その三
十月も中旬になったある夜、いつものように展望台に一人佇んでいた。
平日だったにしても珍しく誰もいない、夜風の冷たい夜だった。
いつものように、欄干に体をもたれ掛からせて満天の星の瞬きと眼下に広がる小さな街の灯りとをぼんやり眺めていた。
いつしか気が付けば、何処からか、うっうっと女がすすり泣いている声が何処からか風にのって聞こえてきたのだ。
慌てて辺りをキョロキョロ見回してみる。
やはり誰も見当たらない。
これこそ例の幽霊ではないか。
ひやひやしながら、まずは落ち着こう、とにかく落ち着こうと、かなり狼狽えながら足早に休憩所を目指す。
なおも聞こえる女のすすり泣く声に少し震えながら休憩所のトタン屋根を素早くくぐる。
なんと泣き声の主がそこにいた。
ハッと目が合って、すぐに目を逸らしたものの、そのまま立ち去るのも気まずくて、一番離れたベンチの隅に座った。
女は小柄な少女だった。
まだ若い中学生か高校生かという雰囲気の華奢な骨格に、今時の流行りなのだろうか、やけにぶかぶかの男物みたいな黒いパーカーのフードをすっぽり被って、しくしく泣きながら忙しなくスマホをいじっている。
私は深く安堵した。とりあえず、怪異ではなかったことに深い安堵のため息が出た。
そして、なにがあったか知らないが、こんな夜更けにこんな場所で一人泣いている少女がひどく哀れに思われた。
ベンチに腰かけたまま、私は気まずい沈黙のままに、少女のすすり泣く声を聞いてうつむいていた。
うつむいているうちにやがて、腹が減った。
間の悪いものだ。
少女が人目も憚らずに泣きじゃくっているのに、私の腹がグウと鳴って狭い休憩所に響き渡ってしまった。私はうつむいたまま赤面しつつ小さく咳払いなどして気まずい空気を払拭せんと努めざるを得なかった。
いっそのこと、ここから逃げ出そうかとも思った。
あるいは少女が私を避けて逃げていってくれはしないかとも思った。
思っているうちに、また腹がグウと鳴った。間の抜けた場違いな音に当の私が泣きたくなった。
開き直った私は、うどんを食べることに決めた。
一人で食べるのもなんだか気まずくて、例のうどん自販機でうどんを二つ購入し、良かったら食べて、といって一つを少女の前に置いた。
少女はびっくりしたような目で私を見上げた。雫のような涙にキラキラと光る瞳が虚ろなうちにも儚く美しく輝いていた。
私は黙って頷きながらさっそく自分のうどんを食べた。相変わらずの美味さだった。寂しいときのうどんはまた独特の優しい味がする。
少女は沈黙したまま、うどんから立ち上る湯気を眺めている。
良かったら、食べて下さい。一人で食べるより二人の方が美味しいです。うどんが伸びますよ。
私の声に反応してプラスチックのどんぶりを左手に持ったまま、少女はまた固まってしまった。
どうしたものかと、沈黙の間が続いた。
ふいに少女は口を開いた。沈黙の堰に溜め込まれていた心の言葉が、怒濤のように噴出するようだった。
なんでこんなところにいるんだろう。
なんでこんなに悲しくなるんだろう。
なにをやっても上手くいかない。
なにをやっても上手くできない。
もう嫌だ。
みじめだ。
学校に行ってもうまく心の通じられない仮の友達に、嫌われるのが怖いばかりに愛想笑いして、よくわからない授業を受けて、家に帰ってお母さんに今日はどうだったって尋ねられて、お母さんにも嫌われたくないし心配させたくないから、笑いながらうんまぁねって意味ない返事して、部屋で一人になってやっとほっとして、肩の力が抜けてベッドに横になって、ふっと気が付くともう日が沈んで、薄暗くかげってゆく部屋のなかで一人ぼっちが寂しくて悲しくて、誰ともわかり合えない自分が惨めで仕方がない。
寂しい場所に行けば、自分の寂しさも景色のなかに溶け込めるかもしれない。そう思って、宛もなく歩いて、気が付けばここまで歩いてきました。
もう行き止まりだ。
寂しい。今日の展望台は私の願った通りの寂しい場所だ。
良かった。少しは気分が晴れるかな。
でも駄目だった。もっともっと寂しく虚しくなってしまった。
街の灯りを見ると、その光の一つ一つみんなちゃんと生きていて、私みたいにだらしなく泣いたり狼狽えたりしないで清く正しく生きていて、それは辛いことが悲しいことがあってもわかり合える家族や友達と感情を分かち合えて慰めてくれる人もいて、良いなぁ羨ましいなぁって。なんだか涙が止まらなくなっちゃって。
ごめんなさい。迷惑ですよね。ごめんなさい。訳わかんないですよね。
呆然とする私を尻目に、一気呵成に心情を吐露した少女は、どんぶりをのぞき込むようにうつむいたまま、小さく震えていた。
少女の言葉の訴える切なさやもどかしさは誰もが多かれ少なかれ経験するものであり、聞いていて私自身の現在のやりきれない虚しい気持ちや、やはり心の内側で同じように悩み苦しんだ今は遠い思春期すらほろ苦く思い出されて、思わず少女と同じく泣き出しそうになってしまった。
まぁまぁとりあえず落ち着いて。
とりあえず、私にはそれしか言えなかった。
それを食べたら、一旦家に帰ろうよ。家族も心配しているよ。ラインとかも来ているんだろう。
少女は小さく頷いて、やはりお腹がすいていたのだろう、プラスチックのどんぶりを抱き込むように抱えて鼻をすすりながらうどんを食べだした。
私の乏しい人生経験でも、人は寒かったり空腹だったりすると余計に自身が惨めにネガティブに思われてしまうということを知っている。
そんな時はまず暖かいものを食べるに限る。
体が暖まれば眠くなる。
ぐっすり眠って目が覚めれば、再び生きる気力がどこからか湧いてくる。大概のことは割り切って冷静に考えられるようになる。
今は落ち着くことが大切だ。
私は安堵した。
みるみるうちに、少女のどんぶりを持つ青白い手にピンク色の血色が戻ってきたのだ。
食べ終わったら家に帰ろう。車で送ってあげるから。
ごめんなさい。
そう言って、うどんを食べながら、少女は小さく頷いた。
良かったなぁ。
私は安堵しつつも、よく考えたら車の中がひどく散らかっていることをふと思いだし、心の片隅でしまったなぁと反省していた。
うどんを食べ終えて一息ついた少女と、暗い駐車場を歩いていた時、背後の展望台から幽かに笛のようなオカリナのような、ひどく懐かしい感じの素朴な音色が聞こえてきた。
ああ、これが例の心霊スポットと言われている所以の音色か。
どこか物寂しいような悲しい音色が、誰もいなかったはずの展望台から、なおもゆったりと聞こえてくる。
何故だろう、不思議と怖いとは思わなかった。
むしろ、私達の孤独を慰めようと、心にそっと寄り添ってくれるような優しい音色に、思わず私のような者の目にも涙らしきものが滲んできたのだった。




