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7話

そこは、熱と痛みに支配された、深い海の底のような時間だった。

龍一は朦朧とする意識の中で、何度も覚醒と昏睡を繰り返していた。


覚醒した時は熱のせいか、視界は常にぐにゃりと歪んでいる。

そんな夢と現実の境目のような世界で、ふと、青い髪の少女がベッドの脇に座っているのが見えた。彼女は華奢な手で木製のスプーンを持ち、温かいミルクのような白い液体を、少しずつ龍一の唇の隙間から流し込んでくれた。

味覚は死んでいた。だが、凍りつきそうだった胃の腑に落ちていくその液体は、信じられないほどに暖かかくて。その温もりに抱かれて。また、意識が闇に沈む。


次に目が覚めた時、彼女は手桶のそばにしゃがみ込み、布を絞っていた。

そして、熱を出して汗をかいた龍一の顔や首筋、腕を、驚くほど丁寧な手つきで拭いてくれた。布の冷たさと、彼女の指先から伝わってくる微かな体温。その手つきからは、あの凶悪な警備兵たちからは微塵も感じられなかった優しさが、確かに伝わってくるような気がした。

龍一は、彼女の透き通るような青い髪をぼんやりと見つめたまま、再び深い眠りへと落ちていった。


真夜中。猛烈な悪寒で、龍一はパチリと目を覚ました。

寒い。骨の芯まで凍りつくような寒さだ。歯の根がガチガチと鳴り、自分の意思ではどうにもコントロールできないほどの激しい震えが全身を襲う。ガタガタ、ガタガタと、寝かされているベッドごと激しく揺れた。

「――っ!」

軋むベッドの音に気づいたのか、廊下からバタバタと慌ただしい足音がして、ランタンと水桶を抱えた少女が部屋に駆け込んできた。

彼女はどこかから分厚い追加の毛布を引っ張り出してきて龍一に被せ、冷たい水で絞った布巾を熱い額に乗せてくれた。

それでも、龍一の激しい痙攣は止まらなかった。

「はっ、あ……ぅ、が、ががが……っ!」

恐怖と寒さで呼吸が乱れる。

すると、少女は龍一の震える右手を両手でギュッと強く握りしめた。

そして、ベッドの脇に跪き、目を閉じて、何か静かな祈りの言葉を囁き始めた。

異国の言葉。何を言っているのかは分からない。だが、その細く白い指から伝わる力強い握力と、優しい囁き声が、龍一の恐怖を少しずつ溶かしていく。

龍一は激しく震えながら、薄れゆく意識の中で、祈る彼女の横顔をじっと見つめ続けた。

やがて痙攣はゆっくりと収まり、いつしか龍一は、深い安らぎの中で眠りに落ちていた。


――チュン、チュン。

窓の外から聞こえる鳥のさえずりで、龍一は目を覚ました。

差し込む朝陽が酷く眩しい。

「……あ……」

身じろぎをしようとして、全身に走る激痛に顔をしかめた。殴られた頭、蹴られた腹や背中が鉛のように重く痛む。手足も、いつ傷ついたのかわからないが、痛みがある。特に肋骨のあたりは、呼吸をするだけでヒリヒリと痛み、息苦しい。

だが、頭に掛かっていた熱の靄は完全に晴れ、視界は驚くほどクリアだった。

首だけを僅かに動かし、辺りを見回す。


質素な木造の部屋だ。古い木製の戸棚と、自分の寝ているベッド以外には何もない。よく片付いているというよりは、最低限の物しか置かれていないといった印象だ。

日本の病院の個室でも、自分のアパートの部屋でもない。

夢から覚めたわけではないのだ。それは、この身体に刻まれた生々しい激痛が何よりも証明していた。


(……俺、生きてるのか?)

自分が生き延びたことに、龍一は改めて少し驚いた。

あの凄惨な地下牢と、理不尽な暴力を思い出す。釈放されて、外に出て、歩いて……そこで倒れたはずだ。

誰かが拾ってくれたのか?

それとも、誘拐? 犯罪組織に拾われて、これから臓器でも抜かれるのだろうか? いや、もしかしたら眠っている間にもう……?

極限のトラウマが、龍一の思考を最悪の方向へと引きずり込んでいく。

ドクン、ドクンと、心拍数が跳ね上がる。


トントントン、トン……。

その時、木製の階段を上がってくる足音が聞こえた。

一気に血の気が引く。心拍数がさらに上がり、耳の奥で自分の脈打つ音がうるさいほどに響く。

逃げなければ。だが、体は痛みのせいで指一本まともに動かせない。龍一はごくりと乾いた唾を飲み込み、開かれるであろうドアを、怯えた目で見つめるしかなかった。

ガチャリ、とドアが開く。

入ってきたのは、修道女の服を着た中年の痩せたゴルマリーだった。龍一にとっては完全に初対面だ。

ゴルマリーはベッドで目を覚ましている龍一を見つけると、その細く吊り上がった目で、冷たく無機質な視線を向けた。

「******?」

何かを聞かれている気がする。だが、分からない。

心拍数が限界を突破し、龍一の体がビクッと強張った。

また、何かされるのか。また殴られるのか。何を言っているのか分からない。怖い。ただひたすらに、他人が怖い。

「はぁ……」

言葉が通じないことを察したのか、ゴルマリーがわざとらしく大きなため息をついた。

ただの「ため息」だ。だが、今の龍一にとっては、それすらも暴力が始まるトリガーに見えてしまった。

「ひっ……!」

喉の奥で引きつった音が鳴り、恐怖のあまり目からぼろぼろと涙が溢れそうになる。平和な日本で育った普通の大学生の心は、それほどまでにボロボロに破壊されていた。

「***! *********!」

ゴルマリーは龍一から顔を背け、開け放たれたドアから階下に向かって大声で呼びかけた。


しばらくして、ととととと……! と、軽い足音が階段を駆け上がってくる。

ドアの陰から、ひょこっと顔を出したのは、見覚えのある青い髪だった。

数日間の徹夜の看病のせいか、目の下にはうっすらと隈ができ、色濃い疲労が伺える。だが、目を開いて怯えている龍一を視認した瞬間、彼女の藍色のジト目が少しだけ見開かれ――ふわりと、柔らかな笑顔が溢れた。


(あ……)

その瞬間、龍一の脳裏に、朦朧とする意識の中で見るかのような物を飲ませてくれたり、手を握って祈ってくれていた彼女の断片的な記憶が、一気に蘇ってきた。

途端に、張り詰めていた恐怖の糸がふっと緩み、ひどく温かい安心感が胸を満たしていく。


少女はゆっくりとベッドに近寄ると、龍一を見下ろして話しかけた。

「*****、*******」

少し低く、ハスキーな声だった。

やはり意味は全く分からない。だが不思議と、先ほどまでの絶望的な不安は微塵も感じなかった。それどころか、淡く微笑む彼女の顔を間近で見て、(かわいいな……)とぼーっと見惚れる余裕すら生まれていた。

少女は一度振り返り、ゴルマリーに向かって話しかけた。

「********?」

ゴルマリーは呆れたように首を振り、短く答える。

「******」

少女は頷くと、再び龍一に向き直った。

そして、ベッドに顔を少し近づけ、自らの胸をちょんと指差して、はっきりとした声で発音した。


「マール」

龍一はきょとんとした。なんだかよく分かっていない。

彼女は諦めず、もう一度自分を指差した。

「マール」

と、繰り返す。

三度目で、龍一の脳がようやくその単語の輪郭を捉えた。

「……マー……ル」

掠れた声で、ゆっくりと発音する。

それを聞いたマールの薄い唇の口角が、嬉しそうに少しだけ上がった。

彼女は自分を指差し、「マール」。

龍一も頷いて、「マール」。

言葉の通じない異世界で、初めて「名前」という概念が共有された瞬間だった。


次にマールは、スッと細い指を伸ばし、龍一の胸を指差した。

そして、少しだけ小首を傾げて彼を見つめる。

(俺の名前を、聞いているのか)

龍一はなんとなく逡巡した。自分の本名を教えていいのか。だが、この底抜けに優しい少女を前にして、嘘をつく気にはなれなかった。

「……リュウイチ」

マールは少し眉を寄せ、難しい発音を口の中で転がすように言った。

「……リューチ」

「リュ、ウ、イチ」

「リューチ」

(まあ、もうリューチでいいか)

きっと、この言語圏にはない発音の法則なのだろう。龍一は小さく息を吐いた。

「うん……リューチ、だ」

龍一は、痛む顔を少しだけ綻ばせ、自覚のないままはにかんでいた。


この理不尽で地獄のような世界に来てから初めて、彼が他者と『コミュニケーション』を取れた、ささやかな、けれど確かな一歩だった。

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