10話
「リ、リューチ?ソゥ ツィー ソル?」
門の前に仁王立ちする龍一を見て、マールが困惑したような声を上げた。
当然だろう。まだ薄暗く冷え込む早朝に、ペラペラの寝巻き姿の男が待ち構えているのだから。
彼女が何と言っているのか、正確な意味はわからない。だが、俺がどうしてここにいるのかを尋ねていることだけは察しがついた。
龍一は目の当たりにしてしまったのだ。ゴルマリーとマールのやり取りを。
聞いてしまったのだ。会話の内容はわからずとも、何度も呼ばれる己の名を。
そして、見てしまったのだ。己を救った、マールの涙を。
龍一は己を恥じた。ぬくぬくと勉強ばかりしでいた己を。
理由ははっきりとはわからぬが、マールが泣かされるほど追い詰められている。
自分は行き倒れをマールのように助けられるのか?無理だろう。そんな人を、泣かせているのかもしれない。
龍一は居ても立っても居られなくなって、なんとかしてマールに恩返しがしたくなっていた。
俺は必死に脳内の単語帳をひっくり返し、覚えたての言葉を絞り出す。
「リム!ネフレ!」
言葉だけでは伝わらない気がして、今度は自分の胸をドンと叩き、次に彼女を指差すというジェスチャーを交えて繰り返した。
マールは首を傾げ、少し考え込んだ後、俺の顔を見てゆっくりと言葉を区切った。
「ツフリ ウヅ リム?」
完全に理解できたわけではないが、その仕草と表情で意図は伝わってきた。
「リム!ネフレ!」
俺は文法が間違っていようがお構いなしに、うんうんと力強く頷いた。とにかく、役に立てることをアピールしなければならない。
「アン アイ……」
マールは少し嬉しそうに、けれど困ったような顔をして、俺のペラペラの寝巻きと、治りきっていない傷の辺りを交互に見た。
訝しげな視線。おそらく「怪我をしているのに無理だ」とでも言っているのだろう。腹も肋骨も実際まだ痛むが、ここで引くわけにはいかない。
「アイ!」
俺はこの世界で覚えた「はい」を意味する単語を、やけくそ気味に元気よく発し、さらに大きく頷いてみせた。
が。
(……やっぱりまだ細かい会話は通じない)
マールのジト目からも、そんな諦めの感情が読み取れた気がした。
でも。
彼女は少しの間悩んでいたようだったが、やがて短く息を吐き、足早に建物の中へ戻っていった。そしてすぐに、教会の男衆が着るような大きめのローブを抱えて戻ってくると、俺の頭からすっぽりと被せてくれた。
そして、マールはクイッと、教会の門の外を親指で示した。
「アイ!」
俺は強く頷き、彼女の小さな背中を追った。
◆
マールに連れてこられたのは、活気のある市場だった。
ちょっと前に広場で暴れた「噂の不審者」である龍一が歩いていると、当然ながら周囲の視線が突き刺さる。
マールはある屋台の上で立ち止まった。
「ネグロム」
「オ、マール。ネグロム。……ウヅ ツァ アド レバ ネスレ グヌティエルゲブ イェバド」
顔なじみらしい八百屋のオバチャンが、龍一を見て目を丸くした。おそらく珍しいマールの連れにびっくりしているんだろう。警戒と好奇の混じったその視線に、龍一はなんとなく背筋をピンと伸ばした。
「アイ。レ ギャル ソルツゥーエブ ロヴ レド エッヘリック。……ドゥヌゥー ソゥ ツァー ウヅ エツェーミ トベグナ?」
内容はよくわからないが、マールは龍一の話をサッと流してくれたようだ。マールは店先の野菜へと視線を移した。
そこからは、龍一には理解できない早口の異世界語の応酬が続いた。どうやら値切り交渉をしているらしく、マールの淡々とした口調のペースに、オバチャンが苦笑いしながら追加の野菜をオマケしてくれているのが見えた。
「……エクナド……リューチ」
店主にお礼を言って、振り返ったマールが龍一に声をかける。荷物を持て、という合図だ。
「アイ!」
龍一はオバチャンからずっしりと重い野菜の束を受け取り、持参した大きな麻袋に詰め込んだ。
――その瞬間。
「ぐっ……」
予想以上の重さが腕にかかり、ヒビの入った肋骨と腹筋が悲鳴を上げた。思わず顔が引き攣る。
「……ヤコー?」
痛みを堪える龍一の表情に気づいたのか、マールが心配そうに見上げてきた。
ここが正念場だ。龍一は脂汗を滲ませながらも、無理やり笑顔を作った。
「アイ!」
元気に返事をし、痛む体を叱咤しながら、買い物を続ける彼女の背中を必死で追いかけた。
◆
龍一は額に脂汗をかきながら、教会の厨房へとどうにか辿り着いた。
(……重い。それに、明らかに筋力が落ちてる)
息をするたびに、治りかけの肋骨がミシミシと軋む。
麻袋を厨房の木のテーブルに下ろすと、一気に負荷が下がり、呼吸が楽になった。
「エクナド・ノークス!」
マールが嬉しそうに言う。少し機嫌が良さそうだ。
良かった。荷物持ちがいたおかげで、いつもより早めに買い出しから戻れている気がする。
次は水汲みだろうか。
また重労働だ……と覚悟を決めていると、マールは少し考えた後、一瞬何処かに行き、ボロ布を数枚と箒、さらに空の手桶を渡してきた。
掃除だろうか。
「モック ティム リム」
手招きする仕草からして、「ついてきて」ということらしい。
龍一がついて行くと、中庭にある水汲みポンプの前まで来た。
(……これも金属製だな)
龍一は、鉄製っぽいのポンプの取っ手を見つめた。
これまでこの世界で見た道具の多くは、木製や石のものが多かった。
ただ、夜になると光るガラスのランタンの縁取りや、警備隊の戦士たちが身につけていた装備などは、精巧な金属で出来ていた気がする。
(なんか、チグハグな気がする……)
歴史を自分が知らないだけなのだろうか。
人々の暮らしぶりは明らかに昔、それも地球のヨーロッパ中世〜近世風だと感じる。少なくとも、忍者やサムライが飛び出してくるような東洋の雰囲気はない。
ただ、教会を訪れる町人たちを見ていると、欧風な顔立ちの人間から、アジア風の人間、果ては動物の耳や尻尾を持った獣人まで、さまざまな種族が混在していた。
(魔法がある事で、歴史が変わった世界、みたいな感じか……? パラレルワールド……?)
はっきりとしたことは分からないが、感覚的に、技術発展のバランスがおかしい気がする。
トイレでは水をザブザブと垂れ流しているのに、いまだに地上では手動のポンプで水を汲み上げている。それこそ中庭に清潔な水の噴水を置けば、こんな汲み上げの重労働などなくなり、ずっと楽になる気もするが……。
魔法という便利な力があるからこそ、逆に物理的な技術の発展が特定の分野で抑えられた結果、こんなチグハグな発展具合になっているのだろうか。
考えながら、龍一は重いポンプの取っ手を押し引きし、自ら水を汲み始めた。
なかなかの重労働だ。
なんとか手桶をなみなみと満杯にする。
「ヤコー。モック ティム リム」
様子を見ていたマールが「オッケー」と頷き、厨房へと向かう。
「アイ」
龍一は重い手桶を提げて、その後を追った。
厨房には、暖炉に薪を焚べている男がいた。
痩せ細った背の高い男だ。マールとは異なる、丈の短いチュニックとゆったりとしたズボンのようなものを身につけている。素材はマールの服と同じ安っぽい麻のようだ。
マールがその男に挨拶する。
「ネグロム、ティミー」
「ネグロム、マール」
そして、マールはリューチとティミーに、お互いを紹介するように手を示した。
「ティミー、レ ツィ リューチ。リューチ、ティミー」
「ね、ねぐろむ、てぃみー」
龍一は初対面の相手に対し、覚えたての挨拶を口にしてみた。「ネグロム」は「おはよう」のはずだ。
しかし。
「……」
ティミーは龍一を冷ややかに一瞥しただけで、無視して薪の作業に戻ってしまった。
「ティミー……」
マールが咎めるようにジト目を向ける。
「……ネグロム」
渋々といった様子で、ようやくティミーが低い声で返してくれた。目は向けず、明らかに歓迎されていないことがわかる。
マールは「仕方ないな」というように一つ頷くと、龍一に向き直り、ティミーが作業する暖炉のそばに置かれていた別の手桶を渡してきた。
中には、水のような液体が入っている。ただ、普通の手桶の水とは違い、うっすらと黄色く濁っていた。
マールはそれを指差し、
「エグアル」
と教える。
龍一には分からない。ただ、以前教えてもらった「水」とは違う単語だ。
洗剤か何かだろうか。
龍一はボロ布を手に取り、テーブルの上をゴシゴシと拭く動作を見せると、マールは微笑んだ。
「アーイ! ギスチャー」
龍一は、マールが「アイ!」と言うのが好きだった。
普段のトーンとは違う、少し弾んだハスキーな声が可愛らしく、とても耳障りが良いのだ。
龍一の心に、フツフツとやる気が湧いてきた。
(洗剤みたいなものと、水を使って掃除しろって事だな……よし、任せろ)
龍一は手桶と箒をしっかりと握り直し、強く頷いた。
(床を舐められるくらい、ピカピカにしてやる)




