第五章 丁寧な再構築
月曜日、由里子は五時十二分に目を覚ました。
目覚ましはまだ鳴っていない。隣では健司が眠っている。階下も静かだった。
起きてしまおうかと思った。起きて米を確かめ、卵を焼けば、昨日の話がなかったことになるわけではない。たまたま目が覚めたのだから。
由里子は布団の中で膝を曲げた。
その「たまたま」が毎日になることを、自分は知っている。
眠れなくても、横になっていていい。目を閉じると、階下で椅子が動いた。晴菜が起きたらしい。冷蔵庫の扉が開き、引き出しが閉まった。何かが床へ落ちた音に、由里子の肩が動いた。
すぐには呼ばれなかった。
六時に目覚ましが鳴るまで、由里子は何度も時計を見た。長い時間だった。
台所へ下りると、晴菜がフライパンの前に立っていた。卵焼きは途中で裂け、黄色い山になっている。未央は弁当箱へご飯を詰めていた。
「おはよう」
「おはよう。これ、巻けなかった」
晴菜は振り返らずに言った。
「炒り卵でもおいしいよ」
由里子は湯を沸かすために、小さなやかんを持った。
「お母さん、やって」
晴菜が菜箸を差し出しかけた。
由里子は一歩近づき、止まった。
「次、どうしたい?」
「固まったところ、焦げそう」
「じゃあ、火を少し弱めたら」
晴菜は自分でつまみを回した。由里子は菜箸を受け取らなかった。
未央の弁当箱には、ご飯が多すぎるように見えた。いつもなら少し戻していた。今日は、食べられる量かを娘に尋ねた。
「今日、体育あるから」
「そう」
由里子は自分の湯呑みに茶を注いだ。
健司が下りてきたのは、その少しあとだった。携帯を見ながら「今日は昼、外で食べる」と言い、冷蔵庫を開けた。
「パン、どこだっけ」
「いつもの――」
由里子は途中で口を閉じた。
健司は自分で棚を見つけ、パンを出した。見つけた、と報告もしなかった。
食卓には、由里子が焼かなかった卵の匂いがした。
変化の最初の一週間は、うまくいったことより、物の場所を聞かれることのほうが多かった。
洗剤はどれか。乾いた布巾はどこか。ごみ袋の買い置きはあるか。由里子は答えながら、自分だけが場所を決め、動かしてきたものも多いと気づいた。
だからといって、全部の引き出しに札を貼る仕事を始めるのはやめた。必要になった時に、一緒に決めることにした。
火曜日、健司が洗い物を終えたあと、由里子は水切り籠を見た。大きな皿が手前にあり、いつもと向きが逆だった。鍋はまだ濡れていたが、食器も流しも洗われていた。
皿の向きを直そうとした手を、由里子は下ろした。
水が切れていればいい。
しかし、鶏肉を切ったまな板が軽くすすいだだけで置かれていた時には、声をかけた。清潔に扱う必要があるものと、自分の好みの並べ方は、分けなければならなかった。
「どこまでが直したほうがいいことで、どこからが私のやり方なのか、私もまだわからない」
そう言うと、健司は「言ってくれれば」と答えかけて、少し考えた。
「料理する時は、俺も調べる」
由里子は頷いた。自分だけが教科書になる必要はない。
水曜日の進路説明会には、結局、由里子が仕事を替えてもらって出席した。健司の会議は動かせなかった。何も変わっていない、と少し思ったが、帰宅すると夫から資料を置いておいてほしいという連絡が来ていた。
その夜、健司は資料を読み、分からないところに印をつけた。由里子に全部要約させる代わりに、晴菜本人にも尋ねた。
「この学部を考えてるのか」
「まだ決めてない」
「何が違うんだ」
「それを調べてる」
会話はぎこちなかった。健司は途中で就職の話を持ち出し、晴菜の顔が曇った。
由里子は助け舟を出したくなったが、少し待った。
「まだ、決まってないって言ってるじゃん」
晴菜が言い、健司は資料を置いた。
「そうか。先に行きすぎた」
やり直せる会話が、一つ増えた。
最初の家族会議は、帰宅から一週間後の日曜日に開いた。
健司がそう呼ぼうと言い、未央は「会社みたい」と嫌がった。名前は何でもよかったので、冷蔵庫には「日曜、夕飯のあと二十分」とだけ書いた。
食卓に四人が座る。健司が仕事の打ち合わせで使うような表を印刷してきた。担当、頻度、確認、と並んでいる。
「ここを埋めれば、わかりやすいだろ」
由里子は表を見た。整っていたが、自分が毎日していることは、枠にまだ入っていなかった。
「先に、何があるか出してみない?」
健司は頷き、裏の白い面を上にした。
最初は食事、掃除、洗濯、と三つだけ並んだ。未央が「洗濯ってそんなにある?」と尋ねたので、由里子は一つずつ挙げた。
籠から出す。ポケットを見る。洗う。干す。取り込む。畳む。しまう。洗剤を切らさない。雨が降る前に取り込める人を考える。
「最後の、考えるのも?」
晴菜が言った。
「そこを誰も考えないと、全部濡れるから」
由里子は笑わずに答えた。
食事には、何を作るか決めることと、買うことがあった。学校の書類には、署名だけでなく、期限を覚えておくことがあった。
書いているうちに、健司の表の裏が埋まった。
未央が携帯へ手を伸ばした。由里子が視線を向けると、娘は言った。
「友達に、あとで返すって送るだけ」
「送ったら、二十分だけ置こう」
健司も自分の携帯を、画面を下にして置いた。自分だけ使うつもりではないと分かると、未央も従った。
「途中で反対したくなっても、一回、最後まで聞こう」
晴菜が言った。
「それ、お父さんに言ってる?」
「お母さんにも」
由里子は少し傷つき、それから頷いた。自分が聞く番でもあった。
最初に決まったのは、各自のことだった。
起床は自分で。必要な学校用品は、必要な人が予定表に書く。前夜に言い忘れたものが、翌朝必ず用意されるとは思わない。洗濯したい服は、籠へ出す。
由里子は、置きっぱなしの体操服を見つけても自分で探して回らないと言った。
「出し忘れたら、どうするの」
未央が尋ねる。
「必要なら、自分で洗う」
答えたのは晴菜だった。
次に、共用の仕事を分けた。健司は夕食後の台所を受け持つ。帰宅が遅い日は前もって知らせ、洗う時間を遅らせるか、別の人と交換する。流しを空にするだけでなく、生ごみと布巾、洗剤の残りも見る。
「毎日、絶対はできない」
健司が言った。
「私も、絶対はできない」
由里子は答えた。
その言葉を互いの条件として扱うと、話は少し進んだ。できない日は失格にするのではなく、代わりの方法を本人が提案することになった。
晴菜は平日の二日、洗濯物を取り込み、自分の分をしまう。未央は風呂掃除を二日と、週末の一日を引き受ける。由里子も仕事が早く終わる日の夕食を担当し、週末の一食は健司が献立と買い物から持つ。
弁当は、作る日と各自で用意する日を決めた。娘たちは交代で前夜に材料を確かめ、同じものを詰める日は相談する。由里子が三人分の箱を毎朝並べる形はやめた。
買って食べる日もあるので、食費を見直した。以前より少し増える見込みになり、健司が数字を見つめた。
「安く済んでた分は、お母さんの時間だったんだね」
晴菜が言った。
由里子はその言葉に、すぐには返事ができなかった。
紙に書かれた分担は、均等な形ではなかった。学校や仕事の時間が違うから、同じ回数にはならない。ただ、由里子の休む時間も予定の中に一緒に書いた。
木曜の仕事のあとの二時間と、月に一度の土曜の半日。
「何するの?」
未央が聞いた。
「まだ決めてない」
「決めてなくても休みなの?」
「うん」
そう答えた時、由里子は自分の声をもう一度聞きたいと思った。
決めた翌週、早速うまくいかなかった。
木曜日、仕事のあとに休むと決めた午後、未央から電話が来た。
「今日、絵の具いるんだった。家のどこ?」
由里子は図書館の帰り道にいた。借りた本を鞄へ入れ、歩道の端で答えた。
「机の引き出しか、去年の箱だと思う」
「今、学校。放課後使うんだけど、持ってきてくれない?」
以前なら帰宅し、探し、届けていただろう。学校は自転車で十五分だった。
「今日は届けられない」
「なんで? 休みなんでしょ」
由里子は目を閉じた。言い方を整えないと、すぐに怒鳴ってしまいそうだった。
「休む時間にしてるから。学校で借りられるか、聞いてみて」
「もういい」
電話が切れた。
由里子はしばらくその場から動けなかった。大人げなかっただろうか。絵の具を届けるくらい、できた。娘の大切な作業を邪魔したのではないか。
図書館で借りた本の角が、鞄越しに腕へ当たった。二時間のうち、残りは四十分ほどだった。由里子は予定していた小さな喫茶店に入った。
コーヒーを頼んでも、最初の十ページは頭に入らなかった。それでも席を立たなかった。
夕方、未央は不機嫌な顔で帰った。
「友達に借りた」
「借りられたんだね」
「ちょっとしかなかったけど」
「返す時に、ありがとうって言ってね」
そこでやめればよかった。由里子はさらに、忘れないように前日に確認して、と言ってしまった。
「わかってる!」
未央が声を上げ、階段を駆け上がった。
由里子は一人、台所に立った。境界を作ることと、最後に正しい言葉で勝つことは違う。分かっているつもりでも、つい続けてしまう。
その夜、娘の部屋の前で、言い足しすぎたことを謝った。届けなかったことまで取り消すのはやめた。
未央は扉の内側から、「別に」と答えた。
仲直りを急がず、その日はそこで離れた。
健司も、一度、台所の担当を忘れた。
その次の火曜日の夜、会社から電話が入り、彼は食卓でパソコンを開いた。皿はそのままになった。由里子は入浴し、上がってから見た。十一時近かった。
「まだ仕事?」
「あと少し」
「洗い物、どうする?」
「今日だけ、やっといてくれる?」
由里子の中で、何かが早く閉まった。
「また、私?」
声が強くなった。健司は画面から顔を上げた。
「一回頼んだだけだろ」
「その一回が、ずっと続いてたから言ってるの」
健司は椅子を押し、立ち上がった。怒った顔で皿を持ち上げる。
「わかったよ。やればいいんだろ」
由里子も、それならもういい、と言いかけた。以前の二人なら、その言葉で終わり、結局由里子が洗っていた。
今日は、晴菜が居間の入口から言った。
「交換って、決めたんじゃなかった?」
二人とも娘を見た。
「今日、お母さんがやるなら、明日の何かと替わるとか。そういう話じゃなかった?」
健司は皿を流しへ置いた。乱暴な音にはならなかった。
「ごめん。今夜中に返す仕事がある。今日の台所を頼む代わりに、明日の夕飯を俺が用意する。それでどうだろう」
由里子は少し考えた。
「買ってきたものでもいい?」
健司が付け足した。
「いい。買い物も、予算も、考えてくれるなら」
「わかった」
由里子は皿を洗った。前と同じ行動なのに、明日の夕方が自分へ返ってくると分かっていた。
翌日、健司は総菜と汁物を用意した。野菜が少し足りないように見えたが、由里子は冷蔵庫から追加の一品を作らなかった。今夜一食だけで、家族の食事の全てが決まるわけではない。
健司は食後、仕事をするため書斎へ行った。ただし、その前に十五分、食卓に残った。未央の文化祭の飾りが風で剥がれた話を聞き、晴菜が学校の先生の口癖を真似るのを笑った。
部屋を移すことより、その十五分のほうが、由里子には変化として残った。
洗面台の修理は、健司が手配した。
土曜日の朝、型番の写真を撮り、業者へ連絡した。電話の途中で由里子に症状を尋ねたが、折り返しを待つことも、訪問日の調整も、自分の携帯で受けた。
由里子は予定表に日時を書きかけて、健司にペンを渡した。
「ここにもお願い」
健司は少し笑った。
「そうか。自分で書くんだな」
修理の日、由里子は仕事へ行った。帰宅すると容器が片づけられ、洗面台の下が乾いていた。健司は交換した部品の説明を長く始めた。
由里子は途中まで聞いて、笑った。
「直ってよかった。ありがとう」
「前からやればよかったな」
「うん」
否定しなかった。
後で、旅に持っていったメモ帳を開くと、最初の一枚に型番が途中まで書かれたまま残っていた。その次の一枚を切り離し、旅に出ると書いたのだった。
由里子は型番の紙を破り取って捨てた。あの朝のメモは健司がまだ持っているらしかったが、どこにあるかは尋ねなかった。
記念のように残したいわけでも、なかったことにしたいわけでもなかった。
六月の終わり、未央の門限が話題になった。
文化祭の片づけが終わったあと、友達と食事に行きたいという。帰宅予定はいつもより一時間遅かった。
「だめだ。今までどおり」
健司がすぐに言った。
未央は椅子にもたれ、口を閉じた。由里子は二人を見た。以前なら、父親の機嫌を見ながら娘を説得する役になっていた。
「何が心配なのか、先に聞いてもいい?」
由里子は健司に尋ねた。
「帰りが暗いだろ。駅からもあるし」
「誰と、どこで食べるか、まだ聞いてないよ」
晴菜が言った。
未央は携帯の画面を見せた。学校の近くの店で、友達四人と行く。駅までは二人と一緒、その先は一人になる。
「みんな行くのに、私だけ帰るの、嫌だ」
未央の声は尖っていたが、用意した模範解答ではなかった。
「遅くなるのは一回だけ?」
健司が聞く。
「片づけの日だけ」
時間と場所、帰りの道を確かめ、今回は連絡を入れる条件で認めることになった。由里子は迎えに行くとは言わなかった。健司がその晩の予定を確かめ、駅までなら迎えに行けると申し出た。
「お父さんが?」
未央が驚いた。
「俺の車だって動くよ」
誰かが笑った。
話し合えば必ず希望が通るわけではない。その翌月、未央が急に遠方の催しへ行きたいと言った時には、同行者や帰宅手段が決まっておらず、もう少し調べてからという話になった。未央は不満そうだったが、自分の希望を言っただけで叱られることはなかった。
由里子も、娘が不満なままでいる時間を、すぐ埋めなくてよくなった。
七月の半ば、晴菜が泣いたのは、二度目の模擬試験の結果が返ってきた夜だった。
娘はいつもどおり食事をし、洗濯物を取り込んだ。由里子が洗面所へ行く途中、階段の下で鼻をすする音を聞いた。
「晴菜?」
「何でもない」
その言葉を額面どおりに受け取ることと、無理に聞き出すことの間に、どう立てばいいか分からなかった。
「お茶、飲む?」
由里子が言うと、娘は少しして下りてきた。
模試の紙を食卓へ置いた。由里子は数字を見たが、すぐには評価しなかった。
「勉強してるのに、上がらない」
晴菜は両手で顔を覆った。
「学校でも、みんな平気な顔してて。私だけ、ずっとわかってない気がする」
由里子は、そんなことないよ、と言いかけた。何が分からないのか、自分はまだ聞いていない。
「どのへんが、いちばん不安?」
晴菜は少しずつ話した。時間をかけている科目が伸びないこと、行きたい大学を言うと今の点では無理だと思われそうなこと。由里子は途中で口を挟まずに聞こうとしたが、一度、参考書の話をしてしまった。
「今、そういう話じゃない」
晴菜が言った。
「ごめん。続けて」
言い直すと、娘はまた話し始めた。
終わってから、試験前の週は取り込みの日を替えることにした。代わりに、試験が終わった週末に晴菜が買い物を受け持つ。由里子が全部引き受け直すのではなく、健司と未央も予定を見た。
「あの金曜も、怖かったんだ」
晴菜がぽつりと言った。
「自分がちゃんとできてないこと、見たくなくて、お母さんのせいにした」
由里子は茶を注ぎ足した。
「話してくれてありがとう。でも、怖い時に、私を責めていいわけではないよ」
「うん」
「私も、晴菜が黙る前に、答えを決めてしまってたと思う」
晴菜は頷き、茶碗の縁を指で触った。
母親が傷ついたことと、娘が苦しかったことを、どちらか一つにしなくても話せた夜だった。
由里子の休み方も、すぐには形にならなかった。
最初の土曜の半日、何をすればいいか思いつかず、結局、駅前を歩いただけで帰ってきた。家には健司がいて、「もう帰ったの」と言った。由里子は、休むのにも下手な人と上手な人がいるような気がした。
次の月は、高木と美術館へ行った。展示を見たあと、駅の近くで遅い昼食を取った。
「温泉、どうだった?」
高木が聞いた。
由里子は白い湯と川の話をし、それから家を出ることになった朝のことを、少しだけ話した。
高木は黙って聞き、食べ終えた皿を端へ寄せた。
「戻ってからのほうが、時間かかるよね」
「うん。毎日、何かある」
「うちもあるよ」
その先を、二人は急いで一般論にしなかった。高木の家には高木の事情があった。由里子も、自分がした旅を誰にでも勧められるとは思わなかった。
帰りの電車で、由里子は展示の小さなカードを見た。買ったのは川の絵だった。家族への土産はなかった。
帰宅すると、未央が「何見たの」と尋ねた。由里子がカードを見せると、娘は少し眺めて、「水ばっかりだね」と笑った。
「好きなのかもしれない」
由里子は言った。
自分の好みを、家で口にした。
カードは冷蔵庫ではなく、自分の机代わりにしている小さな棚に置いた。そこには、読みかけの本とメモ帳も並ぶようになっていた。
八月の終わりにも、一度、大きな言い合いがあった。
健司の繁忙期と娘たちの予定が重なり、決めた分担が三日続けて崩れた。由里子は気づいたものから片づけてしまい、四日目に洗濯物の前で怒った。
「結局、私がやってるじゃない」
健司も疲れていた。
「今週は無理だって、言っただろ」
「無理って言えば、私ができることになるの?」
声が廊下まで響いた。未央が部屋の扉を閉め、晴菜がヘッドホンを外した。
由里子は、あの朝に戻ったように感じた。旅も話し合いも無意味だったのではないかと、一瞬思った。
けれど、健司はそのあと、予定表を持ってきた。
「今日は、話すと喧嘩になる。明日の朝、十分でいいから、組み直したい」
由里子はすぐに頷かなかった。先延ばしにされるのではないかと思ったからだ。
「何時?」
「七時半」
「十分では足りないかもしれない」
「じゃあ、八時まで」
具体的な時刻を紙に書いた。
翌朝、二人は本当に座った。健司が仕事で手を離せない三日間は夕食を簡単にし、洗濯は回数を減らし、娘たちの分も予定を見直した。全てを同じ質で維持しようとすると、結局、空いた人の時間へ流れ込む。それがほとんど由里子の時間だった。
今週はしないことも、決めた。
玄関の念入りな掃除。毎日の別々の副菜。まだ着られる服を一日で洗うこと。
由里子は、やらない項目を見て少し落ち着かなかった。それでも、一週間が過ぎても家が壊れることはなかった。
食費は、最初の月には思ったより増えた。健司が特売の肉を多く買いすぎ、冷蔵庫の奥で使い切れなかったこともあった。以前なら由里子が期限の近いものを見つけて、献立を変えていた。
捨てる時、健司はしばらく袋を見ていた。
「安く買えばいいってことじゃないんだな」
「使う日が決まってないとね」
由里子は答えた。そのあと二人で、買う前に冷蔵庫を見て、量を決めることにした。健司が週末の献立を二つ覚えると、買い物の迷いも少し減った。
節約を理由に、元の暮らしへ戻すことはしなかった。一方で、お金の心配を気にしないふりもしなかった。作る日と買う日を選ぶことが、由里子一人の工夫ではなくなっていった。
変わっていなかったのではない。崩れた時に、戻し方を話せるようにはなっていた。
九月に入り、休日の過ごし方を相談した。
健司は海辺の公園を提案し、未央は友達との予定があると言った。晴菜は午後から勉強したかった。
全員で行くことを優先すると、また誰かが我慢する。由里子は、午前だけ行って早めに帰る案を出した。未央は次の週なら空いていると言い、晴菜も午前なら行けると答えた。
「お弁当、どうする?」
健司が尋ねた。
由里子は少し身構えたが、彼は自分で続けた。
「俺がパン買ってくる。飲み物は各自でいいか」
「果物、切って持ってく」
未央が言った。
「私、敷くもの出す」
晴菜が予定表に書いた。
由里子の仕事は、何も残っていなかった。そこで自分から卵焼きを作ると言いそうになって、やめた。
「私は、本を持っていく」
「公園で読むの?」
「読みたくなったら」
未央は少し考え、「じゃあ、私も」と言った。
当日は、出発前に小さな騒ぎがあった。未央の水筒が見つからず、健司が駐車場の場所を勘違いしていた。晴菜は敷物を出し忘れ、一度玄関から戻った。
由里子は車の助手席で待った。
全員が乗ると、健司は後ろを振り返った。
「揃った?」
「揃った」
未央が答えた。由里子が全員の荷物を確認する必要はなかった。
道は少し混んでいた。窓の外を見ているうちに、由里子は金曜日の特急を思い出した。あの時は家から遠ざかるために乗った。今日は家族と同じ車にいて、窓の外を見る余裕がある。
晴菜は途中で単語帳を開き、未央は音楽を聴き始めた。四人の視線は、同じ方向ではなかった。
由里子は、それでいいと思った。
公園には、まだ夏の熱が残っていた。
木陰に敷物を広げ、パンの袋を開けた。健司が買ってきた中には、由里子があまり選ばない甘いパンもあった。半分にして未央と分けると、思ったよりおいしかった。
「お母さん、これ好きだったんだ」
「今日、知った」
由里子が答えると、未央は笑った。
食後、健司は海の近くまで歩こうと言った。晴菜は暑いから残ると言い、由里子は少しだけ歩くことにした。未央は二人についてきたが、途中で貝殻の写真を撮り始めた。
健司と並んで歩くのは、久しぶりだった。娘たちが小さいころは、いつも間に一人いた。
「また、あの温泉、行きたい?」
健司が尋ねた。
由里子は足元の砂を見た。
「うん」
「今度は、一緒に?」
すぐに答えず、海のほうを見た。
「一緒に行くのもいい。でも、一人でも、また行きたい」
健司は少し間を置いた。
「そっか」
残念そうでもあった。由里子はその表情を見て、言い直したくなった。けれど、言い直さなかった。
「行く時は、早めに予定を決める」
「うん。俺も休みを考える」
海の光が強く、健司は目を細めた。
「会社の付き合い以外で、一人で何するか、あまり考えてなかったな」
「考えてみたら」
由里子が言うと、健司は笑った。どんな休日がいいか、由里子が代わりに提案することはしなかった。
戻ると、晴菜は本を胸に置いて眠りかけていた。未央が写真を見せようとして、姉の顔を見てやめた。
由里子も本を開いた。風でページがめくれ、指で押さえる。五ページほど読む間、誰にも呼ばれなかった。
翌朝、由里子は六時の目覚ましで起きた。
月曜日。仕事がある。娘たちも学校へ行き、健司も出勤する。何も特別ではない朝だった。
階下では、先に起きた健司が湯を沸かしていた。
「おはよう」
「おはよう」
「コーヒー、飲む?」
「飲む」
由里子は窓を開けた。昨日の海の匂いはもちろんしなかったが、風は少しだけ涼しくなっていた。
晴菜が弁当箱を持ってきた。今日は自分で用意する日だった。未央は台所の隅で卵を割り、殻の小さな欠片を箸で拾おうとしている。
「取れない」
「スプーンのほうが、やりやすいかも」
晴菜が言った。
由里子は椅子に座った。健司がコーヒーを置く。
「ありがとう。少し冷ましてから飲むね」
「いつも、そうだっけ」
「うん」
健司は自分のカップに口をつけ、熱かったのか、すぐ離した。
由里子は笑った。
冷蔵庫の予定表には、四人の字がある。書き忘れも、書き直した跡もある。由里子の午後の空白は、誰かが埋めていい空白ではなくなっていた。
未央が焼き上がった卵を皿へ移した。少し焦げている。娘は皿を見て、自分の弁当へその部分を入れた。
「お母さん、こっち食べる?」
残った一切れを差し出された。端ではなく、真ん中だった。
「うん。食べたい」
由里子は答えた。
食卓にはまだ、言いそびれたことがあった。来月の勤務、晴菜の進路、未央の新しい約束、健司が疲れて帰る日のこと。これからも、声を荒らげる朝があるだろう。何も言いたくない夜もある。
由里子は自分の皿を、ほかの三人の皿の間に置いた。
窓から入った風が、予定表の下の端を揺らした。やかんが小さく鳴り、誰かが昨日の続きを話し始めた。
コーヒーは、ちょうど飲みやすい温度になっていた。




