11話
龍一の徹底した清掃は好意的に受け取られた。
汚れがちだった厨房や、マールたち小間使いの大部屋も、見違えるように綺麗になった。
特に礼拝堂は、ゴルマリーへとアピールするためにも熱心に掃除し、礼拝に訪れた街の住民たちが「最近、教会が明るくなった」と違いに気づくほど磨き上げられていた。
龍一は知らないが、洗剤として使っている「エグアル」とは灰汁、即ち灰を水で溶かした高pHのアルカリ溶液だ。お陰で龍一の手は荒れに荒れ、指紋は消えてなくなったが……些細な問題だった。
その日以降、マールの買い出しの荷物持ちと、教会中の掃除が龍一の毎日の日課になった。
今では午前と午後をフルに使い、二階から一階まで、すべての共用部分をピカピカに磨き上げている。
小間使いたちだけでは手の行き届かなかった部分まで清潔に保たれるようになり、ゴルマリーも悪い気はしていないのか、リューチの食事は他の小間使いと同レベルにアップグレードされていた。
これまでマールがお手製で作ってくれていた(と思われる)味の薄いミルク粥から野菜スープと固いパンになり、量も格段に増えた。
落ちきっていた体力も、掃除という適度な運動と栄養のある食事によって少しずつ戻りつつあり、それによって夜の勉強会の効率も確実に上がっている気がする。
マールは相変わらず色濃い隈を作って眠そうだ……が、毎晩欠かさず部屋に来てくれる。本当に助かっていた。
「マール、ツィ セ……マール?」
夜の勉強会。龍一は本を指差して質問をしようとして、正面に座るマールがうとうとと船を漕ぎ、眠りそうになっているのに気づいた。
「マール、サル スヌ ネファルクスネーヘグ」
龍一はマールのおかげでかなり喋れるようになりつつあった。立ち上がり、コクリコクリと揺れるマールの隣に腰を下ろして、その華奢な背中をそっとさすった。
マールはいつもなら、ここでハッとして目を覚まし、自室へ戻っていくのだが、今夜は違った。
目覚める代わりに、マールの体がグラリと傾き、龍一の肩にコツンともたれかかってきたのだ。
「えっ」
驚く龍一。
自分の肩に、マールの青い頭が乗っている。スースーと、規則正しい寝息が首筋をくすぐった。
よほど疲れているんだろう。
(……いつも、ありがたいな)
行き倒れてから、もう数週間が経ったはずだ。
その間、彼女は文句一つ言わず、こうして毎晩勉強に付き合ってくれている。日中の買い出しや掃除の最中も、龍一の会話に根気よく付き合ってくれた。おかげで、今では単語の羅列だけでなく、短い文章ならかなり聞き取れるようになった自覚がある。
(……なんか、いい匂いするな)
マールの頭がすぐ近くにあり、龍一は思わず鼻を近づけてしまった。
(……なんだろう、これ。香水とか、芳香剤の匂いじゃない。汗臭くもない……なんだか、すごく安心する、いい匂い……)
石鹸の匂いとも違う、日向のような、甘く微かな香り。
龍一は少し夢中になってその匂いを嗅いでしまう。
不意にマールが「んん……」と身じろぎをして目を覚まし、寝ぼけ眼でゆっくりと龍一の方を見上げた。
(やべっ……)
お互いの吐息がかかるほどの至近距離で、藍色の瞳と、龍一の黒い瞳がバッチリと見つめ合う。
「――っ!!」
数秒の硬直の後、マールがカッと顔を真っ赤にして大きく後ろへ飛び退いた。
「マ、マール、トゥートリムディエル!」
変態だと思われたかもしれない。龍一は慌てて謝った。
「ニ、ニィエン、ニーク メルボルプ!」
マールはパニックになったように両手を振り、寝ている間に口元から垂れていたヨダレを袖で乱暴に拭いつつ、弾かれたように立ち上がった。
「ファルクス トゥグ!」
そう早口で言い捨てると、マールは顔を隠すようにして足早に寝室を出て行ってしまった。
(やべー……完全に引かれたか……嫌われたかも……)
ベッドの上に一人残された龍一は、自己嫌悪で深く頭を抱えた。
喉が渇いた。水を飲んで落ち着きたくなり、龍一は重い足取りで階下へ降りた。
すると、厨房の暖炉の前に人影があった。ティミーだ。
彼は大きな鍋を火にかけながら、明日の食事の下拵えをしているようだった。
ティミーとは、というか、マール「以外」の教会の人間とは、誰とも仲良くできていないのが実情だ。彼らはリューチを警戒し、リューチもまた、彼らの冷たい視線に萎縮していた。
お互いに不干渉でいる方が良い。そう思い、龍一はティミーを刺激しないようにコッソリと厨房に侵入し、飲み水を入れた水瓶から柄杓で水を飲もうとした。
だが、その気配に気づいたティミーがこちらを振り返った。
「オ、オラー、ティミー」
龍一は愛想笑いを浮かべて挨拶する。
ティミーはそれには答えず、無表情のまま鍋の横の空の手桶を指差した。
「リューチ。……ロー リム エディブ レッサウ?」
むむむ。よく分からないが、「レッサウ」と手桶を指差していることから、「水を汲んでこい」ということだろうか?
龍一は確認する。
「レッサウ?」
「レッサウ」
ティミーは短く頷いた。
揺れる炎に照らされたティミーの顔を見ると、目の下には深い隈があり、かなりの疲労が見て取れた。彼もまた、睡眠時間を削ってこの教会の胃袋を支えているのだろうか。
龍一は頷き、手桶を二つ掴んで水を汲んできてあげることにした。少しでも役に立てば、関係が改善するかもしれない。
ランタンの微かな光だけでは、中庭は照らし切れず酷く暗い。
龍一は両手に手桶を持ち、暗闇の中で重いポンプを動かしては、厨房へ水を運んだ。
往復すること3回。計6杯目の水を運んで厨房に入った時、ティミーの姿は消えていた。
(あれ? ……鍋の火も消えてる。これで終わりでいいのか?)
ランタンは灯ったままで、あたりは真っ暗というわけではないが、静まり返っている。飲料水の水桶が満タンになったかどうかも、暗くてよく分からない。
少し休憩に行ったのだろうか? あるいは、もう水は十分で、終わりを告げるのを忘れて寝室へ行ってしまったのか?
あるいは……わざと終わりの合図を出さず、永遠に水を汲ませるという嫌がらせか?
分からない。ティミーの真意は分からない。
……が。
龍一は、中途半端に放り出すことが大嫌いだった。
(……意図が分からないなら、やり切ってやるよ、ティミー)
龍一は、ドンッと重い音を立てて満タンの手桶を厨房の床に置いた。
そして、別の空の手桶を両手に力強く掴み直すと、真っ暗な夜の中庭へと再び歩みを進めた。




