1話
魔法の世界に、焦がれていた。
絵本の中や、ページをめくる指の先に広がる、あの輝かしい異郷に。「あちら側」へ行きたいと願った夜は、一度や二度じゃない。
でも。
その空想の舞台に立っているのは、いつだって万能な自分だった。特別な祝福を授かり、前世の記憶を持ち、誰も及ばない強さを手にした、選ばれし者。
なぜだろう。どうして、あちらの世界に行けば自分は特別になれると思っていたんだろう。
現実で一度も中心になれなかった人間が、魔法の世界でだけ特別になれる道理なんて、どこにもないのに。
「ここは、どこだ……?」
龍一が乾いた唇から零したその声は、喧騒の中に呆気なく吸い込まれていった。
眩暈がする。足元にあるのは、長い年月を経てすり減り、丸みを帯びた硬い石畳。見上げれば、重厚なレンガ造りの建物が軒を連ね、統一された赤茶色の屋根がどこまでも続いている。遠くの山肌には壮麗な城のシルエットがそびえ立ち、街全体がまるで中世ヨーロッパの歴史映画から抜け出してきたような、荘厳で美しい空気を纏っていた。
だが、そこを行き交う人々の姿は、歴史映画の枠すらも軽々と超えていた。
麻の素朴なチュニックや革のベストを着た恰幅の良い男たち、色鮮やかな染め布を重ねたドレスを揺らす女性たちに混じって、頭にふさふさとした獣の耳を持つ者や、背中に立派な尻尾を揺らす者たちすら、当たり前のように闊歩しているのだ。
「獣……人……?」
思わず呟きながら、龍一は自分が着ている、量販店で買った安物の紺色のジャージを見下ろした。このファンタジーとルネサンスが融合したような世界において、自分の姿がひどく異質であることを思い知らされる。
(直前まで、俺は……何をしてたんだ?)
じわりと、冷たい汗が背中を伝った。自分がどうしてここにいるのか、いくら記憶を遡ろうとしても、直前の出来事がすっぽりと抜け落ちている。
大学へ向かっていたのか、それとも自分の部屋で寝ていたのか。いくら焦って頭を抱えても、濃い霧がかかったように何も思い出せない。気付いた時には、この見知らぬ石畳の上にただ立っていたのだ。
「*******?」
「***********!」
耳に飛び込んでくる人々の会話は、英語でもフランス語でもなかった。発音の法則すら予測できない、全く聞き馴染みのない音の羅列。すがるような思いで近くの建物の看板を見上げるが、そこに彫られているのはアルファベットではなく、象形文字と幾何学模様を掛け合わせたような、全く法則性の読めない記号だった。
言葉も文字も、何一つ理解できない。完全な孤独が、普通の大学生として生きてきた龍一の心を冷たく締め付け、思考を停止させる。
だが、道の真ん中で呆然と立ち尽くしているジャージ姿の青年は、行き交う人々にとってただの邪魔な障害物でしかなかった。通りすがりの獣人や商人たちが、怪訝な顔をして舌打ちをしながら龍一を避けていく。迷惑そうな視線に耐えきれず、龍一は逃げるようにその場から歩き出した。
活気にあふれた大通りは、情報量の暴力だった。
道端の露店には、火も使わずに空中でふわりと浮遊しながら淡い光を放つガラスのランタンや、羊皮紙の上を勝手に滑って文字を書いている羽ペンなど、明らかに魔法としか思えない道具が並んでいる。
別の屋台には山盛りの野菜や果物が積まれていた。遠目には日本のスーパーで見かけるリンゴやほうれん草と同じように見える。
その屋台の前では、犬のような垂れ耳を持つ少年や、肌に細かな鱗を持つ大柄な男が、店主と見慣れない硬貨をやり取りして、リンゴのような物を手に入れていた。
全く別の生態系、全く別の文明。龍一が持ち合わせている日本人的な常識や優しさは、ここでは何の役にも立たないように思えた。どうせ言葉も通じないだろうと、誰かに話しかけることすら出来やしない。
それからどれくらい歩き回っただろうか。
自分がどこにいるのかを確かめたくて、せめて地図のようなものがないかと街中を見回したが、文字が読めない以上、それらしい看板や案内板を見つけることすら不可能だった。
肉体的な疲労と、精神的な重圧。
足が鉛のように重くなり、龍一は広場の端にぽつんと置かれていた石のベンチに、崩れ落ちるように腰を下ろした。
ここは異世界なんだろうか。
夢にまで見た場所なんだろうか、ここが。
わからない。
わからない、が。
「生身で放り出されるなんて……どうしたら良いんだよ……」
目の前を通り過ぎていく街の住人たちの足元をぼんやりと見つめながら、彼はただ深く、途方に暮れるしかなかった。
視界の端で一人の男が立ち止まった。粗末な革のベストを着たその男は、腰から提げていた膨らんだ革袋を傾け、勢いよく中身を煽っている。
ゴクリ、ゴクリと喉を鳴らす音がここまで聞こえそうな様子を目にした瞬間、龍一の脳は急激に自身の肉体の限界を自覚した。
(……喉が、渇いた)
これまで感じる余裕がなかったが、この街の気温はそれなりに高い。が、日本のようにベタつく嫌な暑さでは無い。カラッと乾燥している暑さだ。だからこそ、余計に渇く。
一度意識してしまうと、もう誤魔化しがきかなかった。口の中は砂でも噛んだようにパサパサに乾ききり、舌が上顎に張り付くような不快な感覚がある。息をするたびに、喉の奥がヒリヒリと焼けるように痛んだ。
だが。
どうやって水を手に入れればいい?
自動販売機もコンビニもないこの世界で、喉を潤す手段が思いつかない。そもそも、お金がないのだ。無意識にジャージのポケットを探ってみるが、そこにあるはずのスマートフォンも、数千円が入った財布すらも消え失せていた。今の彼にあるのは、着ているこの服だけだ。
日本の公園にあるような、蛇口をひねれば水が出る水飲み場がないかと、重い腰を上げて再び街を歩き回ってみる。しかし、石畳が迷路のように入り組んだこの異国の街路には、無料で綺麗な水が飲めるような親切な設備などどこにも見当たらなかった。
少しでも水の手がかりを求めて、道沿いの薄暗い店の中を窓越しにちらっと覗き込んでみる。カウンターに木製のジョッキが並ぶ、酒場のような場所が見えた。だが、奥から出てきたエプロン姿の屈強な店主と目が合った瞬間、彼は明らかに龍一の奇抜なジャージ姿を胡散臭いものとして睨みつけ、威嚇するようにバンッと大きな音を立てて木製の扉を閉ざしてしまった。あからさまな警戒と拒絶。異邦人に対する壁の厚さに、龍一はビクッと肩をすくめて後ずさるしかなかった。
逃げるようにその場を離れ、当て所なく歩き続けるうちに、自分がどこにいるのかすら完全に分からなくなってきた。
さっきも見たような気がするレンガ造りの建物。同じような形の看板を掲げたパンのような物を売る店。自分が前に進んでいるのか、それとも同じところをぐるぐると回っているだけなのか、方向感覚が完全に麻痺している。道ゆく人々の見慣れない装束や、飛び交う理解不能な言語が、まるで自分を異物として包囲し、嘲笑っているようにすら感じられた。
「……はぁ、はぁ……」
荒くなる息と共に、ねっとりとした絶望感がじわじわと胸の奥からせり上がってくる。
誰も知らない。誰とも言葉が通じない。そして、喉の渇きという最も原始的な苦痛すら癒やすことができない。このまま誰にも助けてもらえず、異世界の路地裏で干からびて死ぬのではないか。そんな悍ましい想像が頭をよぎり、焦りと歩き回った疲労が、余計に喉の渇きを加速させていく。
ズキ、と。
こめかみの奥で、脈を打つような鈍い痛みが走った。脱水症状の始まりだ。目の奥が不自然に熱くなり、思考がだんだんとまとまらなくなってくる。視界がかすかに揺らぎ、足元がおぼつかない。
(一体、最後に水を飲んだのはいつなんだ……?)
記憶がすっぽりと抜け落ちているせいで、自分がどれほどの時間、水分を摂っていないのかすら分からない。数時間なのか、それとも丸一日なのか。ただ、身体が限界を訴えるアラートを激しく鳴らしていることだけは確かだった。
痛む頭を抱えながら路地を抜けると、ふと小さな広場に出た。先ほどまでの露店が立ち並ぶ大通りとは違い、人通りはかなり少ない。
その広場の中央に、ささやかな石造りの噴水があった。
彫刻の施された注ぎ口から、透明な水がチョロチョロと静かな音を立てて水盤に注ぎ込まれている。水面が日の光を反射して、きらきらと輝いていた。
現代日本の衛生観念が「得体の知れない水は危険だ」と必死に警告する。
わかっている。
しかし。
極限の渇きに悲鳴を上げる本能には勝てなかった。
龍一は周囲をチラリと見回し、人の目を忍ぶように噴水へと近づいた。震える両手を水盤に差し入れ、掬い上げた生温い水を一気に口の中へ流し込む。
「っ……!」
不意に、背後から息を呑むような短い声が聞こえた。
ビクッとして振り返ると、少し離れた場所に買い物籠を持った町人の女性が立ち止まっていた。彼女は、信じられないもの、いや、常軌を逸した狂人でも見るかのような目で、噴水に縋り付く龍一を凝視している。その目は見開かれ、明らかな嫌悪と驚愕が入り混じっていた。
言葉は通じなくとも、その明確な拒絶と軽蔑の視線の意味は痛いほど伝わってきた。
龍一の心は、その視線に耐えきれなかった。濡れた口元をジャージの袖で乱暴に拭うと、弾かれたようにその場から逃げ出した。後ろ指を指される前に、少しでも人混みに紛れるために、ただ我むしゃらに人の多い大通りを目指して走った。




