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第6章:三鼎条約⑨

「そんなことがあったの」


 ベッドに寝ころびながら、ジークハルトは一連の出来事を語っていた。


「前にも言ったでしょう。シュトラウセン中将にヘルマン先生のことは言っちゃダメだって」


「だって……」


「“だって”じゃないわ。ましてや、“代わりに死んでしまえばよかった”なんて、あまりにも礼を欠く言葉よ」


「……」


 まるで母親に叱られる子供のように、ジークハルトは身体を丸めた。それでもなお、不満げな表情を崩さない。とはいえ、声を荒らげることもなく、罪悪感に押しつぶされるように沈んでいるのは、ヴァイス中将の一件があったからだった。


「俺は今回も迷惑をかけちまった。俺があんなことを言わなければ、ヴァイス中将は……」


「それは違うわ、ジーク」


 シャルロッテはジークハルトの顔を覗き込むように身を寄せた。


「ヴァイス中将は規律に厳しい人だったけど、それ以上に自分自身に厳しい人だった。きっと、アンタがそんなことを言わなかったとしても、けじめをつけるために同じことをしたはずよ」


 救援隊を出す気のない参謀本部の命令に、ヴァイスも当初は怒り狂い、そして深く失望していた。


 だが、機動戦闘団が実際に現地へ赴き、セプテンデル軍との戦闘を経て帰還したとき、その損害を目の当たりにして、彼は後悔の念に苛まれることになる。


 機動戦闘団の指揮を任されたカールは右目を失い、意識不明の重体で運び込まれた。さらに団員の中からは、戦死者63名、行方不明者12名を出してしまった。精鋭と名高い機動戦闘団に、それほどの損耗を強いてしまったことに、後ろめたさを感じずにはいられなかった。


 また同時に、マールスドレヒト要塞へ攻撃を仕掛けてきたサンテルラン軍を押しとどめることができたのは、要塞防衛のために温存されていた戦力があったからでもある。


 十分な数の重砲と、それを運用する砲兵。塹壕を掘り、そこで応戦してくれた歩兵たち。そうした戦力があったからこそ、サンテルラン軍の猛攻を退けることができたのだ。


 もしその兵力を救援任務に回していたとして、果たして要塞が持ちこたえられたかどうか――それは誰にも断言できない。


 すべての戦闘が終わったあとになって、ヴァイスはようやく実感した。


 参謀本部の命令と計画は、決して現場の兵士を使い捨てにするような傲慢なものではない。冷徹なまでの戦局分析と、非情な計算の末に導き出された結論だったのだと。


 しかもそれは、わずか一日か二日という短期間で算出され、判断され、全軍に下達されたものだった。


 それが戦場から遠く離れた安全地帯で、優雅に寛ぎながら導き出されたものではないことくらい、想像に難くなかった。


 あるいは、ジークハルトを窘めたあの言葉は、ヴァイス自身へ向けたものだったのかもしれない。


 彼は、自分と同じくそれぞれの職務に全力で向き合っている仲間を、部下の前で罵るという愚行を犯してしまった。


 責任感と規律心の強い彼にとって、その自分自身の振る舞いこそが、何よりも許せなかったに違いない。


 ただ、おそらくは――


 ジークハルトとエリアスの破局的な決別を止めるための手段として、それを伴わせただけなのだろう。


「でも……」


「“でも”じゃない」


 シャルロッテは、灰色がかった髪を撫でながら言った。


「アンタは悪くない。言いすぎたところはあったかもしれないけど、少なくともヴァイス中将の件は、アンタのせいじゃないわ」


 自責の念に囚われているジークハルトを、シャルロッテは静かに慰めた。


 誰か一人が明確に悪いわけではない。


 それぞれに非はあり、もっと適切な選択肢もあったはずだ。だが、それを常に間違いなく選び取れるほど、人間は合理的にはできていない。


 あるいは、合理的で正しいと分かっていても、矜持や意地がそれを選ぶことを許さなかったのかもしれない。


 そう思うと――男というのは、本当に馬鹿だ。


 シャルロッテは、呆れるしかなかった。


 いま自分の胸の中で苦しんでいる男も、その一人であると認めながら。


 だが、それを愚かさだけで終わらせたくはなかった。


「ヴィルヘルム陛下から聞いたわ。アンタ、前線で孤立した主力軍を助けるために頑張ったんでしょ?その中に、私の兄がいたの、知ってる?」


「……いや、知らない」


 その情報は、ジークハルトも初耳だった。


「一番上の兄よ。エーバーハルト。結婚式で会ったでしょ?」


 少し間を置いてから、ジークハルトはぼそりと呟いた。


「ああ……覚えてる」


「すごく感謝してたわ。助けに来てくれてありがとう、って。だから私からもお礼を言わせて」


 シャルロッテはギュッとジークハルトの頭を胸の中で抱きしめた。


「エーバーハルトを助けてくれてありがとう。お義姉さんを未亡人にしないでくれて、ありがとう」


「そんなことは……」


 だが、ジークハルトはとてもそれを誇れる気分ではなかった。


 確かに救援作戦を立案したのは自分だ。だが、それだけがエーバーハルトたちを救う唯一の手段だったとは思えない。冷静に、そしてどこか卑屈に、彼はそう受け止めていた。


 きっとエーバーハルトたちは、自力でも撤退できていたはずだ。決して自分一人の手柄ではない。そう考えずにはいられなかった。


「カールにも、ひどい目に遭わせちまった。もう右目……見えないって……」


「カールなら大丈夫よ。あいつは丈夫だし。アンタもお見舞いに行ったんでしょ?騎士候勲章をもらって、すごく喜んでたわ。やっとジークと同じ土台に上がれたって、威張ってたわよ」


 孤立した前線部隊の撤退行動を支援し、なおかつそれを妨害しようとするセプテンデル軍の艦艇を複数撃退したこと。さらに、自らも重傷を負いながら生還したこと。


 それらは、軍人カールの力量を証明するには十分すぎる功績だった。


 ローゼンベルク王国からの伝統に則り、彼には帝国最高位の武勲章――「騎士候勲章」が皇帝ヴィルヘルムから授与された。


 かつてジークハルトが第四次ノッセル回廊会戦で勝利に貢献した際と同様、偉業を称えての授与である。


「全員を救えたわけじゃない……部下だって多く失った……俺はただ後方の司令部で偉そうに命令を――」


「ジーク」


 シャルロッテの呼びかけには、それ以上卑屈なことを言わせないだけの強さがあった。


「アンタが作戦をどう考えてるか知らないけど、戦果を上げることや、部下を一人も死なせないことだけが達成条件じゃないのよ」


 そう言って、シャルロッテはジークハルトの作戦によって救出された人数を告げた。


「4万8千人――アンタが助けた兵士の数よ。これだけの人たちが生きて、家族のもとに帰れたの」


 ジークハルトは黙って聞いていた。


「確かに、ジークが救出作戦を実行しなければ、カールも負傷しなかったかもしれないし、部下たちも死なずに済んだかもしれない。もしかしたら、何もしなくても撤退できた可能性だってある」


 だが、とシャルロッテは言葉を続けた。


「それは全部、“もしも”の話よ」


 その声には、ただの慰めではない確信があった。


「確かなのは、アンタが4万8千人以上を救ったっていう事実だけ。どれだけ決断を悔やんでも、失ったものを嘆いても、この事実だけは変わらない」


 それはきっと、ジークハルトがただ戦場で戦っていた頃には決して成し得なかった功績だった。


「セプテンデルに行く前のアンタ、見てられなかった」


 シャルロッテはぽつりと言った。


「ずっと心ここにあらずって感じで。危なっかしいし、生きる希望もないみたいで」


 だからこそ、シャルロッテはヴィルヘルムに頼み込んだのだ。ジークハルトを側付きとして推挙してほしい、と。


 かつての彼に戻ってきてほしくて。


「でも、セプテンデルから帰ってきたアンタは変わってた」


 シャルロッテは静かに続ける。


「ちゃんと前を向こうとしてる顔になってたの。それがどれだけ嬉しかったか――アンタに分かる?」


 そしてシャルロッテは、ジークハルトがただ慰めれば立ち直るような単純な性格ではないこともよく分かっていた。


 彼を奮起させるには、発破をかけるのが一番手っ取り早い。


 シャルロッテはしばらく黙っていた。


 ジークハルトの灰色の髪を指で撫でながら。


 そして、ふっと息を吐く。


「……それでも無理だと思うなら」


「…?」


「軍人、辞めなさい」


「待て、そんなこと……」


「大丈夫よ。アンタたちのお節介のおかげで、私は砲術学校の教官様になれたし、まだ軍人も続けられている。アンタと子供くらい養うの、屁でもないわ。むしろ、アンタが向いてもいない軍人辞めて、子供の面倒見てくれるなら、私としては言うことないわね」


 それは半分、本音だった。


 ジークハルトがその言葉で折れて軍人を辞めても、シャルロッテとしては一向に構わない。


 むしろ、これ以上彼が傷つき、何かを失っていく姿ばかりを見るくらいなら、別の道を選んでくれてもよかった。


 なんなら、立ち直れるまでしばらく休んでもいいとさえ思っていた。


 シャルロッテは、本気でそう考えていた。


 だが――


「……辞めねぇよ」


 ジークハルトはゆっくり首を振った。


「負けてたまるか」


 ジークハルトは低く呟いた。


「誓ったんだ。ハンスを英雄にするって。エリックをただの反逆者にしないって。ヴィルヘルムを――」


 シャルロッテは黙ってその続きを待った。


「――ルガルディア大陸、ただ一人の皇帝にするって」


 その言葉を聞いて、シャルロッテは小さく笑った。


「……ふふ。知ってた。アンタって、そういうやつよね」


 そして、悪戯っぽい笑みを浮かべながら、シャルロッテはジークハルトに覆いかぶさった。


「シ、シャルロッテ?」


「さて、と。アンタもなんだかんだ立ち直ったみたいだし?私としては久しぶりに、“夫婦”の時間が欲しいわけよ」


 獲物を追い詰めた獣のような、不敵な笑みだった。


 シャルロッテはじりじりとジークハルトに迫る。


「ま、待てって。俺は今、右腕が動か――」


「アンタは動かなくていいわよ。こっちで勝手にやってあげるから」


「おい、シャルロッテ!?いきなり、なっ――」


 その夜、アイゼンドルフ家の屋敷では、猫のような声が聞こえたという。


 なお、ジークハルトは少なくとも1年は軍務に復帰できない処分がすでに決まっており、その間に第二子をもうけることになるのだが――それは、あくまで個人的な話として留めておくのがよいだろう。


 もっとも、アイゼンドルフ家においては、誰もが知っていることではあったが。

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