12話
(意地でも、ここにある全ての手桶を満杯にしてやる)
深夜の冷たい空気が張り詰める中、龍一は重いポンプを無心で上下させ、黙々と水を汲み続けていた。
ティミーの真意が嫌がらせであれ何であれ、関係ない。自分は中途半端に投げ出すのが嫌いなのだ。
ドン、と満杯になった手桶を置き、また次の空の桶を引き寄せる。
「……?」
ふと、教会の外から微かに声が聞こえることに気がついた。
こんな深夜に何だろうか。祭りの名残か、あるいは酒場から追い出された酔っ払いの喧嘩か。
そんなことを考えながらポンプを動かしていると、だんだんその声が大きくなってきていることに気づく。
それは歓声でも怒声でもなく、狂ったような『叫び声』だった。
「……なんだ?」
龍一は不審に思い、手桶を置くと、近くにあったローブを羽織って教会の門へと向かった。
重い木扉をわずかに開け、そっと路地の外を窺う。
「……火事?」
路地の向こう側、建物の屋根越しに、夜空が不気味なオレンジ色に照らされていた。
黒煙がもうもうと上がり、パチパチと木材が爆ぜるような音がここまで届いてくる。
明らかに火事だった。そして、思ったよりもずっと近い。
(……でも、間にいくつか建物や道を隔ててるから、ここまで延焼する恐れはないだろうな)
平和な日本で育った龍一の思考は、どこか楽観的だった。野次馬になって見に行き、言葉も通じないのに変なトラブルに巻き込まれたら厄介だ。
水汲みを続けながら念のため警戒だけはしておこうと考え、門を閉じようとした。
――その瞬間。
路地の先の暗がりに、何かが見えた。
赤く煌々と光る何かが、こちらへ向かって猛スピードで『走ってくる』。
「……は?」
それは、全身が炎に包まれた人間だった。
「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!! ギャア゛ア゛ッ!!」
声帯が焼き切れるような絶叫を上げながら、火だるまの人間がこちらへ向かって走ってくる。
龍一の思考が真っ白に飛んだ。
反射的に教会の中庭へと取って返し、つい先ほど満杯にしたばかりの重い手桶を両手でひっ掴むと、再び門の外へと飛び出した。
火だるまの人間は、教会の少し手前でついに力尽きたのか、石畳の上に倒れ込んでいた。
「クソッ!!」
龍一は駆け寄り、持っていた手桶の水を勢いよくぶっかけた。
ザァッ!! という音と共に大量の白煙が上がる。
(消えたか!?)
しかし。
「――なんでだよっ!?」
火は消えなかった。
水浸しになったはずの着物も、肉も、まるで油でも被っているかのように、異常な勢いで赤い炎を上げ続けていて。人間は地面の上で、ゴロゴロと激しくのたうち回っている。
龍一は教会の中に駆け戻り、ありったけの声を張り上げた。
「ドナメイ! レウエェェェフ!!」
覚えたての異世界の言葉が、夜の静寂を切り裂く。
返事を待っている暇はない。龍一は空になった手桶を放り捨て、中庭に並べていた別の手桶を掴むと、そのまま再度火だるまの人間へ水をかけに戻った。
ザバッ!! と二杯目の水をかける。
だが、火は消えない。それどころか、炎はより激しく燃え上がり、火だるまの人間は先ほどよりも狂ったようにのたうち回り始めた。
「なんでだよっ!? なんで火が消えねぇんだよ!!」
焦燥と恐怖で心臓が破裂しそうだった。
三杯目の水を取りに教会へ戻ると、龍一の怒号で目を覚ましたマールやティミー、そしてゴルマリーらが、寝巻き姿のまま血相を変えて飛び出してきていた。
「リューチ!? サウ――ヒッ!?」
燃え盛る人間を見たゴルマリーが息を呑む。
そこからは無我夢中だった。
龍一らは、何度も教会の中と外を行ったり来たりして、龍一が汲み溜めていた水を次々と火だるまの人間に浴びせかけていく。
騒ぎを聞きつけて、途中から起きてきた周囲の住人たちもバケツリレーに参加してくれるようになり、水をかける速度は一気に加速した。
それでも、その異常な炎は中々消えようとはしなかった。
◆
「……っ、ぁ……」
大量の水と、住人の一人が持ってきた砂をかけられ、ようやく火の勢いが完全に落ち着いた時。
その人間はいつしか悶えることをやめ、地面の上でビクッ、ビクッと激しく痙攣するのみになっていた。
ゴルマリーが祈るようにそばに駆け寄る。
龍一も、手桶を持ったままその姿を直視し――息が止まりそうになった。
全身が完全に炭化し、黒い塊のようになっている。
顔も、目や鼻、口がどこにあったのか分からないほどにドロドロに焼け爛れており、もはや生き物とは思えない凄惨な有様だった。
ところどころ、大量の水を叩きつけられた衝撃で炭化した肌がひび割れて剥がれ落ちており、そこからかなりの量の赤黒い血が流れ出している。
「レンクス!ニエイド エクリック!」
ゴルマリーの悲痛な指示が飛ぶ。
ティミーと龍一がいち早く反応し、その両手足を抱え、まずは住人が持ってきた厚手の布の上に載せようとした。
「――っ!?」
持ち上げようとした瞬間、炭化してプラスチックのように硬くなった肌が、ボロボロと崩れ落ちた。
その下から、焼け煮えた黄色い脂肪と赤黒い筋肉が露出し、ぬるりとした感触が龍一の手に伝わる。肉が崩れて、うまく持ち上げられない。
「あ……ぁ……っ」
あまりの凄惨な光景と、手に残る生々しい感触に、龍一の目からボロボロと思わず涙が溢れ出した。
ティミーもどうしたら良いかわからない様子で、血に塗れた己の両手を見つめて、震えていた。
その様子を見たゴルマリーが半狂乱になりながら何か叫んでいるが、うまく聞こえない。体が動かない。
それなのに。
黒焦げになった塊からの、空気が漏れるような掠れた呼吸音が、やけにクリアに聞こえた。
「コヒュー……コヒュー……」
そしてそれは、だんだんと弱まっていく。
炭化した胸の、僅かな上下の動きが小さくなっていく。
そして……音が、動きが、完全に止まった。
(……し……死んだ……のか……?)
龍一は、力が抜けたように石畳の上にぺたんと尻餅をついた。
(人が……俺の目の前で、生きたまま焼け死んだ……?)
思わず後退りをする。
そして、必死に動いている間は気づかなかったが、鎮火した周囲には、焦げ臭い『焼けた肉と髪の臭い』が充満していた。
「――うっ」
龍一は胃液がせり上がり、思わず口元を押さえてえずく。
だが、ここではいけない気がした。
龍一は少し離れた場所まで走り、吐いた。
震える息を吐きながら、ふと視線を横に向ける。
その先に、マールがいた。
彼女と目が合う。
安っぽい薄手のシュミーズしか身につけていない彼女は、黒焦げの死体とリューチを虚ろな瞳で交互に見つめながら、ガチガチと歯の根が合わないほどに震え、大粒の涙をボロボロとこぼして泣いていた。
「マール……」
龍一はふらつく足で立ち上がり、彼女に近づいた。
「……リューチ……」
焦点の合わない目でリューチを見つめるマール。
少しどうかと思ったが、自分が羽織っていた、血と煙で汚れたローブを脱ぎ、彼女の細い肩にすっぽりと被せる。そして、その傍らに立った。
どちらからともなく、二人は崩れ落ちそうな体を支え合うように、弱々しく身を寄せ合う。
遠くで鳴り響く火災を知らせる鐘の音が、冷たい夜空に不気味に響いていた。




