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静寂が溶けた朝  作者: 久遠 睦


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第一章 静かなハミング

午前五時。目覚ましが鳴るより先に、由里子は枕元へ手を伸ばした。

 隣で健司が寝返りを打つ。起こさないよう、布団の端を少しずつめくった。足の裏を床につけると、昨日の疲れがまだ踵に残っていた。五月の終わり、東京の郊外にある家の窓は、もう薄く明るかった。

 階段の上から娘たちの部屋を見た。二枚の扉は閉まっている。奥が高校三年の晴菜、手前が一年の未央。廊下には、昨夜未央が置いた通学鞄が口を開けていた。踏まないよう壁際へ寄せてから、由里子は階段を下りた。

 台所で最初にするのは、換気扇をつけることだった。低い音が立ち上がる。家が静かにハミングを始めるような音だった。それを聞くと、まだ眠っている体の一部分だけが先に動き出した。

 炊飯器の蓋を開けると、予約しておいた米の湯気が顔に触れた。卵を三つ割る。晴菜の卵焼きは甘く、未央の分には砂糖を控える。同じフライパンで二度焼くほどのことではないから、いつも二人の好みの間くらいにした。その代わり、晴菜には端の厚いところを入れ、未央には焦げ目のついたところを入れた。

 健司の弁当には梅干しを一つ。娘たちのには入れない。晴菜は匂いが移ると言い、未央は種を残すのが面倒だと言う。そんな理由を、由里子は聞いた時には少しおかしいと思ったはずだった。今はただ、入れない、と手が覚えている。

 四十六歳になった春から、瓶の蓋をひねると指の付け根が痛むことがあった。今朝は菜箸を握る右手が少しこわばる。左手で右の親指を揉んでいるうちに、卵の縁が茶色くなった。

 失敗というほどではない。焦げたところを自分の朝食用の皿へ移す。皿には昨日の煮物も少し残っていた。

 六時半、洗面所で水の音がした。

「おはよう」

 健司は返事をしながら、スマートフォンを見ていた。椅子を引き、トーストを片手にメールを読み始める。眉間の皺は、画面を閉じても少し残るようになった。

「今日も遅い?」

「たぶん。先に食べてて」

「わかった。土曜日は?」

「何かあったっけ」

 由里子は味噌汁の火を弱めた。

「洗面所の下。見てもらうって言ってたでしょう。水が少し漏れるから」

「ああ。部品、調べといてくれる?」

 調べるだけなら、自分でもできる。そう言いかけたが、健司の携帯が震えた。彼は画面を開き、由里子は鍋のほうを向いた。

 洗面台の型番を撮る。修理が必要か確かめる。部品を探す。注文する。届いた日に声をかける。そういう仕事は、「見ておく」の外側にいくつもあった。

 晴菜が下りてきた。前髪に小さなクリップをつけ、英単語の本を片手に持っている。模擬試験まで一週間を切っていた。

「おはよう。今日、弁当少なめって言ったよね」

「ご飯は少し減らしたよ」

「あ、うん」

 晴菜は弁当袋を鞄へ入れた。お礼を言おうとしたようにも見えたが、その時にはもう別のページをめくっていた。

 未央は片方だけ靴下を履いて現れた。

「体操服、どこ?」

「昨日、取り込んで、階段のところに置いた」

「ないよ」

 由里子が廊下へ出ると、洗濯物の束は昨日置いたままだった。いちばん上のタオルを持ち上げると、学校の名が入ったシャツが出てきた。

「あるじゃない」

「見えなかったんだもん」

 未央はそれを受け取り、すぐに階段を駆け上がった。

 由里子は残った洗濯物を抱えた。運ぶつもりではなかったのに、腕にあると置く場所が決まってしまう。晴菜のタオルを棚へ、自分と健司の靴下を寝室へ。降りてくると、味噌汁が小さく煮立っていた。

「由里子、紺のネクタイ知らない?」

「椅子の背。上着の下」

「あった」

 声だけが返ってきた。

 七時を少し過ぎ、三人は時間をずらして出ていった。晴菜は駅へ、未央は反対方向の学校へ、健司は晴菜より一本遅い電車に乗る。由里子は誰にも聞かれずに、その順番と時刻を覚えていた。

 最後の鍵の音がしてから、台所へ戻った。自分の湯呑みにはまだ茶を注いでいなかった。


 椅子に座ると、食卓の向こうの空席がよく見えた。

 健司の皿にはパンの耳が一本、未央の茶碗には飯粒がいくつか残っている。晴菜の場所にだけ、消しゴムの屑があった。単語を書いて覚えていたらしい。由里子は掌で屑を集め、屑ごとパンの皿へ落とした。

 誰もいない家は、静かというより、仕事の順番がよく聞こえる家だった。洗濯機が終われば干す。干し終われば風呂を洗う。掃除機の音が止まれば、時計が九時に近づいていると気づく。

 駅前の食品スーパーで、由里子は週に三日、九時半から二時半まで働いていた。主に売場の商品補充と値札の差し替えをする。忙しい時にはレジにも入った。歩いて二十分の道を、自転車なら十分で行ける。雨の日に濡れた靴下を替えるため、ロッカーには一足だけ予備を置いていた。

 この木曜日、店では特売の準備があった。段ボールを開けて調味料の瓶を並べていると、隣の売場から同僚の高木が声をかけた。

「佐藤さん、来月のシフト、出した?」

「まだ。今日、出すつもり」

「私、最後の週に一日休むんだ。姉と美術館に行くの」

 高木は由里子より五つ年上だった。大学生の息子がいる。棚にしゃがんだまま、彼女は展示の名前を言い、前売券を二枚取ったのだと笑った。

「平日のほうが空いてると思って」

「いいね」

「由里子さんは? どこか行かないの」

 仕事中に下の名前で呼ばれることは少なかった。由里子が顔を上げると、高木は値札を指で押さえていた。

「休みの日も、なんだか片づいちゃうから」

「休みが?」

「用事で」

 笑って言うと、高木も笑った。ただ、その先に「仕方ないね」とは言わなかった。

「これ、一本余ってる」

 高木は目の前の棚へ話を戻した。その戻し方が、由里子にはありがたかった。答えのない質問に、答えをつけずに済んだ。

 休憩室で弁当を開けた。自分の箱は、三人に詰めたあとの残りでできている。卵焼きの端、少し崩れた煮物、梅干し。嫌いなものは入っていない。けれど、自分が何を食べたくて詰めたのかと聞かれたら、うまく答えられなかった。

 携帯を開くと、晴菜からメッセージが来ていた。

〈帰りにルーズリーフお願い。細い罫線の〉

 未央からは、文化祭の準備があるから夕飯は遅くなるという連絡だった。健司はまだ読んでいないらしい。家族の連絡用の画面には、由里子の「わかった」が縦に並んでいた。

 その下に、自分から何か書こうとして、指が止まった。

 今日、重い箱を持って手が痛かった。高木さんが美術館へ行くらしい。休憩室のお茶が切れていた。

 どれも、知らせるほどのことではない気がした。

 午後の売場で、小さな間違いが見つかった。由里子の差し替えた値札が、一段隣の商品のものだった。若い社員が気づき、端末を持って確認に来た。

「こっちが今日からの値段でした」

「ごめんなさい。今、直します」

 由里子が値札を外すと、社員は隣の列も見てくれた。

「こっちは大丈夫です。お客様に聞かれる前でよかった」

 それだけで終わった。間違えたことは事実で、直す必要があった。けれど、昨日まで正しく差し替えてきた値札まで、なかったことになるわけではなかった。

 由里子は新しい札を差し込み、角をまっすぐにした。家で何かを忘れた時よりも、ここでの失敗のほうが、居場所を失う感じが少ないことに気づいた。それをうまく説明できず、棚の商品の向きを揃えた。

 忙しい時間には、高木も由里子も無口になった。声をかけなくても、片方が空の箱を畳めば、もう片方が次の商品を運んだ。ときどき「そっち、お願い」と言う。それで伝わった。

 家にもこういうやり取りがほしかったのかもしれない。手際のよい人が全部を済ませるのではなく、そこに二人いると分かる動き。

 午後二時半、エプロンを脱ぐと胸の名札が揺れた。佐藤、とだけ書かれている。売場にいる間は、その二文字で呼ばれるだけでも、返事をする自分がいた。

 帰りの買い物には十五分かかった。鶏肉の大きなパックと、晴菜の好きな小松菜の煮浸しに使う油揚げ。未央は煮浸しをあまり食べないので、トマトも買った。健司の夕食が遅くなっても温め直せるよう、鶏肉は照り焼きにする。

 レジへ向かいかけて、文具売場へ戻った。ルーズリーフには二種類の罫線があった。細いほうを籠へ入れ、棚の表示をもう一度見て確かめた。それでも、晴菜に渡すまでは落ち着かなかった。

 自転車の前籠に袋を押し込むと、卵のパックが傾いた。

 両手で持ち直しながら、由里子は、今夜は湯船に長く入りたいと思った。それは予定というほど大げさなものではなく、夕飯に使う小ねぎを買い忘れたことの、すぐ隣に浮かんだ。


 台所の吊り戸棚の上段に、古い旅行雑誌が一冊あった。

 その日、由里子は棚の奥から保存容器を出そうとして、雑誌を床に落とした。表紙が開き、白い湯の写真が見えた。長野、白骨温泉。折った角は、何度開いても同じところへ戻るようになっていた。

 床へしゃがんだ拍子に、奥にしまった小さな箱も見えた。以前、勤めていた会社の名刺が入っている。捨てる機会はいくらでもあったのに、引っ越すたび、引き出しから別の引き出しへ移してきた。

 由里子は小さな印刷会社の営業事務をしていた。電話で注文を受け、紙の種類と部数を確かめ、工場へ伝える。納期の近い仕事が重なると、昼休みをずらして電話番をした。華やかな仕事ではなかったが、自分が書いた一行をもとに機械が動き、箱に詰まったものが届くのを見るのは好きだった。

 結婚したあとも続けていた。晴菜を妊娠したころ、会社の体制が変わり、遅い時間まで残る日が増えた。辞めると決めた時、健司は「無理しなくていい」と言った。由里子も、その言葉に救われた。

 辞めたくなかった、と今になって言うのは違う。あの時は辞めたかった。自分の体と、これから生まれる子のことを考えれば、それがいちばんよいと思った。

 ただ、一度辞めることと、その後の全てを家に合わせ続けることは、いつ同じものになったのだろう。

 子どもが落ち着いたら、と何度か思った。晴菜が幼稚園へ入った時には未央が小さく、未央が入園したころには晴菜が学校へ上がった。下校時刻、面談、熱を出す日。どれにも対応できる仕事を探すと、選べるものは少なくなった。

 スーパーの面接で、店長は「午前から午後の早い時間なら助かります」と言った。その時は本当にうれしかった。働ける場所があり、自分の名札があり、給料日がある。それを不幸の理由にするつもりはなかった。

 名刺の箱を開けると、旧姓のものが数枚残っていた。懐かしいと思ったが、昔の名字へ戻りたいわけではない。そこに印刷された小さな名前のために、毎朝着る服を選んでいた自分がいたことを、確かめたかった。

 箱を元の場所へ置き、雑誌だけ手に取った。

 三年前、歯科医院の待合室で見た特集だった。同じ号を帰りに書店で買った。雑誌を買うこと自体が久しぶりで、レジに出す時、なぜか少し急いだ。

 その夜、健司に写真を見せた記憶がある。

「ここ、行ってみたい」

「いいね。夏休み?」

「夏じゃなくても」

「娘たちの予定、合うかな」

 家族旅行の相談に変わり、晴菜は部活があり、未央は友達との約束があった。遠いね、ほかにも温泉あるよね、また今度にしよう。誰が最後にそう言ったのか、もう覚えていない。由里子だったかもしれない。

 白い湯の写真の横には、一人で泊まれる宿の記事も載っていた。当時はその欄を、家族の人数とは合わない情報として読み飛ばした。

 今は目が止まった。

 一人一室。

 その四文字を確かめてから、雑誌を閉じた。開いたままにしておくと何かを申し出ているように見える気がして、保存容器の下へ戻した。

 洗濯物を取り込むと、未央の体操服のポケットから小さな紙が出てきた。濡れて丸くなった紙を広げると、文化祭の係分担らしい文字が滲んでいた。捨てていいか分からず、食卓に置く。晴菜の学校から来た封筒も、まだ鞄の底にあるはずだった。進路説明会の出欠欄に署名が要ると、昨日、娘が言っていた。

 由里子は冷蔵庫の予定表を見た。娘たちの行事と健司の出張が色分けされている。自分の仕事は小さな丸だった。空いた場所に、洗面台、説明会の出欠、と書き足した。

 予定表の隅には、古いマグネットがついていた。晴菜が小学校の時に作ったもので、紙粘土の花びらが一枚欠けている。「おかあさんありがとう」と、裏に細い字があった。表からは見えない。

 由里子はそれを外し、掌に載せた。

 もらった日のことを覚えている。晴菜は工作の時間に作ったと言い、未央が欲しがると、これはお母さんのだからと胸を張った。由里子は台所から走ってきた娘を抱きしめた。何かが焦げる匂いがして、二人で笑った。

 あのころは感謝があったのに、と言いたくなる。でも、あのころにも由里子は疲れていた。娘たちが眠ったあと、台所に座り込んだ夜がある。今のように手際よくはできず、夕飯が遅れるだけで一日全体に失敗した気がした。

 実家の母へ電話をすると、「子どもが小さいうちは、みんなそうよ」と言われた。

 母は励ましていたのだと思う。電話を切る直前に、何か送ろうか、と必ず聞いてくれた。家には季節の野菜や、娘たちの靴下が届いた。母もまた、用事の形にしなければ言葉を渡せない人だったのかもしれない。

 母が亡くなったあと、実家の箪笥から、使っていない小さな鞄が出てきた。値札は外してあったが、持ち手には薄い紙が巻かれたままだった。いつ使うつもりだったのか、聞く人はもういなかった。

 由里子はその鞄を引き取らなかった。自分には少し小さすぎると思った。今になって、ときどき思い出す。小さな鞄に入る荷物だけで、母もどこかへ行きたかったのだろうか。勝手な想像だと分かっているから、誰にも話さなかった。

 紙粘土の花を冷蔵庫へ戻した。磁石が薄い音を立てた。

 感謝された記憶があることと、今日の自分が休めることは、同じではない。それを冷たさと思わずに言える言葉が、由里子にはまだなかった。

 高木の美術館は、どこに書くのだろう。

 違う。自分が行くなら、どこへ書くのだろう。

 ペンを持ったまま考え、結局、金曜日から日曜日まで続く空白には何も記さなかった。今週はもともとその三日間、店の勤務が入っていない。月曜日まで仕事がないと分かった時には、衣替えができると思ったのだった。


 晴菜が帰ったのは六時だった。

「買ってきたよ」

 由里子がルーズリーフを差し出すと、娘は鞄を椅子へ置いた。

「ああ、ありがとう」

 小さな声だったが、ちゃんと聞こえた。由里子は袋を畳む手を止めた。ありがとうが一度もないわけではない。そのことを、自分でも知っていた。

「模試の勉強、どう?」

「まあ、普通」

「遅くまで起きてるでしょう。昨日も電気ついてた」

「今やらないと間に合わないから」

「寝不足だと、覚えたことも――」

「わかってる」

 晴菜の声の端が硬くなった。由里子は袋をもう一度折った。

 娘が話をしない、と由里子は思う。けれど、ときどき、話し始めた娘の先に自分が答えを置いてしまうことにも気づいていた。心配しているだけなのに、心配の形でしか声をかけられなくなっている。

「ルーズリーフ、これでよかった?」

「うん。これ」

 晴菜は少しだけ顔を上げた。夕方の光が頬に当たった。もう子どもの丸さではない。それでも右の耳の下にある小さなほくろは、幼稚園の帽子の紐が擦れていたころから変わらなかった。

 何かほかのことを聞きたいと思った。学校で最近笑ったこと、友達と見たもの。けれど、晴菜はすでに階段へ向かっていた。

 七時過ぎ、未央が帰った。

「ただいま。今日さ、飾りのやつが全然決まらなくて」

「先に手を洗って。もうご飯だから」

「うん」

 娘が洗面所へ行っている間に、由里子は照り焼きを切った。戻ってきた未央は椅子に座り、携帯を見た。さっきの話は始まらなかった。

「飾りが、何だって?」

「ああ。別に。もう決まった」

 由里子は「そう」と言った。聞く時を一つ間違えただけで、閉まってしまう扉がある。

 食卓には三人分の料理が並んだ。健司の分は皿に取り、覆いをかけておく。晴菜は食べながら進路の封筒を渡した。

「明日までだった」

「もっと早く出してよ」

「ごめん。忘れてた」

 封筒の角は何度も折られていた。説明会は平日の午後で、由里子の勤務と重なる。シフトを替えてもらえるか聞くところから始めなければならなかった。

「お父さんにも聞いてみる」

「無理じゃない? 仕事だし」

 晴菜は何気なく言った。

「お母さんも仕事だけど」

 思っていたより低い声が出た。晴菜の箸が止まる。

「そういう意味じゃなくて」

「わかってる」

 今度は由里子がその言葉を使った。

 未央はトマトを一つ口へ入れ、二人の顔を交互に見た。冷蔵庫の機械音が、いつもより近く聞こえた。由里子は味噌汁を飲んだ。自分が作ったものなのに、塩気が強いのか薄いのか、よく分からなかった。


 健司が帰ったのは九時半だった。

 由里子は湯を張っていたが、火を止めた照り焼きを温め直すため台所へ戻った。電子レンジの終了音が鳴っても、健司は洗面所から出てこなかった。蛇口の下から落ちる水を見ているのかと思ったが、戻ってきた彼は手を拭きながら言った。

「タオル、もう一枚ない?」

「棚の二段目」

 台所から答え、椅子に掛けた上着を受け取る。ポケットに何か入っていないか触ってからハンガーへ掛けた。健司は食べながら、会社の新しい担当者の話を始めた。

「悪い人じゃないんだけど、こっちに全部確認が来るんだよ。自分で判断してくれればいいのに」

「うん」

「いちいち説明するくらいなら、俺がやったほうが早い」

 由里子は流しに手を置いた。その言葉は、家でもよく思うことだった。

「説明会、今度の水曜日なんだけど」

「何の?」

「晴菜の学校。進路の」

「水曜は厳しいな。資料もらえるんだろ?」

「うん。でも、本人とも話を――」

「由里子が聞いてきてくれる? あとで教えて」

 健司はすまなさそうに言った。乱暴な声ではなかった。だからこそ、断る言葉が見つからなかった。

 結婚したばかりのころ、健司はよく皿を洗っていた。狭い賃貸の台所で、二人が立つと肘がぶつかった。由里子が拭く布巾を差し出す前に、彼が濡れた手で彼女の頬に触れたことがある。くだらない、と笑いながら、由里子も水を跳ねさせた。

 そのころを思い出すと、現在の健司が別人になったという気にはなれない。少しずつ何かを引き受け、少しずつ何かを渡しそびれた先に、今の台所がある。

 晴菜が生まれる前に由里子は勤めを辞めた。未央が幼稚園へ入ってから、時間の短い仕事を探した。「家のこともあるから」と面接で言った。自分で言った言葉なのに、その後ずっと、その言葉に勤務時間も、行ける場所も決められているような気がすることがあった。

「疲れてる?」

 健司が尋ねた。

 由里子は顔を上げた。少しの期待が、考えるより先に動いた。

「うん。ちょっと」

「早く寝たら。こっちはもういいから」

 彼は食べ終えた皿を重ねた。流しには運ばなかった。横に置いてあったノートパソコンを開くため、皿を机の端へずらしただけだった。

 由里子は「そうする」と言い、その皿を取った。

 洗ってからでなければ寝られない、と決まっているわけではない。明日まで置けばいい。それでも朝の自分が最初にそれを見るところを想像すると、結局、蛇口を開けてしまう。

 健司のキーボードの音と、水の音が重なった。言おうと思えば、今、言える。これを洗って、と。けれど、頼めば済むことばかりではない気がした。頼む役まで、毎日ずっと続けることに疲れていた。


 入浴するころには十時を過ぎていた。

 湯に手を入れると、少しぬるい。追い焚きのボタンを押し、肩まで沈む。換気扇の音に隠れて、上の階で引き出しが閉まった。娘たちはまだ起きている。

 風呂場の小さな窓には、自分の顔がぼんやり映った。濡れた前髪をかき上げると、額に細い跡があった。いつからあったのか分からない。鏡を見る時は、髪が乱れていないか、目立つ汚れがないかを確かめるばかりだった。

 由里子、と小さく呼んでみた。

 声はタイルに当たり、思ったよりはっきり返ってきた。誰かに聞かれたら恥ずかしい。すぐに口を閉じた。

 嫌いになったわけではない。健司が玄関で一度だけ靴を履き直す癖も、晴菜が笑う時に鼻を少しすすることも、未央が眠いと同じ話を二度することも、由里子は知っている。その細かいものを知っている自分を、嫌だとは思わない。

 ただ、自分の細かいことを、誰が知っているだろう。

 コーヒーは少し冷めてから飲むほうが好きだ。冬より初夏が好きだ。海よりも川を見ているほうが落ち着く。昔は電車の窓から、読める看板を全部読もうとしていた。そんな話を家でしたことがあっただろうか。

 湯に浮いた自分の手を見た。指先だけが少し白くふやけている。どこにも行かなかった一日の終わりに、この手だけは長い道を歩いてきたようだった。

 浴室を出ると、洗濯籠に新しいタオルが増えていた。ついさっきまで空だったのに、と考えてしまい、由里子は自分の狭さが嫌になった。タオル一枚くらいで。

 その「くらい」が、一日に何度あるのかを、数えたことはなかった。

 洗面台の鏡の脇に、家族で撮った写真が貼ってある。未央が小学生のころ、海へ行った日の写真だった。風で四人の髪が乱れ、由里子だけ目を細めている。写真を撮ってくれた人に、健司が礼を言ったのを覚えていた。

 あの日も、帰ってから水筒を洗ったのは由里子だった。砂のついた敷物を払ったのも自分だ。でも、海で笑っていたことまで嘘にはしたくない。

 楽しかった日のあとに、片づけながら疲れた自分がいた。その二人を同じ自分として認めるのが、どうしてこんなに難しいのだろう。

 由里子は写真の角を押さえた。テープが少し剥がれている。貼り直すのは明日にしようと思った。それだけの先延ばしを決めると、体がわずかに軽くなった。

 タオルを籠へ入れ、浴室の照明を消した。

 寝室へ行く前に、予定表を見直した。金曜日、土曜日、日曜日。何も書かれていない三つの枠。明日こそ衣替えをしようと思い、次には、何もしないでおこうと思った。

 どちらの予定にも、なぜか誰かの承諾が要る気がした。


 十一時を回ってから、晴菜が居間へ下りてきた。

「お母さん、プリンター動かない」

 由里子は歯ブラシを戻したところだった。

「何を印刷するの」

「模試の確認票。明日、先生に見せる」

 プリンターの紙詰まりを直すのは、健司のほうが得意だった。居間を見たが、彼のパソコンは閉じられ、寝室へ上がったあとだった。

 由里子は床に膝をついた。給紙口の奥に紙が斜めに入り込んでいる。引くと破れそうなので、一度電源を切り、後ろの蓋を開けた。

「こんな時間じゃなくても」

「さっき気づいたの。ごめん」

 晴菜は本当に困った顔をしていた。叱っても紙は取れない。由里子は膝の位置を変え、両端をつまんでゆっくり引いた。

 印刷が始まると、晴菜は息を吐いた。

「よかった」

 紙を受け取る指が少し震えていた。

「そんなに緊張する?」

「別に、模試だし」

 そう言いながら、晴菜は数字の並んだ画面を閉じなかった。由里子は横から見るのをやめた。

「今日はもう寝たら」

「あと少しだけ」

 それで話が終わった。由里子は使った紙を揃え、床の埃を指でつまんだ。立ち上がると、腰の奥に鈍い痛みがあった。

 寝室では健司が眠っていた。枕元で携帯が光り、すぐに暗くなった。由里子は自分の目覚ましを五時に合わせた。いつもと同じ時刻。明日は勤務がないのだから、家族を送り出してから休めばいい。

 布団へ入ると、目が冴えた。

 晴菜に、何が不安なのか聞けばよかった。健司に、説明会は自分で資料を読んでほしいと言えばよかった。未央の飾りの話も途中だった。終わらなかった会話が、流しに残した食器のように、目を閉じたあともそこにあった。

 自分の話は、一つもその中にない。

 隣で健司の呼吸が深くなった。由里子は天井を見た。明日、朝ご飯を作らなかったらどうなるだろう、と考えた。すぐに、そんなことを考える自分を叱った。忙しい朝に困らせる必要はない。

 冷蔵庫には卵が四つある。牛乳は少ない。パンはまだ足りる。

 そんなことを確かめながら眠りに落ちた。夢の中でも換気扇が回っていて、由里子は、その音を止めるスイッチを探していた。


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