2話
人混みに紛れるように無我夢中で走り、入り組んだ路地をいくつか抜けて。
息を切らしながら足を止めた龍一は、目の前の光景に絶望的な溜め息を漏らした。
(マジか……帰ってきちゃったか……)
そこは、つい先ほど途方に暮れて腰を下ろしていた、あの広場の石のベンチの前だった。
水を求めて必死に歩き回ったはずなのに、やはり同じところをぐるぐると回ってしまっていたのだろうか。結局元の場所に戻ってきてしまったのだ。
次に何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか、全く分からない。とりあえず喉の渇きは癒せたが、代わりに体力を消耗したし、状況は何一つ改善していなかった。
どっこいしょ、と重い身体を引きずるようにして、再び冷たい石のベンチに座り込む。
ふと顔を上げると、レンガ造りの建物を照らす光が、いくぶんオレンジ色を帯びてきていることに気がついた。陽が落ちかけているのだろうか。
(……太陽が、あるのか?)
見上げれば、遠くの屋根の向こうに、地球で見慣れたものと変わらない夕日が沈みかけている。
この世界にも太陽、ないしは太陽に相当する天体が存在しているということだろうか。
龍一は改めて思考を整理してみる事にした。
ここは、本当に自分の知っている地球ではないのだろうか? ネット小説やアニメでよくある『異世界転生』とか『異世界召喚』というやつなのか?
わからない。
まず転生だとすると、「なくてはならない」女神様の祝福や、世界の説明が、ない。
「……ステータスオープン……」
僅かな希望に縋ってぼそっと呟いてみたが、当然のように何も起こらない。レベルやチートが仮にあったとしても、確認する術も無さそうだ。
しかし、そんな期待をしない方が良いのだろう。先程の喉の渇き、噴水の水を飲んだという羞恥、そしていまだに消えない頭痛が、自分が生身の人間でしか無いという現実を突きつけてくるのだから。
もしかしたら自分が無知なだけで、地球の裏側――例えばブラジルとかヨーロッパのずっと奥地には、こんな独自の進化を遂げたファンタジーじみた街並みや文化が実在しているのだろうか。テレビのバラエティ番組のドッキリではないか。
現実的な解釈にすがりつこうとする龍一の思考は、しかし、目の前の光景によってあっさりと打ち砕かれた。
(いや……どう考えても異世界だろ、これ)
視線の先では、一本の古びた箒が、誰も手を触れていないのにひとりでに石畳を掃いていた。
サッサッ、と一定のリズムでゴミを集め、まるで透明人間が掃除をしているかのように器用に動いている。中にモーターやバッテリーが仕込まれているようには到底見えない。あれが魔法でなくてなんだというのか。周囲の人々も気に留めている様子すらない。
呆然と眺めているうち、その箒がベンチのすぐ近くまでやってきた。
龍一は半ば無意識に、これが現実なのか確かめたいという衝動に駆られ、スッと手を伸ばしてその箒の柄を掴んでみた。
ピタリ、と。
箒は唐突に動きを止めた。ただの木の棒に戻ったかのように、一切の推進力も振動も感じられなくなる。
「あ……」
その瞬間、周囲の空気がスッと冷えたのを感じた。
通りすがりの人々が、足を止めてこちらを見ている。先ほどの噴水での一件以上に、明確な『ヤバい奴』を見る目だった。親に手を引かれた獣人の子供が怯えたように龍一を指差し、親が慌ててその手を引いて足早に立ち去っていく。
(しまった……!)
我に返った龍一は、顔から火が出るような羞恥と焦りに襲われた。
冷静に考えれば、日本のショッピングモールで一生懸命に床を掃除しているお掃除ロボットを、見ず知らずのいい大人がいきなり抱え上げて停止させるようなものだ。非常識極まりない奇行である。公共の道具に対する器物破損を疑われても文句は言えない。
「す、すみませんっ!」
言葉が通じないとは分かっていても、反射的に日本語で謝罪を口にし、龍一は慌てて箒から手を離した。そして、四方八方から突き刺さる痛いほどの視線から逃れるように、再びあてもなく走り出した。
人混みに紛れるように走り続け、ようやく歩調を緩めたときには、息はすっかり上がり、ジャージの内側にはじっとりと嫌な汗をかいていた。
周囲はすでに夕暮れのピークを過ぎ、空は群青色から深い夜の闇へと沈みかけていた。
日が落ちるにつれて、街は昼間とは違う顔を見せ始めていた。通り沿いや建物の軒先で、ぽつり、ぽつりと明かりが灯り始めたのだ。
「……綺麗だな」
疲労困憊の体から、思わずかすれた声が漏れた。
それは、昼間に大通りで見かけた、空中にふわりと浮遊するガラスのランタンだった。油や薪を燃やしている様子はないのに、内側から淡く温かな黄金色の光を放っている。それが通りに沿って等間隔に並び、幻想的な夜の街並みを照らし出していた。
どういう仕組みで宙に浮き、何の配線もバッテリーもなく光り続けているのか。現代の物理法則をどう当てはめれば説明がつくのか。
(……いや、どうでもいいか。どうせ魔法だ)
龍一は自嘲気味に息を吐いた。もはやこの非常識な世界に対して、まともな考察をする気力すら湧かない。頭で理解しようとするだけ無駄なのだと、心が完全に白旗を揚げていた。
ランタンの美しく温かい光は、帰る場所を持たず、言葉も通じない龍一の絶対的な孤独をより一層際立たせるだけだった。重い足を引きずり、どこへ向かうあてもなく、ただ石畳の上を歩き続ける。
その時だった。
――ギュルルゥゥ……ッ!
腹の奥底で、何かが不吉に捻れるような音がした。
「……え?」
足を止めた瞬間、鳩尾のあたりから下腹部にかけて、焼けるような激痛が走った。
「うっ……!」
思わず両手でお腹を押さえ、その場に立ち止まる。
ただの空腹からくる痛みではない。腸を雑巾のように力一杯ねじり上げられるような、内側からかき回されるような、暴力的な痛み。一瞬にして全身から血の気が引き、額から滝のように冷たい脂汗が吹き出した。
(なんだ、これ……っ、痛っ……!)
ガクガクと膝が震え、立っていることすらできない。
原因は考えるまでもない。
つい先ほど、渇きに耐えかねて飲んでしまったあの小さな噴水の水だろう。
現代日本の、徹底的に殺菌・濾過された清潔な水で育ったひ弱な胃腸にとって、この世界の得体の知れない生水は、毒に等しかったのだろうか。極限の渇きに負けて本能のままに水を飲んだ代償が、今、最悪の形で牙を剥く。




