻略中にサンテルラン軍の来襲を予想していた。そのための牽制として配置したのだろう。だが同時に、そのまま交戦に入っても支障のない実戦的な布陣でもある」
ヴィルヘルムは淡々と続けた。
「しかもその兵力は、現在もサンテルラン軍と対峙する形で展開中だ。補給体制も修正を重ねながら整備されている」
つまり――サンテルラン戦線は、すでに準備が完了しているということであった。
「なるほど、どおりで……」
ヨハンが小さく頷いた。
「何かあったのですか?」
その様子に気付いたアーデルハイトが問いかける。
「実は、シュトラウセン参謀総長から事前に動員命令を受け取っていたのです。主に後方で予備として配置されていた徴兵兵力に対してですが、定期的に人員を入れ替えつつ、継続的に戦闘を行える体制を整えよ、と」
「なるほど。つまりシュトラウセン参謀総長は、エルデンライヒ軍の総力をもってサンテルランとの戦闘に臨むつもりなのですね」
エルンストは感心したように頷いた。
しかし、それとは対照的にアーデルハイトの表情は晴れなかった。
「ですが、それでは財政が破綻しかねません。徴兵を大規模に動員して全面戦争になれば、予算も産業も疲弊していくばかりです」
財務相としての指摘は極めて健全なものであった。
確かに国内には戦争を好意的に受け止める空気が存在している。だが、それがあらゆる制約を超越できるわけではない。徴兵によって長期間労働力が失われれば生産分野は打撃を受け、経済は停滞する。さらに戦費は国家財政を圧迫し、現在進められている社会インフラ整備や産業基盤の強化にも支障をきたしかねなかった。
「シュトラウセンのことだ。泥沼のような長期戦は想定していないだろう」
ヴィルヘルムは静かに言った。
「だが、だからこそ……」
皇帝の懸念は、まさにそこにあった。
作戦計画は短期決戦を前提としている。
しかしサンテルランは大国であり、その陸軍は大陸随一の規模と実力を誇る。そんな相手に短期戦で勝利できると考えるのは、あまりにも楽観的であった。
実際、小国セプテンデルとの戦争ですら、当初の想定以上に長引き、苦戦の兆しを見せていたのである。それでも戦争が「戦役」と呼べる程度の規模と期間で収まったのは、ヴィルヘルムの政治的判断による停戦があったからにほかならない。
「アーデルハイト」
ヴィルヘルムの呼びかけに、皇后は姿勢を正した。
「はい」
「以前言っていた『戦時国債』の準備を始めてくれないか」
「……もちろん、陛下のお命じとあらば」
アーデルハイトは一瞬だけ躊躇したが、静かに頷いた。
「ですが、あまり期待はなさらないでください。国債は戦費調達の助けにはなりますが、結局は国家の借金です。戦意が高まっている今なら国内からある程度の資金は集まるでしょう。しかし、それも決して無限ではありません」
「分かっている。それについてはお前に任せる。お前なら無茶はしまい」
皇帝の言葉には厚い信頼が込められていた。
アーデルハイトにとって、それは素直に嬉しい言葉だった。
セプテンデルへの停戦保証金の一件でもそうであったが、ヴィルヘルムが自分を頼ってくれるようになったことは、彼女にとって「自分が役に立っている」と実感できる出来事でもあったのである。
「ですが、帝国陸軍全軍が、この戦争に前向きに戦えるのでしょうか?」
ヨハンが鋭く問う。
「確かにセプテンデルの件もあり、陸軍省内にも開戦ムードはあります。しかし、将官クラスの全員が開戦派とは限りません……」
「リッテンベルク、まずこれを見よ」
ヨハンが目を伏せ、冊子に目を通す。
ヴィルヘルムは言葉を選ぶように続ける。
「サンテルラン国境線に配置される軍団司令官、その参謀将校のほとんどが、シュトラウセンの息のかかった者たちで固められている」
「シュトラウセン派……でしょうか?」
ヨハンの声は少し震えていた。
「分類としては控えたいが、現実としては、そういうことだ」
ヴィルヘルムの言葉に、皆は沈黙した。
陸軍内の人事権を管理しているヨハンでさえ、作戦計画の配置や指揮官人事には手を出せなかった。
それらはすべて、参謀総長エリアスの掌握下にある。
戦時下において、ヨハンにできることといえば、精々、兵站総監部や鉄道総監部の人事に提案を出す程度。
これは、軍事作戦の円滑な遂行のための指揮系統整理の産物であり、エリアスはその制度を巧みに利用しているに過ぎない。
だからこそ、彼は数手先の、誰も予想しない事態に対応できる構想を、事前に完璧に仕込むことができる。
しかもそれは、すべて合法的かつ正当な権限の行使である。
「まるで、シュトラウセン参謀総長に軍を乗っ取られていくような感覚です」
ヨハンの声には、戸惑いと恐れが混じっていた。
「ヨハン、気持ちは分かるけど――滅多なことは口にしてはいけないわ」
アーデルハイトの声は、静かだが鋭く響いた。
エリアスの不穏さを感じたヨハンとアーデルハイトは、曇った表情のまま、ただ状況を受け入れるしかなかった。
自分たちには、現時点で何もできない――その事実を痛感する。
もしエリアスの台頭を阻止し、勢力を削るとすれば、それは参謀総長として指揮する軍事作戦での失敗を待つしかないということだ。
つまり、それはエルデンライヒ軍の将兵に、多大な損害が生じることを意味する。
万単位の命が失われるかもしれない――そう考えれば、軽々しく口を開くことなどできなかった。
「各国はどう反応するでしょうか?」
エルンストは、ヴィルヘルムの読みを確認するように問う。
「恐らく傍観するだろう」
ヴィルヘルムの声は冷静だった。
「セプテンデルとは違い、サンテルランは拡張志向に舵を切った大国だ。
サンテルランに味方する国がいなければ、あわよくば共倒れを願う国ばかりだろう」
「確かに当初はそうでしょう。しかし、これが長期化し、形勢が見えなくなったら、介入してくる者も…」
「ああ、我が帝国には敵が多く…いや、この際、世界全てが敵であるという認識に間違いはない。手を出すタイミングを見計らっているだけで、潜在的には敵だとな」
ここにいる全員が、サンテルランとの戦争の長期化を願っているわけではない。
確かにエリアスの戦争指導がうまくいき、短期で目的を達成できればそれに越したことはない。だが、それは同時に、さらなるエリアスの台頭を招くことを意味する。
それは複雑だが、国としての損失は最小限に抑えられる。
しかし、サンテルラン相手にそれが実現可能であるとは、少なくともこの場の誰の頭にも浮かんでいなかった。
故に、戦争を始めようとするエリアスにとって予想外の事態が起こっても国を崩壊させない備えが不可欠だった。
意外にも、エリアスの排除を真剣に考えたのはアーデルハイトであった。
彼女は、自身が最も軽蔑するモルゲンフェルスに命じてでも、エリアスを排除しようと考えた。だが、ヴィルヘルム自身にその意思が現状ないことを見抜くと、ぐっとこらえるしかなかった。
失敗が決まったわけではない。
しかし、成功の明確な未来は見えない。
そして、それを止めることもできない。
そんながんじがらめの状況下でも、ヴィルヘルムの頭は必死に回転していた。
そして、ぼそりと呟く。
「ジークハルトか……いや、だが、アイツはまだ……」
ヴィルヘルムの口からその名前が出ることに、場の誰も驚かなかった。
確かに、こういう時に最も皇帝の助けになるのは、ジークハルト――皇帝の親友である。
だが、彼はまだ軍務に復帰できない。
問題は、エリアスの謹慎処分ではなく、身体が未だ万全でないことにあった。
故に、彼をどうこうすることは物理的に不可能だったのだ。
しかし、そのどうしようもないのに頼りたくなる皇帝の呟きが、宰相にある考えを思い起こさせた。
「……陛下、これはまだ何一つ確定していない思いつきですが……」
宰相エルンストが慎重に口を開く。
「構わん。何か案があるなら、遠慮なく言ってくれ、エルンスト」
ヴィルヘルムは視線を向け、少し肩の力を抜くように言った。
「とある二国に外交文書を送ることをお許しください」
エルンストが挙げた国名を聞き、ヨハンとアーデルハイトは顔を見合わせ、疑問の声を上げた。
「一つは分かりますが、もう一つがピンと来ません。どうしてその国に?」
「そうです。そもそも、その国とは国交もございません」
その場に沈黙が流れた後、ヴィルヘルムだけが静かに微笑んだ。
「いや、名案かもしれない」
ヴィルヘルムだけが、その構想に光明を見いだした。だが、言い出したエルンスト自身は、その実現可能性を誰よりも疑っていた。
「しかし、何も根拠のない構想です。実際にうまくいくとも――」
「全力で実現しろ。それが最優先事項だ」
皇帝ヴィルヘルムは、他の二人にも命じた。
「アーデルハイト、シモンスキをここに呼べ。それと財務省鉄道管理部の担当者も」
「は、はい。かしこまりました」
「リッテンベルク、機動戦闘団の団員の追跡調査をできる限り行い、所在を明らかにしろ」
「了解致しました」
テキパキと動き出す二人の背を見送り、エルンストはやや気まずそうに口を開く。
「陛下、まだこれは私の思いつきでしかありません。先方が受け入れてくれる保証など、どこにもないのです」
「エルンストが泣き言を言うとは珍しいな」
「泣き言ではありません。未確定な構想に対する、正常な――」
「それを、今までやってきたじゃないか」
ヴィルヘルムの瞳に映っていたのは、かつて地域大国であった国家を屈服させ、言葉で領土を拡大し、20代で初代帝国宰相に選ばれた男である。断じて、与えられた権限と自身の収まりきらない意志を振り回す未熟者ではなかった。
そして、エルンストも、その視線に覚えがあった。
――世界の果てを見に行こう。貴様も、一緒にどうだ?
そう若き一国の国王に言われた時と、同じ瞳が再び自分に向けられていた。
「…承知致しました。全力を尽くします」
一礼する宰相を見送り、ヴィルヘルムはひとり呟いた。
「未熟者の私を許してくれ。シュトラウセン…クロイツェル…」




