夏休み1
蒸し暑く空気が畝る、真夏の炎天下。
窓の外に見える陽炎の校庭から、運動部の掛け声が小さくこだました。部活に青春を燃やす彼らの躍動を遠くから見下ろして、控えめな冷房の効いた4階の教室で、俺は虚にため息をつく。
同じ箱庭にいるはずの彼らが、何故だか遠くに感じてしまうのだ。あるいは、近くにいるからこそ、余計に遠くに感じられてしまうのだろうか。
『俺と、付き合ってください!』
一点の曇りもない、その真っ直ぐな言葉が、ふと脳裏によぎる。
俺にも、あんな勇気があったならば、何かが変わっていたのだろうか。後悔と呼ぶにはあまりにも熱を持たないそんな感情が、けれども頭の中をグルグルと回り続けて、煩わしかった。
柄にもなく感傷に浸っているのは、この刺すような8月の日光のせいだろうか。あるいは。
「……スター須坂!ミスター須坂!スタンダップリーズ!ヘイミスター須坂!」
朦朧とさえしている俺に、不意に怒号にも似た呼び声がかかった。ハッとして黒板の方を見ると、岡谷教諭が今にも飛びかからん勢いで俺を見ている。
「は、はい!はい!なんでしょうか?」
「なんでしょうかじゃないわよ!次はアナタの番よ!スタンダップ!テキストブックの続き、早くリード!」
うわ、マジかよ、全然聞いてなかったんだけど授業。
校庭を虚な目で眺めていた俺にとって、この授業はとっくの昔に環境BGMに成り下がっており、当然どこを読めば良いかなど皆目見当もつかなかった。
隣の人に教えてもらうか?いや、コミュ障の俺にそんなこと絶対無理だ。知らない人に話しかけるなんて心臓が幾つあっても足りない。
こうなれば、一か八かテキトーな部分を読み上げるしかない。南無三。
「えー、ウィ、ウィーショウルド、ギブ、モア、ソ、ソ、これなんだこれ、ソ、ソウグフト?トゥーザ、グロベルエンビロメント、ビコーズ……」
「はい、発音がバッドすぎてどこをリードしてるかドントアンダースタンドだけど、多分インコレクト。もういいわ、シッダウンプリーズ」
おい読ませるだけ読ませてなんだその仕打ちは。こっちは恥かきながらも頑張って読んだのに、いや確かにテキトーな場所読んだし、ページすら間違ってる可能性あるけど。
俺がその恥ずかしさからシュンと身を縮めて小さく着席すると、隣の男子が俺を見て蔑むように小さく吹き出した。もうやだ、一生学校来たくない。ずっと家でラノベ読んでたい。
しかして、ラノベを始め世の中の2次元コンテンツは、学校空間を美化して描きすぎている。俺たちうだつの上がらない陰キャにとっては、高校なんて青春のせの字もない、こんなどうしようもない瞬間の連続でしかないのだ。
授業終わり、俺は茹だるような暑さの廊下を、干からびかけたミミズみたいにシナシナと歩いていた。このままアイツらみたく、カピカピになって路上で息絶えるんじゃないか?
早々に帰宅したい気持ちは山々だったが、姉から野暮用を託されていた俺は、下駄箱を苦渋の思いで通り過ぎ、部室棟やら体育館やらが集まっている校舎の奥の区画へと向かった。
すれ違う生徒たちは、夏休み真っ最中ともあってこの場所に用のある運動部しかおらず、みんな高校生らしくハツラツとした血色の良いヤツばかりだった。俺のように制服を着たゾンビのような人間は誰1人おらず、なんだか俺だけ浮いているような気がする。
「なんでこんなクソ暑いのにこんな元気なんだよ、代謝機能どうなってんだよ高校生……」
自分が同じ高校生であることなどすっかり忘れて、俺はやつれきった老人のような自意識で顰めっ面を浮かべた。
お目当ての弓道場に辿り着いた俺は、しかしてズカズカと入っていく勇気もなく、入り口付近から中を覗き込むのが精一杯だった。おい明らかに不審者だろコレ、お巡りさん僕じゃないんです。
ふと、覗き魔の俺の目に、部活中と思しき弓道部の女子部員達が何やら談笑している様子が写し出された。
「マナ、今のは良い射型だったわよ」
「ほ、本当ですか!?私、琴音先輩にご指導頂いてから、傾いちゃう癖を治すように意識してみたんです!」
「偉いわね。そうやって鍛錬を絶やさず、実直に自分と向き合っていれば、必ず成果は出るわ」
「はい!ありがとうございます!」
あどけない少女が羨望の眼差しで嬉しそうに頭を下げるのは、しなやかな黒髪を後ろで束ねた、余裕のある佇まいの可憐な美少女。この弓道部の人間関係など一切知り得ない俺でも、彼女がこの共同体のトップに君臨していることは容易に窺い知れた。
その美貌から一際目を引くポニーテールの少女を、周りの女子部員達は酔ったような憧憬の眼差しで見ている。
「こ、琴音先輩!今、お時間よろしいですか!?」
「いいわよ、どうしたのハルカ?」
「わ、私も!しゃ、射型、み、み、見てもらいたくて……」
緊張し切ったその部員が意を決したように頭を下げ、恐る恐る伏し目がちに顔を上げると、その黒髪美少女は余裕そうにニッコリと微笑んで、強張った部員をほぐすようにポンポンと頭を撫でた。
「良いわよ、可愛い部員が向上心を持って取り組んでくれて、私も嬉しいわ、ありがとうね」
おいなんだアイツ、さすがにメロすぎるだろ。
なんだあの少女漫画にしか出てこない憧れの先輩は。レズビアン製造工場になってんじゃねえかここ。
顔を熱らせて弓を構えるその部員の背中に、黒髪美少女はそっと優しく体を重ねる。あまりの百合展開に、しかして俺は食い入るように見つめてしまった。
「ちょっと体が前のめりになってるわね、もうちょっと胸を張って?」
「こ、こうですか……?」
「そうね、そのまま私に体を預けてみて?」
「ふぇ!?そ、そんな!琴音先輩にそんな無礼なこと出来ません!」
混乱したように慌てふためく部員に黒髪の美少女はふっと笑い、その両手のひらで部員の両手の甲をそっと包み込むように掴む。
「気にしなくて良いのよ……そんなふうに緊張してたら、体が強張って姿勢が治せないわ」
「で、でも……良いんですか?」
「当たり前じゃない。ほら、身体の力を抜いて……そうそう、上手ね」
「こ、こうですか……?」
「そう、そのまま私に、背中から寄りかかって……うふ、身体が硬くなってるわよ?」
「す、すいません……」
「良いのよ……しっかり私に身体を預けて?そのままゆーっくり、ゆーっくり……」
『おい貴様!こんなところで何をしている!』
今にもおっぱじまりそうなほど艶かしい雰囲気に、俺がゴクリと生唾を飲み込んで釘付けになっていると、不意に後ろから鋭く声がかかった。
振り返ると、背中に弓を背負った女子部員が、訝しげな表情で俺を睨みつけている。
「弓道場の中を物陰から見つめて、一体何をしていた!」
「え、あ、いや、知り合いに用がありまして……」
「用だと?ならば何故堂々と中に入らず、そんなところでヒソヒソとしているのだ!」
「それは百合が……じゃなくて、こういうところって入るの緊張しません?知らない個人経営の店とかって入りづらいじゃないですか、あれと似たようなもんですよ」
「何をゴチャゴチャと、怪しい奴め!」
俺が弁明すべくタラタラ講釈を垂れると、気にでも触ったのかその女子部員は俺の手首をグッと掴み、物陰から引っ張り出そうとした。
「え、ちょ、なにを」
「こっちに来い!この盗撮痴漢露出魔め!」
「なんだその変態フルコース!何一つとしてやってないぞ俺は!」
「黙れ!お前を今から職員室に連行する!」
「おい冤罪だぞ完全に!断固拒否する!」
電車における痴漢の冤罪も、やっていないという悪魔の証明が難しい以上、駅舎に連れて行かれないことが最も望ましいと弁護士が言っていた。つまり、この場合は職員室に連れて行かれることだけは何としても避けなければならないのである。このままでは推定有罪で変態の烙印を押されてしまう。
「大人しくしろ!この性犯罪者め!」
「人聞きの悪いこと言うな!大体な、法解釈としては有罪判決を受けていない以上、推定無罪が原則だぞ!逮捕されようが容疑者と呼ばれようが、嫌疑がかかっただけの人間に私人が罰を与えるのは唾棄すべき私刑だ!」
「よく分からん世迷言を、往生際が悪いぞ!」
『ちょ、なになにどうしたの?』
俺とその弓道部員が押し問答をしていると、騒ぎを聞きつけた部員たちが何人か入り口から外を覗き込んできた。
「コイツが琴音部長を盗撮していたのだ!」
「だからやってねぇって!そんなに言うなら俺のスマホの写真フォルダ……あ、いや、うん」
俺は身の潔白を証明するために、ポケットから勢いよくスマホを取り出したところで、自分の写真フォルダにエッチな絵のスクショが大量に入っていることを思い出し、逡巡して顔を引き攣らせた。アレ見られるのはそれはそれで嫌だ、恥ずかしくて死んじゃう。
「なぜ今言い淀んだのだ!やはり、何か後ろめたいことがあるのだろう!スマホを見せろ!」
「嫌だ!プライバシーの侵害だ!任意ですよね!?逮捕状持ってこい逮捕状!」
「スマホを見せられないということは、自分が琴音部長を盗撮したと白状しているようなモノだぞ!おのれ、我々の敬愛してやまぬ部長を辱めること、万死に値する!」
「確かに、副部長の言う通り、スマホ見せられないって怪しいよね」
「てことは、コイツマジで琴音先輩の盗撮魔じゃん、キモ……」
「いやマジで違うって!休日にわざわざ関係ない女子高生の部活の大会に入り込んで、一眼で動画撮ってるオジサンと一緒にするな!」
しかして、俺を見る弓道衣姿の女子生徒たちの視線はとても冷ややかで、俺の必死の弁明は無惨にも夏空に虚しく響き渡るばかりだった。
あー、俺の人生ここで終わったなー。何もしていないのに、キモかったからという理由であらぬ濡れ衣を着せられてしまった。不快というお気持ちと、それに扇動された大衆心理で不法に個人を裁く昨今のSNS社会よ、これで満足か?
「もう、なんの騒ぎ?そろそろ片付けの時間……」
俺が天を仰ぎ、神などいないことを悟って暑さに憔悴していると、女子生徒をかき分けて部長と思しき黒髪の美少女が出てきて、俺を見るなり目を泳がせて慌てふためいた。
「な、なな、なんでアンタがここに居んのよ!」
顔を真っ赤にして狼狽する彼女の姿に、周りの部員たちは困惑したような表情を見せた。
安曇野琴音は、先程までの余裕を醸し出した佇まいから一変して、視線を右に左に忙しなく移動させながら腕を組む。
「え、琴音先輩、このヒト知り合いなんですか?」
「ま、まぁ、知り合いっていうか……ただの腐れ縁よ!」
「そ、そんな……この下心しかない目線を湛えた不埒な男と、お知り合いだというのですか部長!」
誰が下心しかない目線を湛えた不埒な男だ、俺がSNSでコスプレイヤーさんを見るアカウントと、イラストレーターさんの神絵を見るアカウントを分けていることは、アンタには関係ないだろ。
「だから、このバカが何もできないダメ男だから、ほっとけなくてちょっと面倒見てあげてるってだけよ!幼馴染だから!しょうがなく付き合ってあげてるだけ!」
「付き合ってあげてるって……部長はいつも、男性からの度重なる告白を退けているはずです!最近だって!サッカー部のエースや、バスケ部主将の3年の先輩からの告白も、断っていたじゃないですか!なのになぜ!こんな男と!」
「ちょ、勘違いしないで涼子!私はコイツと今は付き合ってない!さっきのは恋人とかって意味じゃなくて、面倒みてあげてるって意味よ!」
「けれど、恋慕を寄せる数多の男性を、部長は何の躊躇もなく切り捨ててきたではありませんか!」
「そ、それは……その人たちにはあんまり興味なかったから……」
「そうです!部長はどれだけ顔貌が整っていたり!女性たちからの歓心を集めていたり!勉強やスポーツに秀でた男性であっても!交際をする気さえ微塵も感じさせなかったはずです!」
副部長と呼ばれているその少女は、まるで安曇野を説得するかのような勢いで、飛びつくように彼女の両肩を掴んだ。
「部長!あなたは、男性に興味がないはずです!」
「そこまで言ってないわよ!」
「では、なぜあんなにも優秀な男性たちを、何度となく振ることが出来たのですか!?男性に興味がないと考えなければ、辻褄が合わない!」
「だいぶ曲解よソレ!話が飛躍してる!」
「ではなぜ!これほど機会に恵まれていながら、恋人の1人さえ作らないのですか!」
副部長のその問いに、安曇野は少し逡巡した後に、顔を赤らめて視線を逸らしながらボソッと呟くように言った。
「その……事情があんのよ、面倒くさい事情が」
「そ、そんな……」
安曇野の表情を見て、副部長は落胆したように項垂れる。その目は酷く虚で、生気がこもっていなかった。
この視線、なんか知ってるぞ。よく分からんが、どうやら俺は少し特殊な失恋の現場に立ち会ってしまったらしい。
「と、とにかく!コイツは私の知り合いだから!みんな気にしなくて良いから!ほら、片付けするわよ!」
安曇野は仕切り直すように手をパチンと叩いて、他の生徒の背中を押して弓道場に戻るように促した。部員たちが片付けに着手する中、安曇野はそそくさと俺の傍まで来て、コソコソと耳打ちする。
「とりあえず、片付けが終わってみんなが帰るまでここで待ってなさい!このバカ!」
今の俺のどこにバカの要素があったのか分からないが、差し当たって彼女の言う通り、俺は弓道場の隅っこの方でスマホを弄りながら待つことにした。
ふと、帰り支度を整えている部員たちの小さな談笑が聞こえてくる。
「今日の琴音先輩、いつもと全然違くなかった?」
「それウチも思った!あんな取り乱してる琴音先輩、初めてみた」
「なんか、いつもはカッコよくて憧れって感じだけど、今日はめちゃめちゃ可愛かったよね!あんな乙女っぽい感じの表情するんだ!」
「だよね!いつもの琴音先輩も素敵だけど、あの感じも破壊力エグかった!なんか新しい扉開きかけたもん」
おいサラッと新たな百合展開を匂わせて来てんじゃん。なんだこの魅惑的すぎる女の園は、頼むからずっと男子禁制であってくれマジで。
「けど、琴音先輩、明らかにあのヒトが来てから様子変わったよね」
「それな、てことは、あの人が琴音先輩の?」
「えー……」
おいマズいぞ、百合展開に男は要らないんだよ。
じゃなくて。俺みたいな人間と噂を立てられてしまうのは、安曇野の沽券に関わる問題だ。特に、世間体を気にする性格の安曇野にとって、これは死活問題である。どうする?意図的にキモいムーブをかまして、暗に安曇野との関係の線を切るか?
安曇野との関係性を変な方向に紐付けさせないために、俺がとりうる行動をはじき出さんと思案していると、ヒソヒソと話していた女子部員たちが肩をすくめて鼻で笑った。
「いや、ないでしょ」
「それな、だってキモいもん」
あー、そんな心配する必要ありませんよね、完全なる杞憂でしたわ。
どうやら彼女たちは、俺が意図的に激キモムーブをかますまでもなく、勝手にキモいと判断したらしい。ちなみに今の俺は普通にしているだけで、全然意図的にキモくしようとか思ってません。どんだけキモいんだよ俺、キモのギフテッドか、なにその要らなすぎるギフテッド。
俺はそんな自己の評判の悪さに嘆息しつつ、しかして安曇野の評判を下げずに済んだことに、なんとなく安堵していた。




