第三章 違う空気を吸う
宿の玄関には、濡れた石の匂いがあった。
バスを降りてから少し歩いただけなのに、肩に掛けた鞄が重かった。戸を開けると、奥から足音が近づいてきた。
「佐藤様でいらっしゃいますか」
「はい。電話した、佐藤です」
「お待ちしておりました」
出迎えた女性は由里子と同じくらいの年齢に見えた。鞄を預かろうとしたので、由里子は反射的に大丈夫ですと言った。
「では、お部屋までご一緒に」
それ以上は勧められなかった。そのことにも、由里子は少しほっとした。
帳場で宿泊者名簿に住所と名前を書いた。家族の人数を書く欄はない。職業を説明する必要もない。書き終えてペンを置くと、宿の人が食事の時刻を確かめた。
「六時半で、よろしいでしょうか」
「はい」
誰の帰りを待つ必要もなかった。
階段を上がり、廊下の奥の部屋へ案内された。障子を開けると、窓の向こうに木々の葉が重なっていた。下のほうから川の音がする。雑誌の写真よりも景色は狭く、その分、すぐ手の届く場所にあるようだった。
宿の人が湯を入れてくれている間、由里子は畳に正座した。
「足をお楽になさってください」
「あ、はい」
足を崩しても、背中は伸びたままだった。
説明が終わり、戸が閉まる。由里子は湯呑みを持った。自分が沸かした湯ではない。急須を洗うのも自分ではない。そのことを思った瞬間、部屋の静けさが急に濃くなった。
もてなされているのは宿泊料を払っているからだと分かっていた。ここでの親切に、家族の愛情と同じものを求めるつもりはなかった。それでも、こちらの返事を待ち、希望を一つずつ聞かれることが、こんなに楽なのだと知った。
窓のそばの椅子に座った。両手を膝に置くと、次にすることがなくなった。
何もしなくていい。
それは、思っていたより落ち着かなかった。
時計を見た。まだ夕食までは一時間以上ある。鞄の中身を出し、洗面道具を並べた。服を棚へ入れ、窓を少し開け、また閉めた。それでも十分もたっていなかった。
座卓にあった宿の案内を端から読んだ。浴場の利用時間、食事の場所、布団を敷く時刻。知らない家の決まりを覚えると、自分がしてよいことが分かって安心した。
そこで、由里子は案内を置いた。
ここへ来ても、よい客として振る舞うための手順を探している。
窓の椅子に戻り、背もたれへ体を預けた。家の椅子より深く座れる。目を閉じたが、眠れなかった。川の音の合間に、廊下の足音が聞こえる。誰かが別の部屋へ荷物を運んでいた。
自分が休める場所を、誰かが働いて用意している。それは当然のことだった。食事を出す人も、湯の温度を見る人も、見えないところにいる。この心地よさを魔法のように受け取るのは違う気がした。
だからといって、自分で宿の掃除を始める必要はない。仕事として引き受けてもらい、その対価を払い、してもらったことを雑に扱わない。それだけで成立する関係がある。
家では、誰が何をどこまで引き受けるかを、いつの間にか決めずに済ませていた。
由里子は案内を重ね直した。休むのが下手だからといって、今すぐ上手になろうとするのも、何か違う。今日は椅子に座っていられれば、それでよいことにした。
携帯を開いたのは、着いて二十分ほどたってからだった。
健司から何度か着信があり、未央からは短い文章が三つ届いていた。
〈今日の夜ご飯どうするの〉
〈お父さん買ってくるって〉
〈お母さん、怒ってる?〉
由里子は最後の問いを見つめた。
怒っている。けれど、それだけと答えると、怒りが収まれば元に戻れるように思われる気がした。
〈宿に着きました。無事です。怒っているだけじゃなくて、疲れてしまったので、少し休みます〉
家族の画面へ送り、少し待った。未央の返事が先に来た。
〈わかった〉
晴菜は〈了解〉、健司は〈着いたならよかった〉だった。そのあとに健司から、電話くらい出られないのか、と続いた。
由里子は今夜は話せないこと、明日の夕方にまた連絡することを送った。
十分前まで何も決めなくてよかった部屋に、明日の連絡という予定が一つできた。けれど、その予定を自分で選んだ分だけ、家の予定表とは違って見えた。
携帯を充電器につなぎ、座卓に置いた。画面が上を向いていると気になるので、裏返す。温泉へ行くための袋を持って部屋を出た。
廊下の窓にも木々が映っていた。自分と同じ浴衣を着た人とすれ違い、小さく会釈する。相手は由里子が今日何をしてきたのか知らない。由里子も相手のことを知らなかった。
それは寂しさとは違っていた。
湯は、白かった。
湯船の縁に座り、足を入れる。肩まで沈めるには少し熱く、由里子は浅いところでしばらく待った。湯の向こうには岩と木の影がある。木の葉が重なる隙間から、まだ明るい空が見えた。
目を閉じても、朝の声は消えなかった。
朝くらい、ちゃんとしてくれよ。
その声が湯の音と混ざる。忘れようとすると、かえってはっきりする。由里子は目を開けた。
温泉へ来たからといって、別の人になるわけではない。体を包む湯は気持ちよく、胸の奥は硬いままだった。その二つが同時にあることを、そのままにしてみた。
少し離れたところで、年配の女性が湯の縁に腰掛けた。由里子に会釈し、ゆっくり脚を動かしている。やがて連れらしい人が来て、「先に上がる?」と尋ねた。
「もうちょっと」
「じゃあ、部屋にいるね」
それだけだった。
もうちょっと、と言えば、その時間が残る。誰も理由を求めなかった。
由里子は湯の中で手を開いた。右の親指の付け根を左手で押す。少し痛かった。痛いところを確かめている間だけは、自分の体が自分のものとして近くにあった。
川の音が続いていた。家の換気扇とは違い、由里子がスイッチを切っても止まらない音だった。
上がるころには、肩のこわばりが少し緩んでいた。脱衣場で髪を乾かしていると、鏡の中の顔に赤みがあった。旅行者らしく見えるかどうかは、もう確かめなかった。
夕食の席には、小さな名前の札が置いてあった。
佐藤様。
由里子は椅子を引き、鞄を足元へ置いた。隣の席とは少し離れていて、無理にほかの客と話す必要はなかった。盆の上には数種類の小鉢が並んでいる。葉の緑と器の白を、しばらく眺めた。
家では料理を並べると、足りないものを探してしまう。箸、取り皿、麦茶、誰かが使うふりかけ。今も卓上を見回したが、欲しいものは手の届くところにあった。
「お飲み物はいかがなさいますか」
地元の酒を小さなグラスで頼んだ。家では健司が飲む日に一緒に飲むことが多かった。今日は、自分が飲みたいかどうかを考えてから口に出した。
最初の一口は、少し強く感じられた。酒を置き、煮物を食べた。やわらかいのに崩れない。どのくらい煮ればこうなるのだろう、と考えかけて、由里子は箸を止めた。
作り方を知らなくても、食べていい。
そう思うと、笑いが出そうになった。そんなことを自分に言わなければいけないのか。
焼いた魚が運ばれてきた。熱いうちに食べた。皮が箸の先で小さく裂ける。その手触りまで分かるほど、一つのものを食べているのは久しぶりだった。
給仕の人に「おいしいです」と伝えると、「ありがとうございます」と返ってきた。由里子はそのあと、自分が家でほしかったのは、この言葉だけだったのだろうかと考えた。
ありがとうを毎日言われても、全部を一人で続けるなら、疲れは残る。
家族には、作った食事を喜んでほしい。同時に、自分が作らない日にも、それぞれの手で食卓を用意してほしい。
どちらか一つではなかった。
最後の茶が来るころ、由里子はお腹がいっぱいになっていた。残すのが申し訳なくて箸を持ち直したが、苦しくなるまで食べる必要はないと思い、そっと置いた。
それくらいのことを決めるにも、練習が要った。
食事を終えて席を立つと、近くにいた客が、卓上の紙袋を指差した。由里子のものだと分かり、慌てて取りに戻った。部屋の鍵を入れていた小さな袋だった。
「ありがとうございます」
由里子がお辞儀をすると、相手は笑って頷いた。
忘れ物をしたことに、誰も腹を立てなかった。それが特別な親切だと思えてしまうことを、由里子は少し悲しく感じた。
自分もまた、家では娘たちの忘れ物に何度も苛立っていた。拾う人、探す人、届ける人がいつも同じだから、ただの一度として扱えなくなっていたのだろう。
廊下の途中で、由里子は立ち止まった。自分が傷ついたことを考えるたび、自分にも悪いところがあったと思い出す。だからといって、傷ついたことを取り消す必要はない。両方を持って帰るしかなかった。
部屋へ戻ると、布団が敷かれていた。
由里子は畳んだ服を椅子の背へ掛け、明日着るものを少し考えた。宿の案内に周辺の地図が挟まっている。上高地の文字が目に入った。昔、雑誌の白骨温泉のページのあとに載っていた場所だった。
今日は歩く気になれないかもしれないと思っていた。けれど、部屋だけにいると、携帯を何度も見てしまいそうだった。
帳場へ下りて、翌日の行き方を尋ねた。
宿の人は地図を広げ、バスの乗り継ぎが必要なことを教えてくれた。白骨温泉から沢渡へ出て、上高地方面のバスへ乗り換える。便の接続と帰りの時刻を、紙に書いてくれた。
「大正池で降りて、河童橋のほうへ歩く方もいらっしゃいます。休みながらでしたら、お時間は余裕を見てください」
由里子は自分の靴を思い出した。履き慣れてはいる。薄い上着もある。
「お天気を見て、朝、決めても大丈夫ですか」
「ええ。無理なさらずに」
戻ってから、携帯でも経路を確かめた。家族旅行の時には、こういう準備をしているだけで、もう旅の半分が仕事になった気がした。今日は失敗したら自分が引き返すだけだった。それは気楽で、同時に少し頼りなかった。
枕元に時刻を書いた紙を置いた。明日の目覚ましは、五時ではない。
それでも眠る前に、明朝の家のことを考えた。健司は休みだから起きなくてもいい。晴菜は自習室へ行く。未央は作業がある。目覚ましをかけるよう送るべきだろうか。
由里子は携帯に触れ、手を離した。
何も送らないことが、こんなに具体的な行動になるとは思わなかった。
布団に入り、照明を落とした。窓の外の川は、夜も流れている。
一度、遠くに換気扇の音を聞いた気がした。耳を澄ますと、水の音だった。
翌朝、由里子は六時前に目を覚ました。
体が勝手に起きる時間を知っているらしい。しばらく布団の中にいたが、眠れそうになかった。起きて障子を開けると、葉の先に水滴が残っていた。夜のうちに少し降ったのかもしれない。
朝食の前に、短く湯に入った。昨日よりも湯の匂いがはっきりした。空腹で長湯をしないよう早めに出て、部屋で水を飲んだ。
朝食には小さな焼き魚と、温かい汁物が出た。ご飯を自分でよそい、食べたいだけ食べた。食後に、今日使う地図をもう一度見せてもらった。
宿を出る時、由里子は家族への画面を開かなかった。昨日、夕方に連絡すると伝えてある。今はその約束に頼ることにした。
バスの窓には朝の光が当たっていた。乗り継ぎの場所で一度不安になり、係の人に行き先を確かめた。人に尋ねるたび、自分がよほど頼りない旅行者に見える気がしたが、相手は普通に答えてくれた。
大正池で降りた時、空気の冷たさに驚いた。家では夏物を出そうとしていたのに、ここでは上着の前を閉じたくなる。地図を鞄へしまい、歩道を水辺へ下りた。
池の向こうの山に、まだ白いところがあった。
写真で見た風景なのに、写真では分からなかった音があった。靴の下の砂利、鳥の声、どこかで誰かが鞄の留め具を閉じる音。静かな場所にも、人の生活は混じっていた。
由里子は池の前で立ち止まった。
きれいだ、と最初に思った。そのあと、晴菜が見たら何と言うだろう、と考えた。未央なら写真を何枚も撮るだろう。健司は山の名前を調べるかもしれない。
家族を思い浮かべたことに、腹は立たなかった。
離れていても思い出す相手だということと、同じやり方では暮らせないということは、両方とも本当だった。
木々の間の道を歩いた。
地図で見た距離は短く感じたが、立ち止まるたびに時間がたった。濡れた木道では歩幅を小さくした。後ろから人が来れば端へ寄り、先へ行ってもらう。家族で歩いていると、誰が遅れているかをいつも気にした。今は自分の足の疲れだけを確かめた。
開けた場所で、若い父親が子どもに上着を着せていた。母親らしい人は少し先の景色を見ている。子どもが袖を嫌がり、父親はしゃがんで待った。
由里子は歩きながら、その場面を長く心に残した。
健司にも、そういう時期があった。晴菜がまだ小さかったころ、由里子が寝ている日曜日の朝に、娘を連れて公園へ行ったことがある。帰ってきた晴菜の靴が泥だらけで、由里子は玄関で「どうしてこんなに」と言ってしまった。
楽しかったね、と先に言えばよかったのだろうか。
そう考えてから、由里子は歩みを緩めた。何もかも、自分の言い方へ戻してしまう癖がある。泥のついた靴は、遊ばせた人が洗えばよかった。それを言えなかったことと、その後ずっと一人で洗うようになったことは、同じ大きさの責任ではない。
健司が何を考えていたのかは、聞かなければ分からない。自分の記憶の中で夫の答えまで作るのは、もうやめたいと思った。
川の見えるベンチに座った。水が透明で、底の石が揺れて見える。
鞄からメモ帳を出し、昨日の文章の続きを書いた。
〈朝のことだけではありません〉
その下に、短く並べる。
〈起こす係をやめたい〉
〈休みの日を、自分で使いたい〉
〈頼まなくても、家のことを考えてほしい〉
最後の行を見て、ペンを止めた。頼まなくても、という言葉で、また心を読んでほしいと要求しているのかもしれない。それでも、一つずつ指示を出すことまで自分の仕事にするのは違う。
由里子は下に書き足した。
〈何を分けるか、一緒に決めたい〉
これは、帰ったら言えるかもしれなかった。
歩き出してしばらくすると、靴の内側が踵に当たり始めた。
早く着かなければ、と思うと足が痛む。ゆっくり歩けばいい、と地図を確かめた。帰りのバスまでまだ時間がある。途中で温かい飲み物を買い、屋外の席で休んだ。
近くの卓で、二人連れが行き先を相談していた。一人はさらに先へ行きたがり、もう一人は足が疲れたと言っている。
「じゃあ、ここで待ってる?」
「うん。写真撮ってきて」
喧嘩にはならなかった。全員が同じ場所へ行くことだけが、一緒の旅ではないらしい。
由里子は飲み物を両手で包んだ。
家族で出かける時、みんなが楽しめるようにと思っていた。結局、誰にも決め手がなく、ショッピングモールへ行く。晴菜と未央は別の店へ、健司は家電売場へ。由里子は食品を買い、集合時刻に間に合うよう歩く。それも悪い日ではなかったが、自分がどこへ行きたかったかは、いつも最後まで分からなかった。
白骨温泉へ行きたい、と一度は言った。
それを、自分で覚えていてよかった。
飲み終えたカップを返し、川沿いを歩いた。河童橋のあたりには人が多く、笑い声もした。山はその向こうに動かずにあった。
由里子は携帯で一枚写真を撮った。家族に送る画面を開きかけたが、まず自分で見直した。画面の端に、知らない人の肩が入っていた。撮り直そうかと思って、やめた。ここに人がいたことも、今日の景色の一部だった。
昼は軽く済ませた。夕食を残したくないからではなく、歩くのに重くならないくらいがよかった。自分の空腹や疲れを、その都度確かめることに少しずつ慣れてきた。
帰りの乗り継ぎに遅れないよう、早めにバスターミナルへ向かった。まだ見ていない道があったが、それは次に残せばいい。
次、と考えたことに気づき、由里子は足を止めた。
道の脇には、行き先を示す標識があった。ここまで来た道と、まだ歩いていない道が、別の矢印で描かれている。由里子は写真を撮らず、目で確かめた。
一度の旅で全部を見なければならないと思っていなかったことが、うれしかった。家族旅行では、せっかく来たのだからと予定を詰め、最後は誰かが疲れて口数を減らした。自分の予定なのに、途中で減らすことが損に思えた。
今日は、足が少し痛いから帰る。それでよかった。
バスを待つ列に並び、鞄から水を出した。前にいる人が地図を畳み直し、後ろでは誰かが今日歩いた道の話をしていた。由里子には、今すぐ話す相手がいなかった。少し寂しいと思った。
その寂しさも含めて、一人で来た一日だった。
今回を最後にしなくてもいい。
宿へ戻ったのは、午後の光が柔らかくなるころだった。
靴を脱ぐと、踵に小さな赤い跡があった。荷物に入れていた絆創膏を貼る。娘たちのためにいつも持ち歩いていたものが、今日は自分に役立った。
しばらく横になった。誰かの帰宅までに起きなければ、とは思わなかったが、携帯の時計を二度見た。体にしみついた急ぎ方は、一日では抜けない。
夕方、約束していた連絡を送った。
〈今日は上高地を歩きました。明日は夕方に家へ着く予定です。帰りの時間が決まったら、また知らせます〉
少し考えて、川の写真を一枚添えた。
未央から最初に返事が来た。
〈水すごい〉
次に、家の炊飯器の写真が送られてきた。蓋が開き、ご飯が少し湿って光っていた。
〈柔らかくなった。食べられるけど〉
由里子は水の量を尋ねそうになった。計量カップは米用を使ったのか。目盛りはどこまで入れたのか。文字を打つ前に、未央から続きが来た。
〈お父さんが水、多かったって〉
由里子は〈そうなんだ〉とだけ返した。
失敗を直すために呼ばれているのではなく、今日あったことを知らせてもらっているのかもしれなかった。
晴菜からは個別に届いた。
〈おとといの夜、プリンター直してくれたのに、昨日の朝あんな言い方してごめん〉
由里子は、返事に時間がかかった。
〈言ってくれてありがとう。私も、帰ってから話したい〉
許した、とも、大丈夫、とも書かなかった。大丈夫ではなかったからだ。それでも娘の謝罪を、そのまま受け取ることはできた。
健司は、帰る時刻を知らせてくれ、とだけ送ってきた。朝より短く、温度の分からない文章だった。怒っているのか、何を言えばいいのか分からないのか。画面から推し量るのをやめ、携帯を置いた。
二度目の夕食は、一度目より落ち着いて食べられた。
給仕の人に今日どこへ行ったのか聞かれ、上高地、と答えた。どこまで歩いたかを説明すると、思っていたよりたくさんの景色が口から出た。木道の湿り、川の石、橋の上の人の多さ。
「よく歩かれましたね」
「途中、何度も休みました」
言い訳のつもりで言ったが、相手は「それがいいですね」と返した。
部屋へ戻ると、家から連絡がないことが気になった。昨日は多すぎると感じ、今日は少ないと感じる。勝手なものだと思いながら、由里子は座卓にメモ帳を広げた。
帰ったら、何から話すか。
最初に「みんなのために」と書き、消した。
自分がしてきたことを、全部相手への貸しに変えたいわけではなかった。弁当を作るのが楽しい日もあった。娘たちの好きなものを見つければ、買って帰りたい。健司が疲れている時には、温かいものを食べさせたいと思う。
それらを、本当に自分で選べる形に戻したかった。
次に、「もう何もしない」と書いて、やはり消した。
何もしない人になりたいわけでもない。何もしない日があっても、責められずに家にいられる人になりたい。
由里子はその文を残した。
便箋のように整えて書くつもりはなかったが、文字を追うと、健司へ渡す手紙のように見えた。由里子はページをめくり、誰にも見せないつもりで別のことを書いた。
〈家にいたくないと思った〉
書くと、胸が強く鳴った。
その下に、〈それでも帰りたい時がある〉と続けた。
食卓で未央が笑う声を聞きたい。晴菜が少しずつ決めていく将来の話も聞きたい。健司と、用事以外のことを話したい。どれも嘘ではない。あの朝、家にいることに耐えられなくなった自分も嘘ではなかった。
由里子はペンを持ったまま、畳に脚を伸ばした。踵の絆創膏が少し引っ張られた。歩いた距離だけ、体が重い。
机に向かっているうちに、いつもなら聞こえるはずの音がないと気づいた。健司のパソコン、娘たちのドライヤー、階段を下りる足音。音がしないと、誰かに何かを頼まれる少し前の気配もなかった。
家族は、自分が次の呼び声を待ちながら休んでいることを知っているだろうか。
知らないと思う。由里子も、誰かに言うまで、それを仕事の一部として考えたことがなかった。
紙に〈呼ばれるのを待たずに休みたい〉と書いた。
すぐに、お母さん、と呼ばれた時の幼い娘たちの顔が浮かんだ。その声を嫌いになったわけではない。何度書いてもそこへ戻る。好きなものの中で疲れることを、由里子はまだうまく扱えなかった。
窓を少し開けた。冷たい空気が入ってきて、足元が冷えた。すぐ閉め、上着を羽織る。自分の体に合わせて、開けたり閉めたりしていい窓だった。
メモ帳を読み直し、最初のページから順番に話すのはやめようと思った。全部を一度に分かってもらおうとすれば、また声が出なくなる。
帰ったら、まず一つ言う。明日の朝は、自分で起きてほしい。
その次を話す時間があるかどうかは、帰ってから考えればよかった。
窓の外は暗かった。川の音はもう、珍しい音ではない。二晩で耳が覚える音もあるのだと思った。
自分が帰らなかったら、と一度考えた。月曜日には仕事がある。着替えも足りない。泊まり続けるお金はあるが、それで解決するわけではない。別の住まいを持つ暮らしを、由里子はまだ望んでいるのかどうか分からなかった。
今、帰るのは、話したいことがあるからだ。
全てを決め終えてから帰らなくてもいい。
メモ帳を閉じる時、表紙の角を指で撫でた。
日曜日の朝、由里子は自分の荷物だけを鞄へ詰めた。
忘れ物がないか押し入れと洗面所を見た。布団を畳みかけて、途中でやめた。宿の決まりが分からないので、そのままにしておく。家と同じことをしなければ落ち着かない癖を、一つずつ見つけていった。
窓を少し開け、最後に川の音を聞いた。昨日より遠く感じる。耳が慣れたせいかもしれないし、もう帰ることを考えているからかもしれなかった。
帳場で支払いを済ませると、薄い紙が一枚手元に残った。二泊分の金額。高かった。けれど、無駄だったとは思わなかった。
「ゆっくりできましたか」
出迎えてくれた女性が尋ねた。
由里子は少し考えてから答えた。
「眠れました」
「それはよかったです」
人生が変わった、と言う必要はなかった。眠れた。それだけでも、持って帰れるものだった。
土産物の棚で、小さな菓子の箱を選んだ。三人に謝る代わりではなく、自分が食べてみたいものにした。家族にも分けられる数が入っていた。
帰りのバスに乗り、座席に腰を下ろした。行きには足元へ置いた鞄を、今度は荷物の棚へ載せた。降りる時に忘れないよう、持ち手の位置を確かめる。
携帯で乗り継ぎを見直し、家には夕方五時ごろ着くと送った。健司からは〈わかった。家にいる〉と返ってきた。
由里子は画面を閉じた。
帰りたい気持ちと、帰りたくない気持ちが同じくらいあった。どちらかを偽物にしなくても、バスは家のある方向へ進んでいく。
山の道を下りながら、由里子は鞄の横の菓子の箱を押さえた。
帰りの列車に乗る前、売店には別の土産も並んでいた。晴菜が好きそうな焼き菓子と、未央が好きそうな甘い飲み物。健司には酒もある。手を伸ばしかけて、今ある一箱でいいと思った。
旅で自分が受け取ったものを、人数分の品物へ変えて持ち帰らなくてもいい。
ホームで立っていると、未央から帰宅を待つような短い文章が来た。
〈カレーらしい〉
由里子はその意味を考え、少し遅れて笑った。今夜の夕食のことだろう。誰が作っているのかを尋ねると、〈父〉と一文字返ってきた。
火を止め忘れないだろうか、と思った。すぐに、ずいぶん失礼な心配だとも思った。健司は仕事で大きな段取りを組み、車を運転し、家の契約書にも目を通す。鍋の火を管理できない人ではない。
できないことと、していないことを、自分も混同してきたのかもしれない。
〈夕方には着きます〉
由里子はそう返し、作り方を送るのはやめた。
列車の座席に落ち着いてから、メモ帳を開いた。
〈私は、もう毎朝五時には起きません〉
声に出さずに読んだ。初めて言う時には、たぶん震える。それでも、紙の上では最後まで書けた。




