第二章 ひび
目を開けた時、部屋の光が違っていた。
カーテンの隙間が白く、天井まで明るい。由里子はまず、今日は休日だったかと考えた。それから階下の大きな物音を聞いた。
枕元の時計は八時を指していた。
寝過ごした。
声にするより先に起き上がり、掛け布団に足を取られた。目覚ましのスイッチは入ったままだった。鳴ったのを止めたのか、聞こえなかったのか、覚えていない。隣の布団は空だった。
廊下で未央とぶつかりそうになった。娘は制服のリボンを結びながら、由里子の顔を見た。
「もう八時なんだけど」
「ごめん、今――」
「今じゃ間に合わない」
未央は返事を待たず、階段を下りた。
居間では健司が立ったままパンを食べていた。晴菜は鞄の中身を床に広げ、何かを探している。いつもなら三人とも出ている時間だった。
「なんで起こしてくれなかったんだよ」
健司が言った。由里子は時計と彼の顔を交互に見た。
「ごめん。目覚ましが」
「俺だってかけてるけど、いつもお前が下にいるから」
彼も自分の目覚ましを止めて二度寝したのだと、由里子はその言い方で分かった。晴菜は明け方まで机に向かい、未央は携帯を充電したまま枕元へ持っていくのを忘れていたらしい。いつもどおりの小さな油断が、今朝は同じところに重なった。
由里子は台所へ立った。米は炊けている。弁当箱は乾いていた。鍋は洗って伏せたままで、味噌汁も作っていない。
「お弁当は?」
晴菜が尋ねた。
「今からじゃ、間に合わないね。今日は買って――」
「コンビニに寄る時間ないよ。購買だって売り切れるのに」
未央が冷蔵庫を開け、すぐ閉めた。
「牛乳、ほとんどないじゃん」
由里子は財布を取りに行こうとして、流しの前で止まった。牛乳は自分も昨日気づいていた。買い忘れたのは自分だ。それは間違いない。
「昼代、渡すから」
「そういうことじゃなくて、お母さんのせいで遅刻するって言ってるの」
晴菜の声が高くなった。言い終えて、娘は一瞬だけ目を伏せた。その一瞬を、由里子は見ていた。言いすぎたと分かっているのかもしれない。それでも言葉は戻ってこなかった。
未央が靴下を履き直した。健司はネクタイを片手で結び、携帯に何か打ち込んでいる。
「朝くらい、ちゃんとしてくれよ」
彼は画面を見たまま言った。
由里子の手に、硬貨が三枚載っていた。百円玉と十円玉。何をいくら渡そうとしているのか、急に分からなくなった。
朝くらい。
五時に起きていた朝も、熱のある子の額に触りながら弁当を作った朝も、誰かを駅まで送ってから仕事に遅れそうになった朝も、その言葉の中にはなかった。
「私も、寝てしまって」
「見ればわかるよ」
健司は鞄を持った。
由里子はそれ以上言わなかった。寝過ごした言い訳をしたいわけではない。それでも、ほかに何を言えばいいのか思いつかなかった。
晴菜は少し迷ってから、自分の財布を開けた。未央も続いた。由里子の掌の硬貨には、誰も手を出さなかった。パンの袋は開いたまま、ジャムの蓋は皿の縁に伏せられている。三人がそれぞれ自分で用意した朝食は、食べかけで残された。
「戸締まり、頼む」
最後に健司がそう言った。
いつもと同じ言葉だった。いつもなら「はい」と答えるところを、由里子は黙っていた。玄関の扉が閉じた。
急に、家が広くなったように感じた。
換気扇は回っていない。炊飯器の表示だけが明るい。由里子は掌の硬貨を食卓へ置いた。一枚が転がり、椅子の脚に当たって止まった。
拾おうとしてかがみ、途中でやめた。
床に座ったまま、壁を見た。昨日の夜、晴菜のために直したプリンターがある。給紙口の脇に、取り損ねた紙の切れ端が残っていた。あれを片づけなくては、と考えた自分が、不意に遠く感じられた。
由里子は三人の言葉を順番に思い出そうとした。全部を思い出せば、傷ついた理由を説明できる気がした。けれど浮かぶのは「朝くらい」ばかりだった。
食卓の上に自分の皿はなかった。焦げた卵焼きも、残りの煮物もない。何も作っていないのだから当たり前だった。その当たり前を見ているうちに、涙が出た。
大声では泣けなかった。喉が閉じ、鼻だけが詰まった。膝の上に落ちた涙を、寝間着の袖で拭いた。
そのまま何分いたのか分からない。
立ち上がると、いつもの順番でパンの袋を閉じた。ジャムは冷蔵庫へ戻した。牛乳の紙パックを持ち上げ、捨てようとして、中に少し残っているのを思い出す。
そこまでして、手が止まった。
このあと皿を洗う。洗濯をする。昼に残ったご飯を食べる。夕方、三人の好きなものを作る。健司は遅刻のことなど忘れて帰ってくるかもしれない。娘たちも、自分の一日を持って帰ってくる。由里子だけがこの朝を抱え、何もなかったように湯を沸かす。
できる。たぶん、今日もできる。
それが、急に怖くなった。
椅子に座り、引き出しからメモ帳を出した。学校の連絡を書き留めるための小さな紙だ。最初の一枚には、洗面台の型番が途中まで書いてあった。次の白い紙を一枚切り離した。
〈少し、旅に出ます〉
そう書いてから、由里子はペン先を浮かせた。
どこへ。いつまで。
まず、実家へ行くことを考えた。しかし、母が亡くなったあと家は片づけられ、由里子が泊まれる部屋はもうなかった。親戚の顔を思い浮かべると、事情を一から話し、健司のことをどう説明するか考えなければならなかった。
誰かに夫を悪く言ってほしいわけではなかった。そんな家族とは別れなさいと言われても、我慢しなさいと言われても、今は受け止めきれない気がした。
駅前の喫茶店なら、昼までいられる。本を持って、夕方まで外にいれば、休んだことになるだろうか。帰る途中で夕飯の買い物をして、玄関を開けた自分を想像する。その時には三人とも、母親が数時間いなかったことを知らないかもしれない。
知られなければ休んだことにならない、と言いたいわけではない。それでも今は、いつもと同じ時刻に同じ場所へ立つ自分を、どうしても想像したくなかった。
由里子は椅子の背へ体を預けた。
旅に出るという一文は、誰かに気づいてもらうための脅しのようにも見えた。そんなつもりはないと言い切れるほど、自分の気持ちは整っていない。帰宅した三人が空の台所を見て、少し困ればいいと思う気持ちも、確かにあった。
その気持ちだけで行くなら、相手の反応を待ち続ける旅になる。
由里子は紙の端を押さえた。自分は何をしたいのか。困らせたあとの三人を見ることではなく、誰にも呼ばれずに眠りたい。温かい食事を、冷める前に食べたい。次に洗うものを考えずに湯船へ入りたい。
それなら、場所を探せる。
まだ決まっていない。けれど、行きたい場所ならあった。
雑誌は棚の上段に戻っていた。
保存容器を下ろし、白い湯のページを開く。写真の端が少し黄ばんでいた。三年の間に料金も変わっているだろう。宿が今も営業しているかさえ知らなかった。
携帯で白骨温泉を調べた。広告と宿の写真が並び、どれを押せばいいのか分からなくなる。こんなことも決められないのか、と苛立って、携帯を伏せた。
少しして、もう一度持ち上げた。
写真に似た小さな宿のページを開き、電話番号を押した。呼び出し音が三回続く。その間、何と言うかを何度も並べ直した。
「本日、お一人でのお泊まりですか」
相手の声は落ち着いていた。
「はい。急なんですけど。二泊、できれば」
確認のため少し待つように言われた。由里子は台所の床を見た。小さなパン屑が落ちている。掃除機をかけてから出ようかと思い、またそんなことを考えている、と唇を噛んだ。
「一室でしたら、二泊ともご用意できます」
宿の人は料金と食事の時間を説明した。安くはなかった。由里子は金額を紙に書き、二泊分を頭の中で足した。交通費も必要になる。
毎月、パート代の一部を自分の口座に残していた。大きな買い物のためというより、何かあった時のためだった。眼鏡を替えた時も、靴を買った時も、なるべくそこから出した。家族のためでない出費を、説明しなくて済むようにしていた。
今が、その何かかどうかは分からなかった。
由里子は財布のカード入れを開いた。家の買い物に使うものと、自分の口座につながるものが、隣り合わせに入っている。二枚は、同じくらいの厚さだった。
娘の教材を買う時、どちらで払うか迷わない。健司の仕事の靴が傷めば必要なものだと思う。自分の靴は、底を見て、もう少し履けると考える。それを健司に強いられているとは言えなかった。家計を預かるうちに、自分でそういう順番を作っていた。
宿の電話口では、相手が返事を待っている。
お金を使うことに慣れていないのではない。毎日の買い物で使っている。ただ、自分が休むための金額として読むと、同じ数字が急に大きくなる。
由里子はもう一度、料金を復唱して確かめた。宿の人は落ち着いた声で答えた。由里子のためらいを、何かの物語にしようとはしなかった。
「お願いします」
由里子は言った。
「お名前をいただけますか」
「佐藤由里子です」
一文字ずつ漢字を伝えると、相手が復唱した。声にされた自分の名前を、由里子は金額を書いた紙の余白にもう一度書いた。
東京の郊外から今日中に着けるかを伝え、列車とバスの乗り継ぎを確認した。宿の人は、到着が遅れそうなら途中から電話をするように言った。急ぐところと、急いでもどうにもならないところが少しずつ分かれていった。
電話を切ると、手の震えが強くなった。
本当に行く。
その言葉のあとに続くはずの説明は、まだなかった。
由里子は家族の予定表を見た。金曜日から日曜日まで、自分の勤務はない。次の出勤は月曜日。今日は店へ欠勤を頼む必要がなかった。晴菜は明日の午前に学校の自習室へ行くと言っていた。未央は文化祭の作業、健司は休日のはずだ。由里子がいなければ生活が止まる予定は、一つも書かれていない。
止まると思っているのは、自分かもしれなかった。
押し入れの上の段から、小さなボストンバッグを下ろした。
最後に使ったのは、母の法事だった。底に黒いストッキングの袋が入っていた。畳んだ服を二日分と、薄い上着、下着、洗面道具を詰める。何かを忘れる気がして、何度も鞄を開いた。
家族旅行では、娘たちの着替えや薬、充電器まで気にしていた。自分一人の荷物になると、必要なものが少なすぎて心細かった。
財布、携帯、鍵、メモ帳。歩きやすい靴。
洗面台で顔を洗った。目が少し腫れている。鏡の中の自分は、旅に出る人には見えなかった。薄く化粧をしても、頬のこわばりは残った。
洗面台の下に、水を受ける古い容器が置いてある。昨夜より少し水が増えていた。由里子はそれを空け、戻した。家を出ることと、目の前の漏れを放っておくことは、同じではないと思った。
ただし、修理業者へ電話はしなかった。
食卓のメモに、二行足した。
〈体調は大丈夫です。日曜日の夕方に帰ります。今日は電話で話せません。落ち着いたら連絡します〉
それから冷蔵庫を開けた。卵、豆腐、昨日の小松菜。今夜の分を並べて説明するべきだろうか。
由里子は扉を閉めた。
冷蔵庫の中を見れば分かる。三人とも、見れば分かる年齢だった。
メモが風で飛ばないよう、健司の湯呑みで端を押さえた。その湯呑みを選んだことに、理由があるのかどうかは考えなかった。
出発前にもう一度、ガスと窓の鍵を見た。床の硬貨は、まだ椅子の脚のそばにあった。拾って食卓へ置いた。ここまで来ても自分の手は片づけるのだと、少しおかしくなった。
玄関で靴を履くと、踵がきつかった。長く歩ける靴は、娘たちの行事に履いていくために買ったものだった。今日の自分にも使える。
鍵を回した時、家の中から洗濯機の音はしなかった。
門を出たところで、ごみの集積場所が目に入った。今日は資源ごみの日だった。家の勝手口のそばに、畳んだ紙袋が置いてある。今戻れば、収集に間に合うかもしれない。
由里子は鞄を置いた。
鍵を出し、持ち直した。その間にも、通りの向こうを自転車が走っていく。自分だけが、小さな用事の前で立ち止まっていた。
紙袋一つ、出せば済む。出したら、台所の照明が消えているか気になるだろう。照明を見たら、朝の茶碗がある。茶碗を水につけるだけなら、と思うかもしれない。
由里子は鍵を鞄へ戻した。
来週でもいいものがある。
それを今、初めて知ったわけではない。知っていたのに、自分には適用していなかった。
歩き始めると、背後で鳥が鳴いた。振り返っても家はいつものままだった。由里子が出ていったことを、外から見て分かるものは何もなかった。
最寄り駅までの道は、買い物帰りに何百回も通っていた。
同じ並木、同じ歯科医院、同じ角の駐車場。ボストンバッグを持って歩くと、どれも自分を見ているように感じた。近所の人に会ったら何と答えるかを考え、旅行です、と心の中で言ってみる。
それで足りるはずだった。
駅へ着く前に携帯が震えた。健司からだった。
〈会社には間に合わなかった。昼、何か買う〉
由里子は歩道の端に寄った。「ごめん」と打ち、消した。遅刻させるつもりはなかった。けれど、健司の出勤を最後まで自分の責任にしてしまう言葉を、今は送りたくなかった。
未央からも来た。
〈間に合ったけど、走って最悪〉
晴菜からは何もなかった。
由里子は家族の画面に、メモと同じ内容を送った。さらに、白骨温泉の宿を取ったこと、二泊すること、急用は文章で知らせてほしいことを書いた。
送信する前に、読み返した。
誰かが怪我をしたら。学校から電話が来たら。自分が列車の中で気づかなかったら。
その心配を残したまま、送った。
すぐに健司から電話がかかってきた。画面を見つめ、応答せずに切れるのを待った。胸が痛んだ。文章なら書けたことが、声を聞けば全部ほどけて、「やっぱり帰る」と言ってしまいそうだった。
〈どういうこと〉
〈急に何を言ってる〉
由里子は一度だけ返した。
〈無事です。今は一人で考える時間がほしいです。日曜に帰ってから話したい〉
既読の文字がついた。返事はすぐには来なかった。
ホームへ上がると、平日の遅い朝の電車は空いていた。買い物袋を持った人、病院の封筒を膝に載せた人、小さな子の靴を履かせている人。由里子の鞄も、その中に置けば特別なものではなかった。
窓に映った顔を見た。家を出る前と同じ顔だった。
途中の駅で、学校帰りらしい少女が二人乗ってきた。まだ昼前なのに、と由里子は思い、試験期間かもしれないと思い直した。二人は隣り合って座り、小さな紙袋からパンを分けた。
「これ、半分でいい?」
「うん。そっち多いじゃん」
「いいよ。朝、食べたし」
由里子は視線を窓へ戻した。晴菜も、昼には誰かとこうしているかもしれない。購買が売り切れても、何かを分けてもらったり、別の売場を探したりするだろう。自分が一つ用意できなかっただけで、娘の一日が全て失われるわけではない。
それでも、晴菜が困るところを想像する癖は消えなかった。
幼いころの娘が熱を出すと、由里子は先回りして水を用意し、着替えを枕元へ置いた。役に立てた。子どもの苦しさを少しでも減らせることが、自分を支えてくれた。
今の娘たちに必要なことは、そのころとは違うのだろう。由里子のほうが、変え方を知らないままでいたのかもしれなかった。
電車が揺れ、隣の少女の紙袋がかさりと鳴った。由里子はボストンバッグの持ち手から、少しだけ力を抜いた。
自由になった、とは思えない。ただ、家から遠ざかっていた。
膝の上で鞄の留め具を開けると、財布の脇に家の鍵が見えた。置いてくるつもりはなかった。それでも持ってきた鍵を見ると、戻る場所が決まっていることに安心し、同時に少し息苦しくなった。
帰る場所を持つことと、必ずそこにいなければならないことは違う。その違いを、由里子は言葉としては分かっていた。今は、鞄の中の小さな金属で確かめていた。
今日はまだ引き返せる。次の駅で反対側の電車へ乗れば、昼前には家に戻る。メモを捨て、買い物へ出ていただけのような顔もできるかもしれない。携帯に送った文章は消せないが、心配をかけたと言えば、話は終わるだろう。
由里子は車窓の駅名を見た。扉が開き、少し冷たい風が入った。
降りなかった。
選んだという実感は、派手なものではなかった。立ち上がらずに座っていることだった。列車が動き出すと、由里子は鍵を鞄の内側のポケットへ移し、留め具を閉じた。
まだ怒っている。まだ悲しい。そのままで乗っていてよかった。
新宿では人の流れに戸惑った。
家族で出かける時は健司が先を歩き、由里子は娘たちの歩幅を見ていた。今日は自分で案内板を探さなければならなかった。特急の切符を買う機械の前で一度やり直し、結局、係の人に教えてもらった。
「松本まで、お一人ですね」
「はい」
その返事をするたびに、まだ取り消せる段階を一つ越える気がした。
発車までの時間に、売店でおにぎりとお茶を買った。朝から何も食べていない。選んだのは梅だった。娘たちの好みを考えなくていいと気づいて、由里子は包装の赤い印をしばらく見た。
ベンチに座り、おにぎりを半分食べたところで、高木から連絡が来た。月曜日のシフトについての確認だった。返事を打ったあと、由里子は続けた。
〈今日から二泊、一人で温泉に行ってきます〉
自分からそれを知らせるつもりはなかった。けれど、家族以外の誰かに、今していることを知っていてほしかった。
高木の返事は少し遅れて来た。
〈そうなんだ。気をつけて。帰ったら、どんなところだったか教えて〉
なぜ、とは書かれていなかった。
由里子は携帯を膝に置いた。問い詰められなかったことがありがたく、それだけで泣きそうになる自分が、情けなくもあった。
ホームに特急が入ってきた。扉の前に並び、席の番号を確かめる。窓側の席へ座ると、ボストンバッグは頭上ではなく足元に置いた。いつでも持って降りられるようにしたかった。
列車が動き出した時、携帯がまた震えた。
晴菜だった。
〈お弁当のこと、言いすぎた。ほんとに行くの?〉
由里子は文章を何度も読んだ。
言いすぎた。それだけで戻りたくなる。昼ご飯は食べられるだろうか。午後の授業に集中できるだろうか。心配をしたくないのではなかった。心配することしかできなくなっている自分から、少し離れたかった。
〈行きます。日曜に帰ります。お昼は食べてね〉
最後の一文は消さずに送った。
窓の外に、知らない家の洗濯物が続いた。自分の家の洗濯物は、今日は籠に残る。風に揺れるシャツを見るたびに、そのことが頭をよぎった。
列車は止まらなかった。
街の建物が途切れ始めたころ、健司から長い文章が届いた。
朝は言い方が悪かった。でも旅行に行くほどのことなのか。休むなら家でも休めるだろう。娘たちも心配する。帰ってから相談すればよかったのではないか。
由里子は最後まで読んで、画面を暗くした。
どの言葉にも答えたい気がした。旅行に行くほどのことかどうかを、誰が決めるのだろう。家で横になっていても、洗濯が終わる音は聞こえる。帰ってから相談して、誰が自分の話を最後まで聞くのだろう。
同時に、健司の言っていることが全く分からないわけでもなかった。何も聞いていなかった場所へ、急に妻が出かける。通勤の途中で画面を開いて知る。その戸惑いは本当なのだろう。
由里子はメモ帳を出した。
〈朝のことだけではありません〉
書いてから、下に続けようとして止まった。
朝のことだけではないなら、いつからなのか。晴菜が生まれた時からか。健司が忙しくなったころか。自分が、言っても仕方がない、と思った最初の日はいつだったか。
数え始めると、幸福だった記憶まで証拠品に変わりそうだった。
由里子は線を引かず、空白を残した。今はうまく説明できない。そのことを、説明できるようになるまで待ってもいいはずだった。
前の席の子どもが、トンネルに入るたび小さな声を上げた。母親が窓を指差し、もうすぐ出るよ、と言う。暗いガラスに車内の人々が映った。由里子もその中にいた。
長いトンネルを抜けると、斜面の緑が近づいた。
肩が少し下がった。降ろしたつもりのない荷物を、体がずっと持っていたようだった。
お茶を一口飲んだ。ぬるくなっていて、飲みやすかった。
前の席の子どもが眠ると、車内は静かになった。由里子は携帯で帰りの列車を調べかけ、宿に着いてからでいいと思い、画面を閉じた。
その直後、店からの勤務連絡が届いた。グループ全体へ送られたもので、翌週の特売についてだった。由里子は自分の次の勤務日を確かめ、予定どおり月曜日であることにほっとした。
家を出ても、仕事は続く。月曜日には名札をつけ、棚の前に立つ。その現実が、由里子には頼もしかった。今の自分は家族との関係だけでできているのではない。
連絡欄には、同僚たちの簡潔な返事が並んだ。由里子も必要な確認だけ送った。何も説明しなくても、仕事の返事として受け取られた。
窓の外の山が近くなった。車内販売の案内を待つでもなく、由里子は買っておいた残りのおにぎりを食べた。海苔が少し湿っていた。朝の食卓で持った硬貨の冷たさを、ふと思い出した。
あの時、自分の昼食のことを考えていなかった。
自分にも昼が来るということを、今日になってようやく思い出したようだった。
松本に着くと、空気が家の近くより乾いて感じられた。
駅の案内を確かめ、新島々方面へ進む。乗り継ぎの待ち時間があり、由里子は売店の隅で宿へ電話を入れた。予定どおり夕食に間に合う見込みだと伝えると、相手は「お気をつけて」と言った。
それだけの会話で、少し足元がしっかりした。
バスは山へ入った。途中の沢渡で白骨温泉行きの小さなバスに乗り継ぐと、道はさらに細くなった。曲がるたびに窓の景色が大きく動く。沢の白い流れが見えたと思うと、すぐ木々に隠れる。由里子は携帯を鞄に入れた。圏外になったわけではない。自分で入れた。
この先、二日間をどう過ごすかは決めていなかった。温泉に入る。眠る。それだけでも十分なはずなのに、何かを持ち帰らなければいけない気もした。家を空けた理由を、誰もが納得する形にして帰らなければならない、と。
窓に額を近づけた。ガラスは冷たかった。
今、何かを決めなくてもいい。
その言葉を自分に向けるのは、予想したより難しかった。
バスが停まり、人が一人降りた。運転手が扉を閉め、再びゆっくり進む。道の脇の草が、車体に近いところまで伸びていた。
由里子は鞄からメモ帳を出した。開いたページには宿の料金と到着時刻、その下に自分の名前がある。家で使っているのと同じメモ帳なのに、そこには娘の学校名も、健司の用事も書かれていなかった。
道の曲がるところで、バスが速度を落とした。対向車を待つ間、車内の人たちも自然に静かになった。由里子は、自分が今日一日、何度も呼吸を浅くしていたことに気づいた。
声を出す前。送信を押す前。切符を買う前。誰かに許されなければ動けないように、体を小さくしていた。
宿を取った時に、誰も許可を求めなかった。列車の切符にも、妻か母かを書く欄はなかった。必要だったのは、行き先と、自分がそこへ行くという返事だった。
だからといって、家族のことを忘れていいという意味ではない。忘れずに、自分もどこかへ行っていい。その二つを一つの文章にするまで、半日かかった。
バスが動き出した。由里子は窓に触れていた額を離した。ガラスの向こうを、近い枝が流れていく。宿に着いたら、まず鞄を置こう。顔を洗おう。それからお茶を飲もう。
次にすることは、三つだけだった。
白い余白に、今日の日付を書いた。金曜日、と添えた。
何かが始まった日と呼ぶには、まだ怖かった。ただ、自分がどこにいるかを、自分で残しておきたかった。
やがて、湯の匂いがした。




