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3話

「うっ……っ!」

お腹を抱え込んだまま、龍一は苦悶の声を漏らした。痛みの波が押し寄せるたびに、内臓を素手で掴まれているような悍ましい感覚が走る。


(トイレ……トイレ……!)

顔面を蒼白にしながら、血走った目で周囲を見回す。

だが、温かなランタンの光に照らされた美しい石畳の道には、それらしきものは全く見当たらなかった。

日本の街中なら、公園、コンビニ、駅……少し歩けば必ずどこかに清潔な公衆トイレがある。だが、この中世の絵画のような世界には、そんな気の利いた現代的インフラは存在しないのだ。


同じ場所をぐるぐると回っていたせいで、街の地理をまったく把握できていない。それに、もしトイレを示す看板があったとしても、あの象形文字のような文字が読めない以上、見つけることなど不可能に近かった。


(そもそも、こいつらトイレに行くのかよ……!?)

魔法で箒を動かし、ランプを宙に浮かせるような連中だ。排泄という生理現象すら、何か便利な魔法で済ませているのではないか。そんな馬鹿げた疑念すら浮かんでくる。極限の痛みと絶望は、行き場のない理不尽な怒りへと変わりかけていた。


「くっ……!」

容赦のない腹痛の波が、再び龍一を襲う。

このまま立ち止まっていては、確実に最悪の事態を迎える。大勢の人が行き交うこの美しい大通りで『決壊』するなど、人間の尊厳に関わる問題だ。それだけは絶対に、死んでも避けなければならない。

だが同時に、公衆トイレがあるとするならば、それはきっと大勢の人々が過ごす場所だ。


(ヤバい……本当にやばい……!)

額から滴る汗を拭う余裕すらなく、龍一は内股になりながら必死に歩を進めた。

この強烈な波をどうにか一時凌いだとしても、最終的にトイレを見つけられなければ、待っている結末は同じだ。絶望的なタイムリミットが刻一刻と迫っている。尊厳の終わりが迫る。


龍一は決めた。

まずは、まずは誰もいない場所を。

もはやトイレを見つけることは諦めた。一日歩いて目に入っていないのだ。このコンディションでは見つけられないと思った方が良いだろう。今の彼にできる唯一の選択肢は、人目を忍べる『物陰』を見つけることだけだった。

龍一は冷や汗を流しながら、人通りの多い大通りから逸れ、建物の間に挟まれた薄暗く狭い路地裏へと、逃げ込むように足を踏み入れた。


冷たく湿った路地裏を奥へ奥へと進むと、石造りの建物の隙間に、手入れされていない背の高い植え込みがあるのを見つけた。

街灯りのランタンも届かない、完全な死角だ。

(ここは……誰も見てないよな?)

龍一は荒い息を吐きながら、暗がりの中で慎重に周囲を窺った。

人の気配はない。だが、腹痛はすでに限界を突破しつつあった。腸が痙攣し、冷や汗が全身をびっしょりと濡らしている。

(もうダメだ、我慢できん……っ!)

日本の道端で用を足すなど、これまでの人生で考えたこともなかった。だが、今の彼にはもう他の選択肢を思いつく思考力すら残されていなかった。背に腹は代えられない。極限まで追い詰められた龍一は、震える手でジャージのズボンに手をかけ、植え込みの陰でしゃがみ込んだ。


生水を飲んだ代償はあまりにも重かった。

激しい腹痛と共に体力を削られ、激しい悪寒に襲われる。見知らぬ異世界で、言葉も通じず、たった一人でこんな路地裏の暗がりに身を潜めている惨めさ。体調不良と極度のストレスで、龍一の肩はガタガタと情けなく震え続けていた。


その時だった。

「――*******!」

背後から、鼓膜をつんざくような怒声が飛んできた。

ビクッとして振り返ると、暗い路地裏の入り口に、強い光が差し込んでいた。現代の懐中電灯のような、しかし白く冷たい魔法の光源が、しゃがみ込んでいる龍一を真っ直ぐに照らし出している。

逆光の中に浮かび上がったのは、三人組の男たちだった。

全員が統一された革のチェストプレートを身につけ、腰には警棒のような黒く短い武器を提げている。一目で、この街の治安維持を担う警備兵や警察のような組織だと分かった。そして、明らかに怒っている。


(しまった……!)

血の気が完全に引いた。

昼間から奇妙なジャージ姿で街をうろつき、勝手に噴水の水を飲み、あまつさえ公共の魔法道具を力ずくで止めるという奇行を繰り返していたのだ。不審者として通報が入ったと考えるのが自然だった。からのたった今の粗相である。最悪の状況だ。


龍一はパニックに陥り、思わず立ち上がりながら慌ててズボンをたくし上げた。

「――**********!!」

先頭に立っていた男が、腰から警棒のような武器を引き抜き、龍一に切っ先を向けて再び鋭く怒鳴った。

何を言っているのかは全く分からないが、明らかな威嚇と敵意だ。


だが、ここで龍一の脳裏に、日本で生まれ育ったが故の致命的な『甘さ』が鎌首をもたげた。

相手は警察のような公的機関なんだろう。ならば、自分が全く無害であり、抵抗する意思がないことを示せば、取り押さえられた後に事情を話せば、保護してくれるのではないか、と。


龍一は顔を引きつらせながら、手のひらを相手に見せつつ、両手をゆっくりと頭の上に挙げた。

「俺は、怪しい者じゃありません……! 抵抗しません、言葉が分からないんです……!」

懇願するように日本語で叫びながら、逃げずに無抵抗を示す。


――甘かった。


どこまでも、致命的に甘かった。

どうして、何度も同じ過ちを繰り返すのか。

言葉も通じない得体の知れないよそ者が、景観を汚し、不審な動きを繰り返した挙句に路地裏で粗相をしたのだ。何故、無抵抗であれば攻撃されないと思ったのか。何故、ただの不審者を親切に保護してもらえると思ったのか。

何故、この冷酷な異世界で、平和な日本と同じ常識が通用すると思ってしまったのか。


「ガッ……!?」

次の瞬間、龍一の視界で何かが閃いた。

言葉を返す代わりに、男が踏み込みながら振り抜いた硬い警棒が、龍一の側頭部を容赦なく打ち抜いたのだ。

人生で初めて味わう、頭蓋骨が砕けるような鈍い衝撃。

「あ……」

声にならない空気が肺から押し出され、龍一の身体はあっけなく宙を舞った。

受け身をとる暇もなく、冷たく硬い石畳に顔面から叩きつけられる。激痛が遅れて爆発し、視界がぐるぐると意味不明な方向に回転し始めた。

(ああ……俺、バカだ……)

薄れゆく意識の中、血の味で満たされた口の中で、龍一は自分の底抜けの甘さをただ深く後悔した。

暗闇に沈みゆく視界の端で、冷酷な目をした兵士たちがこちらを見下ろしているのを感じながら、彼の意識は完全に途切れた。

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