8話
「リューチ」
龍一の意識の深いところで、藍色の瞳の少女に名を呼ばれた気がした。
まるで深い海の底から、微かな光を頼りに水面へと浮上していくかのように、意識が少しずつ、少しずつ覚醒していく。
目が覚めた。また眠ってしまっていたようだ。
窓からは眩しい朝日が差し込んでいる。外から聞こえる小鳥のさえずりと、微かに冷たい空気からして、まだ早朝のようだ。
視界に映るのは、先日初めて目を覚ました時と変わらない、質素で何もない木造の天井。
龍一は小さく息を吐いて少し安心し、同時に、やはりこの状況が夢ではないのだという現実に少しだけ絶望した。
少しだけ開かれたドアの向こうから、階下の忙しない物音が聞こえてくる。
(ここは、どこなんだろうか……)
病院なのだろうか。にしては、薬品の匂いもしないし、ベッドがもっと並んでいてもおかしくない気がする。
先日の光景を思い返す。マールの後ろに現れた、眼光の鋭いあの女は、確か簡素なシスター服を着ていたような気がする。
とすると、現実世界でいうキリスト教の教会のような施設なのだろうか?
しかし、マール自身は地味で安い白いチュニックを着ていた。彼女はシスターではないのだろうか。身分の違いか、単なる小間使いなのか。
仮にここが病院だとしたら、莫大な支払いが発生するのではないか。教会だとしたら無償の救済のイメージはあるが、この異世界においてそんな常識が通用する保証はどこにもない。
見ず知らずの自分、しかもどう考えても得体の知れない不審者で、血と汚物に塗れた最悪のコンディションだった自分を、わざわざ助ける意味もよくわからない。
ふと、高熱に浮かされていた時の朧げな記憶が蘇った。マールに下半身の汚れを洗い流され、丁寧に拭き上げられていた時の記憶の断片だ。
「……っ」
龍一は己の無様な姿を思い出して、顔から火が出るほど恥ずかしくなり、ひどく気まずい思いに駆られた。
だが、助けてもらったことに違いはない。
とにかく、分からないことが多すぎる。少しでもこの世界の情報が欲しい。自分がどういう状況に置かれているのかを知らなければ。
そう思った龍一は、現状を確認するため、まずはベッドで仰向けになっている状態から上体を起こそうと力を込めた。
「――っっっっ!?」
瞬間、腹部にナイフで抉られたような激痛が走り、声にならない悲鳴を上げた。
上体が1ミリも持ち上がらない。あのスキンヘッドの警備兵に、硬いブーツで腹や背中を執拗に蹴り上げられたダメージだ。肋骨にヒビが入っているのか、腹筋が完全に破壊されているのか。
(……腹筋って、起き上がるのに超大事なんだな……当然だけど)
龍一は冷や汗を流しながら、今度は横にゴロゴロと転がり、うつ伏せになってから膝立ちで起き上がろうと試みた。しかし、これまた腹部に全体重がかかって激痛が走り、あっけなく崩れ落ちてしまう。
どうにかして立つ方法はないか。
龍一はベッドの上を尺取り虫のようにモゾモゾと移動し、ベッドの淵から下半身だけを床に向かって「ドン!」と落とした。
足が床につき、上半身と下半身に高低差ができた。あとは腕の力だけでベッドの枠を掴み、無理やり上体を引き起こす。
「ぐ、うぅっ……!」
激痛に耐えながら、よろめきつつもなんとか自力で立ち上がることに成功した。
龍一は壁伝いによろよろと歩き、部屋の窓に近づいて外を窺った。
そこは、ロの字型になった建物の「中庭」に面した窓だった。早朝だというのに、下では色々な人が忙しなく動き回っている様子が見える。
入り口の門から入ってきて、中庭の奥にある立派な扉へと向かっていく町人らしき人々の動き。そして、その脇で水汲みなど、小間使いの雑用をこなしている人々の動き。
(……町人たちは、どうもこの建物の奥に向かってるみたいだな。やっぱり教会みたいな場所なのか?)
少しだけ状況が掴めた気がして、龍一はヨロヨロと窓から離れようと振り返った。
その時だった。
床の僅かな板の出っ張りに踵が引っかかり、極度に体力が落ちていた龍一の身体は、いともたやすくバランスを崩した。
「あっ」
ドサァッ!
ろくな受け身も取れず、龍一は木板の床に無様にひっくり返ってしまった。
「痛っ……痛てぇ……起き上がれん……」
仰向けのまま、亀のように手足をバタつかせて色々な姿勢での復帰に挑戦したが、腹筋が使い物にならないため、どうしても起き上がれない。
その倒れた大きな音を聞きつけて、階段をドタドタと駆け上がってくる軽い足音がした。
バンッ! と勢いよくドアが開き、慌てた様子のマールが飛び込んでくる。
龍一は床の上で仰向けにひっくり返ったまま、絶望的な顔をして天井を見上げていた。
「リューチ!? *****?」
マールが心配そうに駆け寄ってくる。
龍一は、自分の情けない状態が恥ずかしくて、耳の先まで真っ赤になった。
マールは華奢な腕で龍一の脇に手を入れると、小さな体で一生懸命に彼を引き上げようとしてくれた。なんとか彼女の肩を借りて立ち上がり、龍一は再びベッドへと腰を下ろした。
「*****?」
マールは少し呼吸を乱しながら、眉根を寄せて、若干困惑したような顔で龍一を見つめている。なんで急に一人で倒れているのか、不思議に思っているのだろう。
言葉も分からず、ただただ迷惑をかけている自分が申し訳なくて、悔しくて、龍一は俯いた。
しかし。
このまま何も分からずにいるわけにはいかない、と強く思う。
言葉が分からなければ、何もできない。自分が何者であるかも説明できない。それどころか、この心からの謝罪すら、感謝すら、彼女に伝えることができないのだ。
この子は多分、自分の命を助けてくれた。
この子は多分、自分に名前を教えてくれた。
施されてばかりで本当に情けないが、今の自分には、この華奢な少女に縋り付くほかないのだ。
龍一は意を決して顔を上げ、自分の胸を指差して言った。
「リューチ」
次に、目の前のマールを指差し、
「マール」
そして次に、自分が腰掛けているベッドを指差した。
マールは藍色の瞳を瞬かせ、一瞬考えた後、答えた。
「テッブ」
聞き取れた。
「てっぶ?」
龍一がもう一度ベッドを指差しながら発音すると、マールもこくりと頷いて繰り返す。
「テッブ」
どうやら意図が通じたらしい。この言語では、ベッドは『テッブ』と呼ぶようだ。
通じた嬉しさに、龍一は少しだけ身を乗り出した。
今度は自分を指差し、次にマールを指差す。
(感謝を伝えたい)
龍一はベッドに座ったまま両手を膝に置き、日本の作法で深く、ぺこりとお辞儀をした。
マールは首を小首に傾げている。
伝わっていない。龍一は何度も自分を指差し、次いでマールを指差し、深く頭を下げるという動作を繰り返した。
次第に腹筋が悲鳴をあげる。
やがて、マールはハッとして合点がいったように目を丸くし、そして柔らかく発音した。
「エクナド・ノークス」
「え、えくなど……のーくす?」
「アイ! エクナド・ノークス」
マールがこくこくと頷きながら返す。
『エクナド・ノークス』が感謝を伝える言葉なのだろうか? 『アイ』とは? 『はい』や『Yes』の意味だろうか。
細かい文法は分からないが、龍一は心を込めて、深くお辞儀をしながらその言葉を口にした。
「えくなど・のーくす」
マールは、これまでに見たことのないような、ふんわりとした優しい微笑みを浮かべて返した。
「エディブ!」
返答の意味は分からないが、きっと「どういたしまして」的なことだろう。感謝の気持ちは、間違いなく受け取ってもらえたはずだ。
そうこうしていると、部屋の外、階下から「マール!」と鋭く呼ぶゴルマリーの声が聞こえた。
振り返ったマールは、少し考えた後、龍一に向かって言った。
「エトゥラウ ラム ツルク」
そう言い残すと、彼女は駆け足で部屋を出て行った。
数分後、マールは小脇に一冊の本を抱えて戻ってくる。
それは、ボロボロになった子供向けの絵本のようだった。おそらく、言葉を学びたいという龍一の意図を察してわざわざ持ってきてくれたのだろう。
「トゥート リム ディエル、エニエク ティエツ。セイル サド ラム エディブ、アイ?」
マールは早口でまくしたてるようにそう言うや否や、龍一の返事も聞かずに、再び慌てた様子で部屋から去ろうとした。よほど仕事が立て込んでいるらしい。
「あ、えくなど・のーくす!」
何を言われたのかは全く分からなかったが、すでに部屋を出ようとしているマールの華奢な背中に向かって、龍一は咄嗟に覚えたてのお礼を叫んだ。
すると、階段を降りていくパタパタという足音と共に、部屋の外から弾むような声で返答があった。
「エディブ!」
新たなコミュニケーションのステップを踏み出せたことに、龍一の胸に温かい喜びが広がった。
さて。
龍一は手渡された絵本に視線を落とす。
最後に早口で言われた意味は全く分からなかったが、文脈からして「これで勉強しておけ」ということだろう。彼女の優しさに報いるためにも、一刻も早くこの世界の言葉を――。
しかし。
ペラリ、と絵本のページをめくった瞬間、龍一は真顔になった。
挿絵の横に並んでいるのは、あの街の看板で見たのと同じ、象形文字と幾何学模様を掛け合わせたような、全く法則性の読めない異世界文字の羅列だった。
「……文字が、読めねぇ……」
絵本を開いたまま、龍一はベッドの上で深く頭を抱えるのだった。




