第四章 嵐と静寂
日曜日の夕方五時少し前、由里子は家の前に立った。
窓の内側に人の気配がある。鞄を持ち替え、鍵を探した。出ていった朝と同じ鍵なのに、穴へ差し込むまでに時間がかかった。
玄関には未央の靴が斜めに揃えてあった。晴菜のスニーカーはいつもの場所にあり、健司の外履きは土の跡を残している。由里子は靴を脱ぎ、鞄を壁際へ置いた。
「ただいま」
自分の声が小さく響いた。
居間の扉が開き、健司が出てきた。髪が少し乱れていた。仕事用ではないシャツを着ている。
「帰ったのか」
「うん」
顔を見たら、すぐに何か言えると思っていた。けれど、健司も由里子も、そのまま立っていた。
台所のほうから、煮詰まったような匂いがした。由里子がそちらを見ると、健司も振り向いた。
「カレー。火は止めてある」
居間へ入ると、食卓の端にコンビニの袋が畳まれずに置いてあった。流しには皿が残り、水切り籠には鍋が伏せられている。洗濯籠はいっぱいだったが、窓の外にはいくつかのタオルが干されていた。
何もかもが止まっていたわけではなかった。
それでも、いつもより物の居場所が曖昧だった。洗った皿の隣に汚れたカップがあり、食品の袋と学校のプリントが同じ卓上に重なっている。
晴菜はソファの端に座っていた。未央は立ち上がりかけ、また腰を下ろした。
「お帰り」
二人の声が重なった。
「ただいま」
由里子はもう一度言った。買ってきた菓子を出そうとして、今ではない気がして手を止めた。
健司が食卓の椅子を引いた。
「座れば」
その言い方は冷たくも親切でもなく、何かを始めるためのものだった。
「急にいなくなるから、驚いたよ」
健司が言った。
由里子は鞄からメモ帳を出さず、膝の上で手を重ねた。
「連絡はしたでしょう」
「そういうことじゃない。旅行に行くなら、前もって相談するだろ」
「前もって決めてたわけじゃないから」
「朝のことで怒って、そのまま出ていったってことか」
由里子は息を吸った。ここから話すつもりで、何度も練習してきた。ところが健司の声を聞くと、用意した言葉がどれも自分のものではないように感じた。
「朝だけじゃない」
短く言うと、健司は口を閉じた。
「ずっと、疲れてた」
「それなら言ってくれれば」
由里子の肩に力が入った。
「木曜の夜、言ったよ」
「何を」
「疲れてるって。あなたが聞いたから、ちょっとって答えた」
健司は目を逸らした。
「そういう疲れだとは」
「私も、うまく言えなかった。でも、皿を端に寄せて、早く寝たらって言われた時、結局私が洗うんだなって思った」
「洗ってって言えばよかったじゃないか」
晴菜が膝の上の指を動かした。未央はじっと由里子を見ていた。
「それを、毎回言うのも疲れるの」
由里子の声が少し上ずった。
「お皿を洗って、洗濯を干して、明日はこれがいるから買ってきて。言うことを考えて、言って、終わったか見て。やってもらっても、頭の中から消えない」
健司は何か言おうとしたが、由里子は先に続けた。
「金曜は、起きられなかった。私もびっくりした。でも、誰も、具合悪いのって聞かなかった」
未央が顔を伏せた。
「遅れるって思って」
「うん。それはわかる。でも、私も一緒に暮らしてる人でしょう。目覚ましじゃないでしょう」
言い終えて、由里子は自分の声の硬さに気づいた。もっと穏やかに言うつもりだった。穏やかでなければ聞いてもらえないと、いつの間にか思っていたのかもしれない。
唇を閉じても、涙は出た。
健司は卓上の傷を見ていた。
「言い方は、悪かった」
小さく言った。
「朝くらいって言ったこと?」
「うん」
「あれが、いちばんつらかった」
由里子はティッシュを取った。誰かに取ってもらう前に手が伸びたが、そのことまで責める気にはならなかった。
「毎朝、あの時間に起きて、みんなのものを用意してる。仕事から帰ったら買い物して、ご飯を作って。自分でも、それが普通になってた。でも、一回できなかったら、ちゃんとしろって」
由里子は息を整えた。
「私、何をしても足りないんだと思った」
「そんなこと、思ってないよ」
晴菜が初めて強く言った。
「思ってなくても、そう聞こえた」
由里子が答えると、晴菜は口を結んだ。
しばらく、誰も話さなかった。冷蔵庫が音を立て、未央が濡れた指先で目尻を拭った。
「私、お昼のことしか考えてなかった」
晴菜は言った。
「模試のことで頭いっぱいで。遅刻したら先生に何か言われるし、昨日まで勉強してたのにって。お母さんも遅くまで起きてたの、知ってたのに」
由里子は娘を見た。
「プリンター、直してくれたから」
晴菜はそこで一度息を止めた。
「私のせいでもあるのに、お母さんのせいって言った」
「寝坊は、私がしたこと。でも、晴菜が自分で起きることまで、私一人の責任にはできない」
言いながら、由里子は自分にも聞かせていた。
「うん」
晴菜は頷いた。
未央は、帰ってきたら母親が謝るものだと思っていたのかもしれない。驚いたような目で二人を見て、それから自分の膝を見た。
「私も、八つ当たりした。ごめん」
由里子はすぐに「いいよ」とは言わなかった。
「聞いたよ」
それだけ答えた。娘は少し戸惑ったようだったが、頷いた。
「心配はしたんだ」
健司が言った。
「居場所も知らせたでしょう」
「場所がわかってれば、心配しないってことじゃない」
由里子は反論しかけた口を閉じた。その通りなのだろうと思った。
「そうだね」
「電話も出ないし」
「出たら、帰れって言われると思った」
健司の視線が動いた。言わなかった、と否定はしなかった。
「電話で話す力がなかった。だから、文章にした。無事なことと、帰る日は、ちゃんと伝えたかった」
「あのメモ見た時、もう帰らないんじゃないかと思った」
未央の声は、まだ少し鼻にかかっていた。
「日曜って書いてあったけど。そう書いて、帰ってこないこともあるのかなって」
由里子は未央の顔を見た。十六歳の娘にとって、二晩はどのくらい長かったのだろう。
「帰ってこないつもりではなかったよ」
「でも、私たち嫌になったんでしょ」
その問いに、由里子は簡単に首を振れなかった。
「あのままの暮らし方は、嫌になった」
未央の目がまた濡れた。
「未央のことが嫌いになった、という話じゃない。でも、好きなら何でもできるわけじゃない」
由里子は声を落とした。
「急に出て、怖い思いをさせたことは、ごめん。今度、一人になりたい時には、もう少し早く言う。でも、休んだことを、なかったことにはしたくない」
健司が顎を引いた。納得したのか、次の言葉を探しているだけなのかは分からなかった。
由里子は、分からないままで座っていた。
「俺は、家にいるほうが楽なんだと思ってた」
健司が、少しして言った。
由里子は顔を上げた。
「自分のペースでできるだろうって。仕事の時間も短いし」
正直な言葉なのだろう。それでも、聞くのはつらかった。
「仕事が短いのは、家の時間に合わせてきたからだよ」
「それは、二人で決めたことだろ」
「最初はね。でも、何年も同じままでいいか、聞いたことはなかった」
由里子は、責めるために昔を持ち出しているように聞こえないか、気になった。けれど、聞かれたことに答えるには、そこへ戻らなければならなかった。
「私も、今すぐ長く働きたいって決めてるわけじゃない。今の仕事も好き。でも、家にいる時間は全部家の用事に使えるって思われると、どこにいても休めない」
健司は椅子の背から身を起こした。
「俺も、休みはほしいよ」
「うん。だから、二人とも休めるようにしたい」
そこで言葉を止めるまで、由里子には少し努力が要った。あなたは今まで休んでいたでしょう、と続けたかった。過去の差をなかったことにはしたくない。けれど、今はどちらがより疲れているかを決めたいのではなかった。
健司が、予定表のほうを見た。
「お前の休み、書いてなかったな」
「仕事がない日は、休みだと思ってたから」
由里子はそう言い、自分でも、その思い違いに長く加わっていたことを感じた。
未央が口を開いた。
「帰ってくるって聞いて、お父さん、掃除してた」
「未央」
健司が低い声で止めた。
「だって、してたじゃん」
由里子は流しを見た。洗った鍋に水滴が残っている。
「カレーも、今日作ったの?」
「昼過ぎから」
健司が答えた。
「昨日は、ご飯が柔らかくなって」
「写真、見た」
未央が少しだけ顔を上げた。
「あれ、私が送ったやつ。米のカップと水の量、いつも見てなかったから。お父さん、途中でもう一回水入れたんだよ」
「足りないと思ったんだ」
健司の声には苛立ちよりも、居心地の悪さがあった。
由里子は笑いそうになり、やめた。失敗を可笑しがると、健司がもうしなくなる気がした。だが、その機嫌まで管理しようとしている自分に気づき、口元を緩めた。
「食べられたなら、よかったね」
「雑炊みたいにした」
晴菜が言った。
「私が調べた。卵入れて」
由里子は頷いた。教えなくても、調べたのだ。
健司が卓上のコンビニの袋を畳み始めた。
「金曜は買ってきた。昨日の夜も。別に食べるのには困らなかった」
「うん」
「ただ、容器がどんどんたまるし、ゴミの日がわからなくて」
「冷蔵庫に貼ってあるよ」
由里子はすぐに答えた。健司は苦く笑った。
「今日、晴菜に言われた」
由里子の胸に、少し鋭いものが残った。見れば分かることを、自分が何年も見続けていた。その負担を、三日で全部分かってもらえるとは思わない。それでも、冷蔵庫の紙を初めて見たことが、小さな入り口にはなるかもしれなかった。
「困らせたくて出たんじゃないよ」
由里子は言った。
「困ったから帰ってきてほしい、だけには、戻りたくない」
健司の手が止まった。
夕食を食べることになった。
話し合いを終えたわけではない。未央のお腹が鳴り、由里子自身も空腹に気づいたからだった。
健司が鍋の火をつけた。由里子は立ち上がりかけて、椅子に座り直した。棚の皿を出すくらいなら、と手が動きそうになる。すると晴菜が四枚の皿を運んだ。
「スプーン、こっちでいい?」
未央は引き出しを開けていた。
「どれでも」
由里子が答えると、未央は自分で選んで並べた。
カレーは鍋の底のほうで少し焦げていた。健司が混ぜようとしたので、由里子は「底はあまり」と言いかけた。健司が振り返る。
「どうしたらいい?」
「上のほうだけ、そっとすくったらいいと思う」
由里子は椅子に座ったまま、鍋の中を見ていた。
四人分が並ぶまで少し時間がかかった。サラダはなかった。水のコップは途中で出てきた。それでも食卓になった。
由里子は一口食べた。
じゃがいもは一つだけ硬く、玉ねぎは形をほとんど失っていた。いつもの味ではない。
「温かい」
言ってから、感想として変だったかと思った。けれど、由里子がいちばんはっきり感じたのはそれだった。自分が列車に乗っている間に、誰かが火を使って、帰ってくる人の食事を用意した。
「ありがとう」
健司は小さく頷いた。
「うまい?」
未央が尋ねる。
「うん。ここのじゃがいもは、ちょっと硬い」
「私のも」
晴菜が言って、三人の口元が少し動いた。健司も匙で自分のじゃがいもを割った。
笑ったからといって、終わりにはならない。由里子はそのことを忘れないようにした。食べる時に笑えることと、朝の言葉を許せることは、別々に進んでいい。
食後、健司が皿を流しへ運んだ。
由里子は菓子の箱を開け、四つに分けた。未央が白骨温泉はどんなところだったか尋ねる。由里子が湯の色と川の話をすると、娘は写真を見たいと言った。
携帯を渡した途端、健司が時計を見た。
「それで、これからはどうしたいんだ」
仕事の打ち合わせのような言い方だった。由里子は少し身構えた。
「今すぐ全部は、決められない」
「でも、何か決めないと、また同じだろ」
それは、その通りだった。
由里子は鞄からメモ帳を取り出した。紙を見せるつもりはなかったが、手の中にあるだけで声が出やすくなった。
「朝、もう五時には起きない」
健司と娘たちの顔が上がった。
「自分が仕事の日にも、六時より前には起きたくない。みんなを起こす係はやめたい」
「起きるのは、自分でやる」
晴菜が言った。未央も頷く。
「弁当は?」
未央の問いに、由里子は答えを急がなかった。
「毎日三人分は作らない。明日は、自分で用意するか、買ってほしい」
未央は少し唇を尖らせたが、何も言わなかった。
健司が椅子に背を預けた。
「弁当は、俺は買えるけど。娘たちは」
「学校で買える日もあるし、パンでもいい。材料があれば、自分でも詰められると思う」
晴菜が言った。
由里子は娘を見た。母親の代わりになると申し出たわけではなかった。自分の分をどうするか、考えている。
「毎日作りたくない、というより、作らない日を決めたい。週末に、一週間の予定を見て」
「俺も何か手伝うから」
健司が言った。
由里子はその言葉を聞き流さなかった。
「手伝う、だと、誰の仕事になる?」
健司は返事をしなかった。
「私が担当で、みんなが補助、という形を変えたい」
メモ帳を握る指先が震えた。膝の上に置き直す。
「洗い物をしてくれたら助かる。でも、その日だけじゃなくて、洗剤がなくなったら買うところまで、誰かが持ってほしい」
健司は流しを見た。さっき運んだ皿が重なっている。
「今日は俺が洗う」
「ありがとう。これからのことは、来週、落ち着いて決めたい」
まず明日、そのあと一週間。由里子は、自分が守れる幅で話した。
未央が小さく手を挙げた。学校の教室のような仕草だったので、四人とも少し戸惑った。
「聞いていい?」
「うん」
「お母さん、前に私が洗濯物を畳んだ時、あとで全部直してたじゃん。あれで、やらないほうがいいのかなって思った」
由里子はすぐに覚えがあると言えなかった。どの日かは分からない。でも、したことはあった。
「タオル、向きが揃ってないと棚に入らないから」
口にした途端、それが説明になっていない気がした。
「入ってたよ。私、入れたもん」
未央が言った。
由里子は娘を見た。自分がしてきたことを話す時間のはずなのに、と一瞬思った。けれど、これからのやり方を変えるなら、未央の覚えていることも聞かなければならない。
「そうだね。入っていたなら、直さなくてよかった」
「きれいじゃないと、嫌なんでしょ」
「嫌な時もあると思う。でも、それを全部私のやり方に揃えてもらうと、また私しかできなくなる」
由里子はゆっくり言った。
「私も、見てすぐ直すのはやめる。必要なことなら、どうしてかを話す」
「じゃあ、私の畳み方でもいい?」
「しまえて、使えるなら」
未央は頷いた。
自分にも直すところがあると認めると、由里子の苦しみが小さく扱われるのではないかという怖さがあった。だが、健司はそこで「お前だって」とは言わなかった。
その言葉が出なかったことを、由里子は覚えておこうと思った。
晴菜が食卓に肘をつき、すぐに下ろした。
「私、受験の年だけど」
その言葉に、由里子の背中が少し硬くなった。
「うん」
「何でも毎日、同じだけは、できないと思う」
未央が姉を見た。
「それ、ずるくない?」
「ずるいとかじゃなくて」
「私だって文化祭あるし」
言い合いになりかけたところで、由里子は以前なら「お母さんがやるから」と言っていた。それがいちばん早かった。
今日は言わなかった。
「できる量が違うなら、それも決めよう。晴菜が全部やる話じゃないし、未央だけ多くする話でもない」
「俺の帰りが遅い日は?」
健司が尋ねた。
「遅くなるって分かった時に、どうするか連絡してほしい。黙ってたら私がやってる、にはしたくない」
由里子はメモを見た。書いた文字より、今の自分の言葉のほうが少し長かった。
「毎日同じにできないのは、私も同じだから」
その一文を言うと、体の奥が震えた。
晴菜が頷いた。
「じゃあ、模試の前とかは、言う」
「私も、作業が遅くなる日は言う」
未央の声にはまだ少し不満が残っていた。それでよかった。四人とも何の不満もなく頷くより、そのほうが実際の生活に近かった。
健司が、冷蔵庫の予定表を外してきた。
「ここに書けばいいのか」
「仕事の予定も書いて。私が聞くのを待たないで」
由里子が言うと、健司はペンを探した。場所を尋ねかけて、引き出しを開け、自分で見つけた。
話は一度、また険しくなった。
健司が旅費はいくらだったのか尋ねた時だった。
由里子は身を固くした。健司の口調が責めるものだったかどうか、聞き分ける前に胸が熱くなった。
「自分のお金で払った」
「どこから出したかじゃなくて」
「許可が要るの?」
「そうは言ってない」
晴菜と未央が黙った。
由里子は湯呑みを持ち上げたが、口へ運ばずに置いた。健司も額に手を当てた。
「家の金のことは、二人でわかっていたほうがいいだろ」
由里子は目を閉じた。今なら、健司の言いたいことも少しは分かった。ただ、自分のための出費だけが説明を求められるように感じていた。
「あなたが会社の人と泊まりでゴルフに行った時、私、金額を聞かなかった」
「あれは前から予定が」
「予定の話じゃない。私が自分に使うお金の話をすると、急にぜいたくをしたみたいになるのが、嫌なの」
健司は反論しようとして、止まった。
「そんなふうに言ったつもりはなかった」
「うん。でも今は、そう聞こえてしまう」
由里子は深く息を吐いた。
「金額は話す。隠すことじゃないから。でも、休みに行ったことを裁かれる話にはしたくない」
健司は頷いた。
「今、そのつもりで聞いたわけじゃない。ただ、順番が悪かった」
由里子はすぐに笑えなかった。それでも、話をやめずに済む言葉が一つあった。
旅費を伝え、家の生活費からは出していないことを説明した。健司は自分の自由に使うお金も、今度確認しようと言った。二人のことを同じ卓上で扱うのは、長い間なかったことだった。
九時前、娘たちは明日の支度をしに二階へ上がった。
健司が流しに立ち、由里子は椅子に残った。皿を洗う音を聞きながら休むことに、まだ慣れなかった。今すぐ横に立てば早く終わる。それでも座っていた。
「スポンジ、これでいいんだよな」
「うん」
「鍋の焦げ、取れない」
「少し水につけておいたら」
健司は蛇口を閉めた。
「家のこと、できないわけじゃないと思ってた」
背中を向けたまま言った。
「やれば、できると思うよ」
「そういう意味じゃなくて。必要ならやるつもりだった」
「必要だったよ。ずっと」
由里子の返事に、健司の肩が少し下がった。
「言われないと、見てなかった」
由里子は窓の外を見た。物干し竿に、一枚だけタオルが残っている。
「私も、任せて失敗されるより、自分でやるほうが早いって思ってた。でも、それで疲れて、口をきかなくなるのは、もう嫌」
「仕事でも、同じことやってるかもしれないな」
健司が言った。
木曜日の夜の担当者の話を、由里子は思い出した。けれど、今は夫の仕事の悩みを引き取る時間にはしたくなかった。
「その話も、今度聞く。今日は、家のことを話したい」
健司は振り返った。少し驚いたようだったが、「わかった」と言った。
由里子は膝の上の手をほどいた。
健司は手を拭き、由里子の向かいに座った。二人だけの食卓は、娘たちがいた時より広かった。
「昔は、もう少し話してたよな」
「うん」
「いつから、こんなになったんだろう」
由里子は答えを探した。これ、と一つの出来事を示せれば楽なのかもしれない。けれど、思い出すのは、途中で終わった会話ばかりだった。
「どっちかが悪くなった日が、あったわけじゃないと思う」
そう答えると、健司は頷いた。
「ただ、少しずつだから、気づかなくてよかったことにはならない」
由里子は続けた。
「気づいてほしかったし、私も、もっと早く言いたかった」
健司は指先で机の木目をなぞった。
「家に帰れば、用意されてると思ってた。会社で何も決めたくないくらい疲れてても、ここは大丈夫だって」
「私にも、そう思える家がほしい」
由里子の声は静かだった。
健司はすぐには返事をしなかった。流しで、水滴が一つ落ちた。
「全部、すぐにはできない」
「私も、全部すぐには許せない」
由里子は言った。
それを言っても、健司は立ち上がらなかった。
しばらくして、彼が二人の湯呑みへ茶を足した。由里子のぶんを先に注ぐと、急須が空になった。健司は台所へ立ち、新しく湯を沸かし始めた。
由里子は手を出さず、湯の入った自分の湯呑みを持った。
風呂を誰が洗うかで、また小さな相談になった。
健司は洗い物のあとにすると言い、未央が階段から「私、早く入りたい」と声を上げた。由里子は口を開きかけた。
「じゃあ、先に洗ってくれる?」
健司が娘に言った。
「洗い方、わかんない」
「洗剤、浴室にある。俺もあとで見るから」
しばらくして、浴室からシャワーの音がした。由里子は玄関の鞄を持って寝室へ上がった。荷ほどきをする間、誰かに呼ばれるかと耳を澄ませてしまう。
呼ばれなかった。
旅行で使った服を洗濯籠へ入れ、菓子の包み紙を捨てた。メモ帳は引き出しへしまわず、枕元に置いた。旅の時だけ使うものにしたくなかった。
廊下へ出ると、晴菜が部屋の前に立っていた。
「明日、私、弁当やってみる」
「自分の分?」
「うん。未央も同じのでいいなら、二つ」
由里子は娘の顔を見た。張り切った様子の下に、何かを取り戻そうとする焦りがあるようにも見えた。
「今夜、勉強は?」
「これから。あんまり進んでない」
晴菜は壁にもたれた。
「お母さんが怒ってると、なんか、勉強してていいのかなって」
由里子はその言葉に足を止めた。自分が黙って家事をしていた時間を、娘も何かの気配として見ていたのだろう。
「私の機嫌を直すために、やらなくていいよ」
由里子は言った。
「でも、何もしなかったら、また同じじゃん」
「明日のことを考えてくれるのは、うれしい。だけど、私が悲しくならないように、晴菜が全部先に考える必要はない」
言いながら、由里子は自分が長くしてきたことを、娘に引き渡しかけていたのだと気づいた。
「一日やってみるのはいい。でも、私の代わりになる必要はないからね」
晴菜は少し目を丸くした。
「受験もあるし、自分のこともやっていい」
「うん。明日だけ」
「材料、わからなかったら一緒に見よう。朝じゃなくて、今」
二人で階下へ戻った。冷蔵庫には卵と小松菜が残っていた。晴菜は棚を見て、冷凍のブロッコリーを見つけた。
「これ、入れていい?」
「いいよ。袋の説明、読んでね」
由里子はそこまで言って、台所を離れた。
夜、健司が寝室へ入ってきた。
いつもなら由里子のほうがあとだった。布団に入って宿でもらった地図を広げていると、夫が一瞬、入口で止まった。
「何見てるの」
「宿でもらった地図。まだ鞄に入ってたから」
由里子は紙を畳んだ。
「今度、見せて」
「うん」
健司は枕元の携帯を触り、目覚ましを二つ設定した。由里子に時刻を知らせるでもなく、自分で確かめて伏せた。
明日、本当に起きるかどうかは分からない。由里子が先に目を覚まして、気になって声をかけるかもしれない。今日話しただけで、明日のすべてが変わるわけではなかった。
「金曜の朝、ごめん」
健司が言った。
食卓で言った時より、言葉が少なかった。
「うん」
由里子は答えた。
「まだ、思い出すとつらい」
「うん」
それ以上、健司は許してくれとは言わなかった。
照明を消すと、部屋は静かになった。旅館の川の音は聞こえない。代わりに、どこかの家の車が通り、娘の部屋で椅子が動いた。
同じ家へ帰ってきたのだと、由里子は思った。
同じ場所で、違うことを少しずつしなければならない。
枕元の時計を六時に合わせた。五時の数字を消す時、指が一度ためらった。消したあと、もう一度設定を確かめた。
六時。
由里子は目を閉じた。まだ何も解決していないことが、今夜は、何も変えられないという意味ではなかった。




