6話
青い髪をした教会の小間使い、マールの朝は早い。
買い出し、掃除、洗濯、水汲みから料理まで、ありとあらゆる仕事をこなさなければならない。それも、すべて人力で。
この街、アルデルベルクは魔法道具で溢れているが、マールは魔法が使えない。否、マールどころか、自分のいる教会に魔法を使える者など一人もいないのだ。
事実、ほとんどの市民は直接魔法を使うことなどできない。魔力を用いて事象を改変できるのは、ごく一部の才能に溢れた存在のみ。そうした特権階級の者たちが作り出した「魔法道具」が世の中に大量に流通しており、人々はそれを使って暮らしているのが現実だった。
市場での朝一番の買い出しを終えたマールは、両手で抱え込んだ麻袋の重みに小さく息を吐きながら、帰路についていた。
薄手のローブを纏ったその華奢な体躯は、麻袋の重みに今にも負けそうなほどだ。
透き通る青い髪が、うっすらと汗で額に張り付き、ボブカットの髪型が少し乱れている。深い海の底を思わせる藍色の瞳は、瞼によって半分隠されていた。いわゆるジト目だ。固く結ばれた薄い桃色の唇と、真っ白で陶器のように滑らかな肌が、マールの落ち着いた雰囲気を際立たせている。
教会の敷地を囲む石壁が見えてきたその時、マールは足を止めた。
「……?」
重厚な木造の門の前に、丸まったぼろきれのようなものが転がっている。
目を凝らすと、それは見慣れない異国の装束を着た男だった。いや、装束の色すら分からないほど、その全身は泥と吐瀉物、そして赤黒い血に塗れていた。
「……あれ、もしかしてこの人は昨日の噂の……」
マールはぽつりと呟いた。
市場の買い出しでも耳にした。街の広場で噴水の生水を飲み、挙句の果てに自律駆動する魔法の箒を力ずくで止めようとした、言葉の通じない狂人。最後は警備兵に連行されていったという、胡散臭いよそ者の噂。
マールは麻袋を地面に置き、静かに男のそばへ歩み寄った。
しゃがみ込み、その胸元に耳を近づける。浅く、掠れた呼吸音が聞こえた。生きているが、死にかけている。
男の汚れた手は、一枚の紙をギュッと握りしめていた。マールがそっと抜き取って目を通すと、それは警備隊が発行した釈放証明書と、法外な罰金を背負わせる借金証書だった。つまり、彼は犯罪者ではなくなり、今や理不尽に搾取されて放り出されたただの浮浪者だということだ。
どうしようか。
マールの藍色のジト目が、男の横顔を見つめた。ひどく殴られ、腫れ上がっているが、泥の隙間から見える輪郭はまだ若い。
自分に関わりのない厄介事だ。見捨てて扉の中へ入るのが一番賢い。
しかし、沈黙の末に、マールは短く息を吐き出した。
「……ふぅ」
助けよう。そう思った。
だが、この華奢な腕力で、気絶した大人の男一人を運ぶことなど到底不可能だ。
マールは男をその場に残し、教会の門を押し開けて中へ駆け込んだ。
「ゴルマリー様!」
静謐な礼拝堂に続く回廊で、マールは声を上げた。
「廊下を走らないで頂戴、マール」
振り返ったのは、修道女の服に身を包んだ、中年の痩せた人間の女、教会の管理者であるゴルマリーだった。神経質そうに吊り上がった目尻と、薄い唇が、彼女の厳しい性格を物語っている。
マールは立ち止まり、手短に状況を伝えた。教会の前に男が倒れていること。死にかけていること。そして、彼を助けたいということ。
話を聞き終えたゴルマリーの顔は、あからさまに険しくなった。
「あの噂の不審者でしょう? 駄目よ。ただでさえ得体の知れないよそ者なのに、警備隊に目をつけられているような人間を匿うなんて、教会の体面に関わるわ」
「ですが」
マールは食い下がった。
「聖アマリ教の教えにあるはずです。『道端で強盗に遭い、半殺しにされた旅人を見捨てず、油とぶどう酒を注ぎ介抱した者こそが真の隣人である』と」
ゴルマリーは深い、深いため息をついた。
教義を持ち出されては、無下に跳ね除けることも難しい。それでも渋る管理人に、マールはたたみかけた。
「それに、神の家の門前に死体を放置したとなれば、街の人々にどう思われるか……」
正論の連打に、ゴルマリーは黙り込んだ。
やがて、彼女の細い目がマールを憐れむように見つめた。
「……マール。その男を救っても、あなたの……」
その瞬間。
マールの藍色の瞳が、ハッと大きく見開かれた。感情の薄いその顔に、明確な動揺とショックが走る。
失言に気づいたゴルマリーは、バツが悪そうに首を振った。
「……ごめんなさい、何でもないわ。……男の人を何人か連れて運び込みなさい」
そして、厳しい声色に戻して告げた。
「その代わり、お前が最後まで面倒を見るのよ」
マールは伏し目がちに、こくりと頷いた。
先ほどの動揺を押し殺し、平静な顔に戻ると、そのまま黙ってゴルマリーの元を去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、ゴルマリーはまた一つ、やりきれないような深いため息をこぼした。
ロの字型に建物を配置した教会の中庭。
マールが呼んできた三人の下働きの男たちによって、龍一は重い扉の中へと引きずり込まれ、中庭にある平らな岩の上に寝かされた。
「うぅ……」
背中に走る痛みに、龍一が微かにうめき声を漏らす。
「ティミー、お湯を沸かしてきて」
マールが指示を出すと、一人の男が厨房へと走った。
「ごめんね」
振り返りマールはそう小さく呟くと、残った二人の男に手伝わせ、龍一の衣服に手をかけた。
汚泥と血で肌に張り付いたジャージの上下を、無理やり剥ぎ取っていく。異邦の青年は、朝の冷たい空気の中に全裸で晒された。
「俺たちは井戸から水を汲んでくる」
「ありがとう、助かるよ」
二人の男が手桶を持って離れていくのと入れ替わりに、湯気の立つ鍋を持った男が戻ってきた。マールはそれを受け取り、用意していた清潔な布を浸した。
マールは、全裸の龍一の体を丁寧に拭き上げ始めた。
嫌悪感など微塵も見せず、ただ淡々と布を滑らせる。
鈍器で殴られた頭部や、何度も蹴りつけられて青黒く腫れ上がった腹部や背中、そして自らの排泄物で汚れた下半身。特に汚れのひどい部分には、手桶のぬるま湯を少しずつかけながら、布を何枚も交換して丁寧に、丁寧に拭き取っていく。
「あぁ……っ」
傷口に布が触れ、龍一が苦痛に顔を歪めてうめき声を上げる。
そのたびに、マールは拭く手を止め、龍一の黒い髪を優しく撫でた。
「大丈夫、大丈夫……」
言葉が通じないことは分かっていても、その穏やかな声と掌の温もりが伝わるのか、撫でられると龍一は不思議と静かに呼吸を落ち着かせた。
やがて全身の汚れを拭き終え、見違えるように綺麗になり、傷の多さが明らかになった龍一の体を前に、マールは男たちを呼んだ。
「二階の空き部屋まで運んでくれる?」
男たちに抱えられ、龍一は教会の二階へと運ばれていく。
質素だが清潔な麻の寝巻きをなんとか着せられ、硬いベッドに横たわらせられた時、龍一の寝顔は先ほどまでの苦悶がいくらか和らいでいるように見えた。
差し込む朝陽が、まだ荒い寝息を立てる異邦の青年と、彼を見下ろす青髪のマールを静かに照らし出していた。




