第6章:三鼎条約⑩
「貴官にも失望させられたぞ、シュナイダー少佐」
ジークハルトがアイゼンドルフ家で夜を過ごしていた、まさにその頃。旧ローゼンベルク王城に置かれた参謀本部――その参謀総長執務室では、シュナイダーがエリアスの厳しい追及を受けていた。
「貴官に任せた任務を、もう一度私に言ってみたまえ。シュナイダー少佐」
エリアスは両手を組み、窓の外に広がるベルデンの夜景へ視線を固定したまま問うた。
「はっ。第101機動戦闘団付参謀将校として、作戦立案および行動の補佐、ならびに参謀本部との綿密な連絡任務であります、閣下」
「よろしい。任務の認識に誤りがないと確認できて安心した。――だが、だからこそ理解できん。なぜ貴官が、その任務を逸脱する行動を取ったのか」
ガラス窓に映る反射越しに、エリアスはシュナイダーを睨みつけた。
端正な顔には、ここ最近になって深い皺が眉間に刻まれ、常に不機嫌そうな印象を周囲に与えている。それが過度のストレスに由来するものであると知りつつも、シュナイダーは静かに言葉を続けた。
「いいえ、閣下。小官も、フォルラート大佐も、そして実働任務にあたった機動戦闘団も、閣下ならびに参謀本部の命令から逸脱してはおりません。すべて軍規と軍令に則った正式な――」
「御託は結構だ!!」
昼間と同様、エリアスは感情を露わにして怒声を上げた。
「もう一つの……いや、最重要任務を貴官は忘れているようだな。私は貴官に、機動戦闘団の“首輪”となれと命じたはずだ。つまり、あの傍若無人な戦闘団の行動を抑えることだ。それこそが、貴官が何より果たすべき任務だった!」
ついに堪えきれなくなったのか、エリアスは勢いよく振り返り、シュナイダーを鋭く睨んだ。
その顔には先代参謀総長の面影が残っている。だが、少なくともシュナイダーは、そのように激情に歪んだ表情を見たことがなかった。
「閣下」
エリアスより年長のシュナイダーは、なお落ち着き払った態度のまま参謀総長に応じた。
「どうしてそこまで機動戦闘団を目の敵になさるのですか?」
その問いに、エリアスはしばし言葉を失った。
「確かに機動戦闘団は、独断専行と受け取られかねない作戦行動を取ったかもしれません。実際の任務においても、奇抜で突飛な行動が多いのは事実です。しかし、それは彼らに与えられた職域を逸脱したものではありません。彼らの勇敢な行動によって、同胞4万8千人の救出という成果がもたらされたのです」
そしてシュナイダーは、現場でヴィルヘルムから聞かされた救援作戦の意義を、改めてエリアスに語った。
「皇帝陛下がこの救援作戦を支持された理由は、“近代戦を経験した兵士たちを一人でも多く生還させ、今後の帝国軍の糧とすること”にあったのです」
それは、エルデンライヒ帝国が内包する数少ない致命的欠陥の一つであった。
エルデンライヒ帝国は、軍事力において卓越したローゼンベルク王国を中核として成立した大国家である。帝国成立の過程において、ローゼンベルク王国軍は周辺諸国に対し連戦連勝を重ね、その軍事的優位を実証してきた。帝国統合を可能にした最大の要因が、同国軍の卓越した戦闘能力であったことは疑いない。
だが、その勝利の蓄積には見落とされがちな構造的問題があった。
ローゼンベルク王国軍が打ち破ってきた敵は、多くの場合、内政的に衰退した国家か、あるいは旧式の軍制に依存する軍隊であった。統合された軍事力を近代的に運用できる勢力とは言い難く、装備体系においてもローゼンベルク王国軍より一世代以上遅れていた。
言い換えれば、ローゼンベルク王国――ひいてはエルデンライヒ帝国は、常に格下の相手との戦争を戦い続けてきたのである。
この事実は、帝国軍にとって致命的な経験不足を意味していた。
その意味において、エルデンライヒ=セプテンデル戦役は帝国軍にとって初めての性格を持つ戦争であった。それは単なる地域紛争ではなく、帝国が初めて“世界”と接触し、“近代”という現実に直面した戦争であったのである。
この戦争の特徴は、単にセプテンデルがサンテルランとアルバレオンの支援を受けていた点にとどまらない。エルデンライヒ帝国は陸軍大国サンテルランと局地戦を展開しつつ、海洋国家アルバレオンとの外交的対峙を強いられた。さらに、戦線を開いていない周辺諸国の動向にも常時警戒を払わねばならなかった。そこには従来の対周辺国戦争とは質的に異なる、国際政治と軍事が複雑に絡み合う戦争環境が存在していた。
帝国が急速に推し進めた軍拡もまた、この新しい戦争環境に十分適応したものではなかった。兵力を増強し、装備を更新し、数十個軍団という大兵力を整備したとしても、それは外形的規模の拡張に過ぎない。軍事組織の運用能力、戦略的思考、そして近代戦の経験という骨格が伴わなければ、その巨体は容易に機能不全に陥る。帝国軍が近代戦において従来のような完勝を収められる保証は、どこにも存在しなかったのである。
ゆえにヴィルヘルムは、軍拡政策そのものには賛成しつつも、早期の戦争には一貫して慎重な姿勢をとっていた。彼にとって問題であったのは、軍備の量ではなく質、そして運用能力であった。
セプテンデル併合作戦を最終的に承認したのも、海洋から接近するノルドハーヴァンおよびアルバレオンへの対抗上、最低限の海軍戦力を整備する必要があると判断したために過ぎない。
そして、その目的は必ずしもセプテンデルを武力で征服することを意味してはいなかった。
結果として望ましい戦争とは言い難かったエルデンライヒ=セプテンデル戦役であるが、それでも帝国にとって収穫がなかったわけではない。
最大の収穫は、近代戦争を実地に経験した兵士たちの存在であった。
それは戦略や戦術の体系化された知識ではない。現場の兵士が体得した断片的な経験、いわば実戦の感覚である。しかし、そのような経験こそ、帝国軍がこれまで一度も蓄積したことのないものであった。
その象徴的な例が、セプテンデル軍に供与されていたサンテルラン製デュラン機関銃である。これはエルデンライヒ軍の制式装備であるフォーゲル機構銃より小型でありながら高い射撃性能を有し、戦場において明確な優位を示した。
帝国軍の兵士たちは、その火力差を自らの身体で理解することになったのである。
その経験は、帝国が今後整備すべき軍備体系、そして克服すべき技術的後進性を明確に示していた。
ヴィルヘルムがジークハルトに命じた任務は、単なる人道的救援ではなかった。実戦経験を持つ兵士という希少な人的資源を回収し、帝国軍の将来の戦力へ転化すること――それこそが彼の真の意図であった。
停戦保証金および捕虜即時引き渡しの条件としてセプテンデルへ提示された4t以上の金塊もまた、その戦略の一部である。それは捕虜交換の代価であると同時に、帝国の信用を国際社会に示す政治的投資でもあった。
結果としてジークハルトの救出作戦により多数の兵士が帰還したため、捕虜交換に必要な人数は想定より大幅に減少した。余剰となった金塊の価値は単なる捕虜代金ではなく、外交的信用として機能することになる。エルデンライヒ帝国はそれによって、セプテンデルから最新鋭海軍艦艇の購入確約と新たな外交関係を獲得することに成功したのである。
なお、今回帝国中央銀行から持ち出された金塊の総額は、帝国国家予算の約1.1〜1.8%の範囲に収まっていた。これは戦争を継続し、荒廃した国土を復興するために必要となる莫大な費用と比較すれば、極めて安価な代償に過ぎない。
すなわち、ジークハルトの作戦は結果としてエルデンライヒ帝国に多大な利益をもたらしたのである。この全容を理解している者は帝国中枢でも多くはない。だが少なくとも、帝国陸軍の最高運営責任者が知らぬはずのない事実であった。
しばしの沈黙の後、エリアスはようやく口を開いた。
シュナイダーの言葉を寸分違わず理解し、脳裏で咀嚼したうえでの沈黙にしては、むしろ短い部類だった。
「戦場に英雄などいらない」
エリアスは、ただそれだけを言った。
「英雄……?」
「そうだ。属人的な才能に依存した現場の偶発的成果など、全体から見れば誤差に過ぎん。国家の命運を左右する戦争が、そのような不確実性に依存してはならない」
声に激情はない。だが断定には一切の揺らぎがなかった。
「精鋭と誇るのは構わん。英雄と称えられるのも結構だ。だが、それを戦争の成否において当てにする――それが誤りだ」
それは、エリアス自身の思想というより、彼に決定的な影響を与えたある一人の上官の言葉であった。
「華麗な戦いではないかもしれない。大胆で奇抜な作戦でもないだろう。だが、基本に忠実な、退屈なほど正当な消耗戦――その果てに死屍累々を積み上げ、なお完全な勝利を掴む」
そこで初めて、エリアスの声に微かな熱が宿った。
「もしそれが、国家という共同体にとって最も確実な勝利の形であるならば――私は喜んでその執行者になろう」
彼の瞳には、グラドロッサ平原の光景が広がっていた。
「そして、それを担うべきは一人の英雄ではない。組織だ」
低く、押し殺すように言う。
「なぜ勝利をもたらした将が、誰よりも心を痛めなければならない」
エリアスの脳裏には、一人の男の姿が浮かんでいた。
元帥。
かつての上官。
彼は、まだ忘れられない。
会いに行こうともした。
実の父よりも父に近かったその人物に。
だが、その男は軍服を脱ぎ、子供たちに読み書きを教えるだけの老人となっていた。そして聡明な若者との議論を拒み、静かに隠遁していた。
本来ならば、誰よりも国家に必要な人間であったはずなのに。
国家は――彼を使い潰したのだ。
「シュナイダー少佐。貴官は先ほど“勇敢な行動”と言ったな」
「はい」
「“多くの同胞を救った”とも」
「その通りです」
エリアスは頷いた。
「兵士たちには英雄譚が必要だ」
冷淡なほどに静かな声だった。
「彼らには感情の支えがいる。命を捨てさせるための口実もな」
それは徹底して割り切られた組織論だった。
「だが、我々は違う」
エリアスの視線が鋭くなる。
「一を切り捨て、十を取らねばならない時がある。それによって百が救われ、千を導けるならば、我々は迷わずそれを選ばなければならない」
参謀総長はゆっくりと言葉を区切った。
「参謀本部の存在意義とは、その決断を歴史の偶然が生んだ英雄一人に背負わせることではない。組織として、より効率的に、より継続的にそれを遂行することだ」
その声には、どこか憎悪にも似た響きがあった。
まるで――それをしてきた国家そのものを軽蔑するかのように。
「それを乱す者は、例外なく排除されなければならない」
そして、エリアスは言った。
「たとえ――」
一瞬の沈黙。
「――皇帝陛下であっても」
「……参謀総長」
シュナイダーは言葉を飲み込んだ。
あまりにも危険な発言だった。
「私はこの帝国を偉大な国家にする」
エリアスの声は静かだった。
「天才的英雄の出現を漫然と待つ国家ではない。能力ある者たちの不断の努力によって歩み続ける国家だ」
そして宣告する。
「貴官は降格だ――シュナイダー大尉。機動戦闘団付参謀将校の任を解き、騎兵総監部付参謀補佐を命ずる」
当時の帝国陸軍において、騎兵はすでに斜陽の兵科だった。
その配置は事実上の閑職と言ってよかった。
だがシュナイダーは反論しなかった。
静かに敬礼し、執務室を後にした。
扉が閉まる。
「私が苗木、だと?」
一人になったエリアスは呟いた。
壁に掲げられた歴代参謀総長の名札――その最左列を見つめながら。
「笑わせないでいただきたい」
視線は一つの名に止まる。
「あなたのせいで、私は随分と苦労させられていますよ。シュトラウセン参謀総長殿」
それは父に向ける声としては、あまりにも冷たかった。
「まあいい」
エリアスは机の鍵付き引き出しを開け、一通の作戦計画書を取り出した。
それを見て、わずかに口元が歪む。
「見ていてください、ブラント元帥」
低く呟く。
「私がエルデンライヒ帝国という新しい時代の、良き指揮官になってみせましょう」
だが、その表情は――野望を抱く男のそれにしては、少しも晴れやかではなかった。




