幼馴染
蝉時雨に暮れなずむ、真夏の夕方の住宅街。沈みかけだというのに、その西陽の威力は止まることを知らず、この盆地に出来た街を焼き焦がしていた。
「煉獄だ……化石燃料の温室効果もついにここまで……」
帰路に着く俺は、ヨロヨロと力なく歩きながら、そうぼやいた。
諸説あるようだが、流石にこの暑さは地球温暖化と言わざるを得ない。そうじゃなきゃこんな暑いのおかしいって。
どうやら、地中に堆積した有機物が、我々人類に燃焼させられることによって温室効果ガスに変容しているようだが、そう考えると過去の地球にいた生きとし生けるものの呪いが現出して、この暑さを引き起こしていると言っても過言ではないのかもしれない。
「空気中にティラノサウルスが浮遊してるって訳か……そりゃアツいな、色んな意味で」
「……また1人でボソボソ言ってる、バカ」
ふと後ろから声がかかり、俺がギョッとして振り返ると、そこには額に汗したポニーテールの女の子が、眉を顰めながら俺を睨みつけて立っていた。西陽にキラキラと光るそのおでこすら、スポーティな印象のこの美少女にかかれば絵になるのだから、美人というのは得な生き物だ。俺が前髪濡らしてたらキモいとしか思われないのに。
「おい急に話しかけんな。あと独り言と知性に相関ないだろ、むしろ独り言ブツブツ言ってるヤツの方が天才物理学者感あるだろ、知性感じるだろ」
「意味わかんないんだけど」
俺の独り言による印象論をバッサリ切り捨てると、安曇野はなぜか俺の隣を並走するように歩幅を合わせてきた。
「……俺と話して良いのかよ、誰かに見られるかもしれないぞ」
「この辺で東高に通ってる人なんて、私とアンタの2人だけよ。近所なら、見られてもそこまで困らない」
「そうか?ついこの間、俺は町内会の問題児を襲名したばっかりな気がするけどな。そんな煙たい存在と、町内会のアイドルが一緒に下校なんて大丈夫かよ」
「いいわよ、別に」
安曇野はそっぽを向きながら、無愛想にそう答える。
「むしろ、引きこもりとして恐れられている近所の問題児をケアしてあげてる、天使みたいな幼馴染にしか見えないわよ」
「打算的すぎるだろそのブランディング、あえてオタクっぽいラノベ原作者と一緒に撮った写真をSNSにあげる若手女性声優くらい悪質だぞ。休日はタトゥー入った地元のヤンキーと江ノ島行ってるくせに、キモオタをダシに使うな」
「意味わかんないけど、それ多分アンタの被害妄想でしょ!?」
俺がオタク業界に蔓延る詐欺まがいの色恋営業に苦虫を噛み潰していると、安曇野は前屈みに呆れたようにムッとした。
「被害妄想?散々俺たちキモオタの気を引いておいて、コッチの勘違いで済ませるつもりか?クソ、俺たちが弱者男性だからってコケにしやがって!今俺のこと笑っただろ!」
「事件起こすタイプの人の発言やめろ!被害妄想はやめて現実に戻ってきなさい!このバカ!」
俺が過去のガチ恋から負ってしまった古傷を思い出して、関係ない安曇野に怒りをぶつけると、彼女は俺を正気に戻さんと頬を強くつねった。痛い痛い、確かに俺が勝手に好きになっただけの被害妄想でした、すいませんでした。
「うぅ……1番悲しいのは、推しの幸せを祝ってやれなかった、己の弱さだ……」
「なに1人で意味わかんないこと言って、1人で打ちひしがれてんの!アンタ今私が側に居てあげなかったら、本当にヤバいやつだったこと自覚できてる!?」
「自覚できてるよ、だから被害妄想で憤慨しないために、3次元に期待するのはやめて、2次元に移行したんだ。さようなら声優さん」
「ヤバい奴がヤバい奴になっただけじゃない!このバカ!」
「なんでそんなこと言われなきゃいけないんだよ。2次元ガチ恋勢をヤバい奴呼ばわりするな、別に安曇野に迷惑かけてないだろ」
ともあれ、有性生殖であるホモサピエンスとして、絶対に子孫を残せない2次元の女の子と結婚しようとするのは、確かに見方によっては、なんなら見方によらなくてもヤバい奴なのかもしれない。え、俺って人類のバグなんですか先祖の皆さん?
などと自分の主張の正当性に疑問符をつけていると、安曇野は呆れたように額の汗を拭った。
「バカ!迷惑に決まってるでしょ!」
「え、なんで?」
「なんでってそりゃ……3次元の女の子と、アンタが恋愛できなくなっちゃうじゃない!」
「なんでそれが迷惑なんだよ。日本の先人たちによって作られた社会インフラへの独身フリーライドを迷惑とするなら、日本の学校教育を受けた育ったのに金持ちになった途端に税金が低い国の永住権獲得して移住する経営者の方がよっぽど悪質なフリーライダーだろ、納税しろ納税」
「そんな小難しい話してないでしょ!もっとこう、常識として、アンタみたいな非モテ陰キャが2次元に逃げたら迷惑だって言ってんのよ!」
はてさて、常識などと言われましても。彼女のような保守的な人は、2次元への恋慕を蛇蝎の如く嫌う傾向にあるが、一様にして根拠が薄弱である。結局、キモいとかいう直感的嫌悪に基づいて否定しているに過ぎないのだ。1番傷つくけどなソレが。
「けど、少なくとも安曇野に実利的な迷惑を与えてはいないだろ」
「与えてるわよ!」
「はぁ?どこがだよ」
「そ、それは……だ、だから!アンタが3次元で恋愛できなくちゃっちゃうからってさっきから言ってるでしょ!」
「それでなんで安曇野個人が迷惑なんだよ」
「だから!そしたら私だって、私だって……バカ!本当にキモい!」
安曇野はその問答に業を煮やしたように俺を罵倒すると、握り拳を作って俺の二の腕をグリグリと抉るように押した。
「え、なに?つまりキモいから精神的に迷惑ってこと?」
「そ、そう!キモいから!キモいから迷惑!幼馴染が2次元と結婚なんて、キモすぎて耐えられないわ!」
それ言われたらもうどうしようもないんだけど。私が不愉快だから迷惑です、という主張があまねく成立してしまったら、もう何も好きになれないではないか。2次元好きなのはキモいからマナー違反って、どんなディストピアだよ。
「その論法だと俺もう八方塞がりなんだけど。誰のことも好きにならずに慎ましやかに土に帰れと?」
「誰もそんなこと言ってないでしょ!3次元で健全に恋愛しなさいって言ってるの!このバカ!」
「3次元の恋愛が健全であるって価値観自体がもう古くさいな。そもそも、俺が3次元の恋愛から降りた理由は、生じるコストに対してリターンの期待値が低いからだ」
「小難しいこと言って、本当はアンタだって現実の女の子と恋愛したいんでしょ?強がってるのがバレバレよ」
「出たよマウンティングだけを目的とした酸っぱい葡萄理論。別にやらなくても、実例として先人たちの屍を沢山見てるんだよコッチは。SNS開きゃ離婚だ浮気だのオンパレード、よくあんなの見てまだ恋愛する気起きるな、意味わからん」
「それはアンタがヒトの不幸ばっか追いかけてる性格サイテー男だから、そういうニュースが目に付くだけでしょ!?幸せになってるヒトだって沢山いるし、私はそういうヒトばっかり見るわよ!?」
「そりゃ生存者バイアスだな。恋愛や結婚が上手くいってるヒトを見て、自分もそうなれると信じて疑わないのはただの驕りだ。初めてできた彼女が、陽キャの先輩にNTRされるとか、精神壊れちゃうよ俺」
「それこそ被害妄想じゃない!さっきからアンタがマイナス思考で3次元の恋愛の幸せを過小評価してるだけでしょ!?出来てもない彼女の浮気なんて心配してる暇があったら、そのシワシワのワイシャツにアイロンかけなさい!」
おい結構クリティカルだったぞ今の。確かに安曇野は生存者バイアスによって、まだ手に入っていない幸福を架空計上しているが、俺は逆にまだ降りかかっていない不幸を架空計上しているきらいがある。死亡者バイアスとも言うべきか、なにその最悪のバイアス、常にゾンビ目線なのかよ俺。
俺が安曇野との難儀なシンメトリー構造にげんなりしていると、俺のワイシャツを引っ張って伸ばしていた彼女が、何かを思いついたようにニンマリと俺を覗き込んだ。
「そんなにウジウジ言い訳するなら、恋愛とか結婚の幸せを体験したら良いわね」
「はぁ、そんなキッザニアみたいに易々と体験できたら良いんだけどな」
「はぁ、しょうがないわね、本当にしょうがない」
安曇野はわざとらしくため息をつくと、その白くて小さな右手で俺のネクタイの根本をガシッと掴んだ。
「しょうがないから!ちょっとだけそういう気分を味合わせてあげる!」
「え、どゆこと?」
「今日、ママがりっくん連れて出かけちゃってて、パパも仕事で帰りが遅いから、家には私しか居ないのよ!私が料理作って、みんなに作り置きしようと思ってたの!」
「そ、そうなのか……」
俺が何を言われているのかよく分からず、苦笑いして首を傾げると、安曇野はむず痒そうに顔を顰める。
「本当に察しの悪いバカねアンタ!だから、特別にアンタを家に招いて、私が料理作ってあげるって言ってんの!本当は嫌なのよ!?けど、マイナス思考でどうしようもないアンタの考えを改めさせるために、仕方なく私が手料理振る舞ってあげて、彼女とか結婚とかの良さを教えてあげるわ!感謝しなさい!」
「いや、悪いだろ流石に、いいよ帰ってゲームするから」
「うるさい!良いから来る!」
安曇野はそう言って俺のネクタイを強引に引っ張ると、自分の家の方へと何故か上機嫌で歩いて行った。
ヒトの家のリビングルームというのは、何やらソワソワして落ち着かないところがある。それが同級生の女の子の家ならば、尚更だ。
とはいえ、幼少期にはここに何度となく招かれた記憶があり、見渡すと当時を想起させられて懐かしく思えたのは幸いだったが。
俺がリビングのど真ん中に据えられている一家団欒用の木製のテーブルの前で、それと同じデザインの椅子に余所者よろしく縮こまりながら座っていると、この家の家主代理から声がかかった。
「今作るから、アンタは座って待ってなさい」
ソワソワと落ち着かない俺の目線の先には、奥の台所でテキパキと準備し、エプロン姿で手を洗っている安曇野の後ろ姿。やはりこうして台所に立つことが多いのだろうか、その手慣れた様子は板に付いていた。
はてさて、どうしてこんなことになったのやら。
「ほ、本当に大丈夫なのか?飯食わせてもらっても、俺お返しとか出来ないんだけど……」
「良いわよそんなの、1人分増えるくらい大したことない」
本当にそうなのか?勝手にヒトの家の冷蔵庫の中身を消費するのはあまり気乗りしないのだが。まぁでも俺も今日は両親いないから、家帰ってもカップ麺だし、ご飯を恵んでもらえるならば甘んじて受け入れよう、などとこすっからいことを考えてしまっていた。
「アンタってアレルギーとか無かったわよね?」
「いや、ファミレスで騒いでる部活帰りの高校生アレルギーならあるぞ。あれ見てると蕁麻疹出そうなほど嫉妬、もといむず痒さがあるな。あと自分のことを華のJKとか言ってる女子高生アレルギーもあるし、それから……」
「うるさい!アレルギー無しで良いわね!」
「はい……」
ピシャリと言い放たれた安曇野の一括に、俺は情けなく意気消沈した。
なんだよ、聞かれたから答えたのに。他にも文化祭アレルギーとか修学旅行アレルギーとか、結構アレルギー持ちなんだぞ俺、繊細なんだぞ俺。高校生なのにここまで青春にアレルギー持ってるのダメすぎるだろ。
俺が手持ち無沙汰でキョロキョロしていると、まな板の音を響かせながら安曇野が背中越しに話しかけてくる。
「どう?もし同棲したり結婚したりしたら、こんな感じでわた……女の子が毎晩料理を作ってくれるのよ?」
「それはヒトによるだろ。家事なんて分担なんだから、俺が料理作るかもしれないし」
少しばかりこの空間にも慣れてきて、俺が頬杖をつきながらそう答えると、安曇野は振り返って目を丸くした。
「アンタそういうところの感性は、意外とマトモなんだ……」
「むしろ俺のどこを見たら亭主関白に見えんだよ、俺は一家の大黒柱にしては頼りなさすぎるだろ。なんなら矢面に立ちたくないから、戸籍の筆頭者とかも奥さんで良いよ」
「やっぱマトモじゃなかった!」
安曇野は呆れたようにそうツッコむと、野菜をトントンと切りながら話を続ける。
「やっぱアンタ本当にダメね。そんな体たらくの癖に、1人で生きていけるワケないじゃない」
「1人じゃねえよ、俺はユナたそと一緒だ」
「それを1人って言ってるの!架空のヒロインを人数に数えるな!この妄想バカ!」
「不躾にヒトの妄想ヒロインを消し飛ばすな!ユナたそは俺の心の中に確かに生きてるんだよ!」
「じゃあそのユナたそとやらは、私みたいにご飯作ってアンタに食べさせてくれるの?生活力皆無で怠惰なアンタの面倒を見て、世話を焼いてくれる?」
そんな身も蓋もないこと言うなよ。俺たち2次元に魅せられたオタクは、その辺騙し騙しやってんだよ。急に現実見せつけてくるな。
俺がモゴモゴと閉口していると、安曇野は得意そうに胸を張った。
「ほーらやっぱり!いくらオタクって言っても、結局お腹は減るし、家事は欠かせないのよ!アンタの好きなキャラクターも、テレビから飛び出してきてアンタの汚い部屋を掃除してはくれないわよ?」
「おい、それ以上はやめろ、俺の作り上げたユナたそとのラブラブ新婚生活が、整合性が取れなくなって世界ごと崩壊するから」
「知らないわよそんなアンタの妄想世界の話は!勝手に崩壊しなさい!」
コイツ悪魔か。この世界の創造主アフラ・マズダーである俺が、破壊者アーリマンである安曇野の現実攻撃に負けてたまるか。絶対に君との居場所は守るからねユナたそ。
俺が自分の妄想世界の再構築のためにイマジナリーをフル稼働させていると、アーリマンはその勢いのまま破壊を続ける。
「結局、アンタが2次元と勝手に結婚しようが、誰もアンタの面倒なんて見てくれないし、それでアンタは困ることになるの!あーあ、どうやって生きていくつもりなの?」
「そ、それは……」
「どうするの?現実でアンタのこと拾ってくれる女神みたいなヒトを探す?アンタみたいなロクでもない人間を、拾ってくれる女の子に心当たりでもあるの?」
「心当たりねぇ……」
俺はそんな安曇野の如何ともし難い追求に、ため息混じりに項垂れた。
確かに、俺が結婚する気があるか否かは一旦置いておくにしても、仮に現実の恋愛をしようと思った時に、果たしてこんな理屈っぽい怠惰人間を拾ってくれる女性などいるのだろうか。
「どうなの?アンタの周りに、土下座すれば面倒見てくれそうで、アンタの嫌なところも全部理解してくれてて、一生そばで寄り添ってくれそうな女の子、いるの?」
「うーん、そもそも俺の場合周りに女の子が……」
ふと、俺はいつもの調子で周辺環境に物理的に女の子が存在しないことを言明しようとして、逡巡してしまった。
つい3ヶ月前までは、確かに俺の周囲には女性の影など微塵もなかったのだ。最後に女の子と喋ったのなんていつだっただろうか、というレベルだった。
しかして、今の俺には周囲に女性がいないと声高に主張して、物理的不可能性を恋愛から遠ざかる大義名分にしようというのは、些か無理があった。
ぼんやりと2人の少女の輪郭が浮かび、慌てて揉み消す。都合の良いことを考えるな俺。
「そ、そうだな……」
「なによその反応、アンタの周りの女の子なんて……」
歯切れ悪く口ごもる俺を見た安曇野は、首を傾げた後に何かに気が付いたみたいに目を見開き、俺と視線が合わないようにフライパンを見つめながらコンロに火をつけた。
「……い、言っとくけど!あの子たちは、アンタのこと最後まで面倒見てくれないわよ!?」
「え、あの子たちって……」
「だから!千曲双葉と立科乃亜!アンタは女の子とお近づきになれたと思って舞い上がってるのかも知れないけど、あの子たちからしたらアンタは都合が良いから連れ回してるだけよ!」
「え、まぁ、そりゃ俺だって分かってるよ……」
「全然分かってない!あんな可愛い女の子たちがアンタみたいな根暗の相手なんて本気でしてるわけないんだから!アンタは人畜無害だし、暇つぶしで引き連れてるだけ!絶対そう!」
「おい、これ以上は悲しくなるからやめろ。女の子との奇跡の邂逅の虚しい現実見せてくるな」
「うるさい!だいたい、アンタがあの子たちに選ばれるなんて、本気で思ってんの!?今はあの子達もアンタのこと面白がってるかもしれないけど、どうせすぐアンタの嫌なところが目について、捨てられるのがオチよ!」
「まぁ、そうだろうな」
「あの子たちは、アンタのことなんて全然知らない!私みたいに昔からの幼馴染じゃないんだから、アンタがどれだけバカでアホでどうしようもないかを知らないのよ!そんな子たちが、アンタの面倒を一生見れるワケないんだから!」
声を荒げる安曇野の前のコンロの火は、その勢いに呼応するように燃え盛っている。肉を鉄板に押し付けるジュージューという音がけたたましく、俺は思わず安曇野の背中に声をかけた。
「あのー、凄い勢いで焼かれてますけど、大丈夫ですか?その肉を誰かに見立てて、あえて焼き焦がそうとかしてませんか?」
「してない!いいから黙って座ってなさい!」
そう言う安曇野は更に強く肉をフライパンに押し付けて、油が勢いよく跳ねる轟音がリビングに鳴り響いた。その威嚇じみたクッキングに怖気付いた俺は、顔を引き攣らせながら小さく座るほかなかった。このヒトの料理番組のアシスタントだけは絶対に嫌だ、ミスったら俺が食材にされかねない。
「……どーぞ」
料理を作り終えた安曇野は、目の前のテーブルにそれを運んできて、鮮やかな食卓を作っていく。シーザーサラダ、オニオンスープ、グラタンにハンバーグ。家庭料理にしてはやけに手が込んでいて、ご馳走の日みたいな様相を呈していた。
「なんか豪勢だな」
「べ、別に普通よ!ただ、今日は食材が結構あったから!たまたま色々作れただけ!アンタが来たからとかじゃないから!勘違いしないで!」
「分かってるよ、誰もそんなこと思ってねえよ」
「さ、いいから冷めないうちに食べなさい!ほら!」
「い、いただきます……」
安曇野がそう急かすので、俺は手を合わせて、オニオンスープをズズッと口に含んだ。
「……どう?」
安曇野は俺の様子をつぶさに覗き込んで、眉を下げながら不安そうに尋ねてくる。
「う、美味い……」
俺は、思った感想をそのまま口にした。いや、マジで美味いぞコレ、それでいていい感じに家庭料理感もある素朴な美味さ。冷房の風を浴びた俺の体に温かいスープがじんわりと染み渡る。
俺が目の前にある食事をムシャムシャと食べ始めると、安曇野は安堵したように表情を綻ばせて、得意げに胸を張った。
「そ、そうでしょ!私がアンタの好みを考えて作ったんだから、当然よ!」
「え、俺の好みになんて合わせられんの?凄いなそんなこと出来るんだ」
ハンバーグが美味すぎて俺が恍惚としながらそう言うと、安曇野はスープを吹き出して顔を真っ赤にしながら手をブンブンと振る。
「ち、違う!別にアンタのために作ったワケじゃない!ただ、アンタの味の好みくらい、幼馴染だから知ってるってだけ!ハンバーグとかグラタンが好きなことは、小さい頃から一緒だから知ってるってだけよ!」
俺がハンバーグやグラタンが好物だったのって、小学生の頃の話なんだけどね。とはいえ、味に関しては文句のつけようもないほど美味いので、そんなことは瑣末な問題にすぎない。
「安曇野ってこんなに料理上手かったんだな。手際も良いし、スーパー女子高生じゃん」
「そ、そうよ!ようやく気が付いたの?私はアンタと違って凄いの!弟の面倒も見て家事も一通りこなせるから、すぐお嫁さんになれるのよ!」
「へー、そりゃ引く手数多だな。よく分かんないヒモ男に捕まって、搾取されるなよ」
「誰が言ってんのよ!そのヒモ男予備軍のくせに!」
え、俺はヒモ男予備軍じゃないですよね?だって夢も持ってないし、女の子の話黙って聞けないし、理屈っぽいし、モテない陰キャだし、ヒモ男に必要な要素を1つも持ってないよ?おい冷静に見たらヒモ男よりダメだろコイツ、ヒモ男にならないんじゃなくて、なれないだけじゃん俺。
俺がそんな自分の情けなさにげんなりしていると、正面に座った安曇野が、顔を赤らめながら俺を伏し目がちに見た。
「そ、その……少しは分かった?現実世界の恋愛の良さ。もし、私みたいな女の子と付き合ったら、こういう幸せが手に入るのよ?」
「うーん、そうだな……」
俺は箸を置いて少しばかり思案し、得意げに尋ねてくる彼女に向き直って答えた。
「コレって、安曇野みたいに家事スキルが高い女の子と付き合えた場合を前提にした幸せだろ?つまり、現実世界で恋愛をすることが、イコールこの幸せが手に入るという等式は成り立たなくないか?安曇野レベルの優良物件と俺が付き合える可能性の低さを考えると、やっぱ現実の恋愛は期待値低いな」
そう言ってオニオンスープを啜る俺を、安曇野は青筋立てんばかりの形相で睨みつけ、テーブルの下で思い切り俺の脛を蹴り上げた。
「いった!おい食事中の暴力は無しだろ!」
「バーーーカ!!!」
そう言ってむしゃくしゃしたように自分の作ったハンバーグを頬張る安曇野の表情は、怒っているはずなのに、なぜか少しだけ嬉しそうに見えた。
俺が料理を夢中になって食べていると、ふと安曇野のニヤついた視線を感じる。
「な、なんだよ」
「アンタって、昔っから全然変わんないわよね。食べる時の嬉しそうな表情とか、小さい頃そっくり。ホント、世話の焼ける子供みたい」
「おい、あんま食ってるとこジロジロ見るなよ、なんか恥ずかしいだろ」
「へー、えへへ、ふーん」
俺が羞恥心から眉を顰めると、安曇野は揶揄うようにニマニマと視線を送り続けてくる。なにこの新感覚SM羞恥プレイ、どうやら俺はこの女王様の嗜虐心をくすぐってしまったらしい。
「えへへ、本当に成長しないわね雄太は」
「いや、めちゃくちゃしてるだろ。ヒゲも生えるしスネ毛も生えるし」
「毛しか成長してないじゃない!あ、そうだ、アンタが子供の頃の写真と見比べてあげる!待ってなさい!」
安曇野はそう言って階段を駆け上り、少し経ってから降りてきて持ってきたアルバムをテーブルに広げた。
「アンタの子供の頃の写真がここにいっぱいあるわよ!今のアンタと見比べてあげる!」
「おいやめろマジで恥ずかしいから、てかなんでそんなモンをスッと出せるんだよ」
「ぐ、偶然よ偶然!ほら!この写真とか、今の情けないアンタの表情にそっくり!」
安曇野が指差した写真を覗き込むと、俺と彼女が仲睦まじく食事をしているところを写したものだった。こんなこともあったのか、幼馴染の彼女と共有した時間はやはり多いらしく、その写真から淡くて懐かしい記憶が断片的に思い出される。
過去というのは不思議なもので、当時は大したことないと思っていた体験だったとしても、今となっては何よりも得難いほどに、胸を締め付ける大切な思い出になっているのだ。美化しているのか、はたまた失ってから大切さに気づくのか、人生経験の少ない俺に、どちらなのかなんて分かるはずもなく。
ふと、ニコニコと話しながら俺に覆い被さるように写真を覗き込む安曇野の首元から、カラカラと乾いた音が聞こえる。
俺は、彼女の胸元から覗いたその貝殻に気が付かないフリをして、恥ずかしさの残る思い出話を、いつぶりかに来た懐かしいこの部屋で、彼女と2人続けた。




