薔薇
「……さま! 品子さまっ!」
私を呼ぶ声で目を覚ますと、スズさんが心配そうにこちらを見ていた。
身体は汗をかいていて、心臓は今もどきどきとしている。
「大丈夫ですか……? ひどくうなされていたので、お声をかけさせていただきました」
手をあてて、胸の鼓動を確認する。どこからも血は出ておらず、もちろん痛みも感じなかった。
そしてここはお庭ではなく、緑麗荘のベッドの上。
また、あの時と同じ夢をみたのだろう。細かな部分までとても現実的で、起きても忘れられない不思議な夢──……。
「品子さま……?」
「ごめんなさい、怖い夢をみていて……起こしていただいて、とても助かりました。ありがとう」
「とんでもありません。こちらでお身体をお拭きください」
スズさんは手際良く濡れた布巾を用意して、私に差し出してくれた。
「きっとまだお疲れが残っているのですね。どうぞ今日も無理なさらないで……食欲はございますか?」
「ええ──……でもあの、朝食をいただく前に少し、お庭をお散歩してきても構いませんか?」
確かめたい──今みた夢が、ただの夢でしかないのだと。
先ほどの夢に出てきたような美しいアーチや赤い花は、緑麗荘の正門から見える庭園には見当たらなかった。昨日、スズさんにお庭を案内してもらったのでよく覚えている。
けれど昨日私が訪れていない東側のお庭部分──もしかしたらそこに、あの赤い花が本当に咲いているのかも……そんな不安が拭えなかった。
この目で実際に見て安心したい。以前の夢と現実の奇妙な符合は、ただの偶然に過ぎなかったのだと。
『……──この庭園はご当主のお気に入りなんです。ご自身で造園を取り仕切られたんですよ。ですが今後は品子さまに一任するので、好きなように手を入れて構わないとのことでした』
『それは責任重大ですね、屋敷の正面玄関ですもの』
『あまり深くお考えなさらずに……もしお好みの庭木などがありましたらお教えください。庭師に申し伝えますので』
『わかりました。気候の良い日なんかにこのお庭をお散歩したら、とても気持ちが良さそうだわ」
『ご当主がお喜びになられるお言葉かと。ただその──……」
『その──?』
『その……東側にも庭園があるのですが、しばらくの間はそちらにはお立ち寄りなさらないほうがよろしいかと──……』
『──……?』
『ええと……そちらの庭園は、しばらく手入れをしていないもので──……征之介さまに確認をしてから、またご案内いたしますね』
昨日、スズさんがお庭を案内してくれた時のことを思い出す。
少し言葉を濁すようなスズさんの口ぶりが、どことなく気にはなっていた。
スズさんは庭園と言っていたから、中庭にあるのではないはずだ。私は屋敷を出て、こっそりと東側へ向かった。昨日の会話の手前、堂々とお庭に入るのは気が引けてしまう。
そうしてどうにか誰にも会わぬまま、屋敷に沿って東側に折れた時──私の眼前には、あのお庭が広がっていた。
足元を見ると、柔らかい芝生が敷かれている。アーチには蔦が絡まり、咲き乱れる花々と漂う香り──……。
五感が告げる既視感に、私は認めざるを得なかった。私はここに足を踏み入れたことがあるのだと。夢にでてきたお庭は、ここに間違いないのだと。
東側のお庭は夢での印象よりもややこじんまりとしていながら、夢の通りにとても美しい。スズさんはしばらく手入れをしていないと言ってはいたけれど、とてもそうは見えなかった。
私は夢と現実との符号が、いよいよ恐ろしくなってきた。征之介さんが現れ、夢とそっくりな部屋で暮らすことになり、今度はこのお庭だ。
いったい私はどうしてしまったというのだろう。
理解が追いつかず混乱したままに、私の足はお庭へと歩み始めた。
そう、夢でもこんなふうに歩いていたのだ。花の香りに導かれるように、自然と足が動いてしまって。
そしてお庭の中ほどで、私はあの花を見つけてしまった。
幾重にも重なる天鵞絨のような花びらと、梅や椿とも違う深い赤色が目を惹くあの花だ。
夢と変わらず、その花は気高く美しく咲いていた。
触れてみたい──。
私はかがみ込んで、その花を見つめた。
深い赤色は、私の周りのどんな赤とも違った。婚約を告げられたあの日に見たお母さまの口紅とも、夢の中の私の血の色とも違う。
人を惹きつける、美しい赤──。
私は今度はためらわずに、その花に手を伸ばした。もしも夢の出来事のようにいつか息絶えてしまうならば、今触れておきたいと思ったのだ。
そっと優しく花を撫でると、その花びらは天鵞絨よりも柔らかく、そして温かく感じた。私の掌にすっぽりとおさまってしまうくらいの大きさで、小づくりではないけれど繊細さがある。
何という花なのだろう──。
そんな夢と同じ疑問が湧いた時、背後から私を咎める大きな声がした。
「──何をしているのですか!」
私は驚いて、慌てて花から手を引っ込めた。
振り返らずともわかってしまう──声の主は征之介さんだ。
先ほどの夢が思い出されて鼓動が早くなり、思わず胸元に手を当ててしまう。大丈夫、胸から血など出ていない──……。
それなのに、私はすぐに振り向くことができなかった。
いけない──すぐに立ち上がって、征之介さんに謝らなくてはいけないのに。
謝る──? 何を──? 勝手にお庭に入ったこと、お花に触れたこと、あんな失礼な夢をみてしまったこと──。
けれどもし──もしも振り返って、征之介さんが夢と同じように拳銃を構えていたりしたら──……。
私はどうにか立ち上がろうとしたけれど、焦りと混乱の中で、くらくらと後ろに倒れかかってしまった。
ああいけない──……。
けれどその時私の身体が地べたに着く前に、征之介さんの大きな掌が私の右の手首をひしと摑んだ。
おかげで私は左手を地べたにつけて体勢をとりなおし、はしたなく転ぶことを免れた。
「ありがとう、ございます──……」
ようやく征之介さんに向き直ると、征之介さんはなぜかひどく複雑そうな顔をしていた。
夢の中の辛そうな顔ともまた違って、眉間を寄せて自省しているような、失敗を犯してしまったような面持ちだった。
征之介さんは、何も言わずに私を見つめる。
そして私を握る掌に、ぐっと力が入った。
夢の中でも思ったけれど、征之介さんの掌はなんて大きくて力強いのだろう。私ではとても敵わない──。
「……っ!」
けれど手首に痛みが走り私が顔を顰めると、征之介さんははっとしてすぐに手を離した。
「……申し訳ありません」
「いいえ、あの……助けていただき、ありがとうございました。それからその……勝手にお庭に入ってしまって、申し訳ありませんでした」
私は立ち上がって、征之介さんに頭を下げた。
征之介さんは、掌に拳銃など持っていなかった。それどころか、私を助けてくれたのだ。
不思議な夢に振り回されて、失礼な態度を重ねてしまったことが恥ずかしくなる。
「この花は──……」
征之介さんは私から顔を逸らすと、足元の花に目をやった。
「この花は茎に棘があるのです。ですから、無闇に触れてはいけません」
「棘が……?」
言われてよく見てみると、確かにその茎には無数の棘が突き出ている。美しい花に目を奪われて、茎までしっかりと見ていなかった。
「……指先を、見せてください」
「えっ?」
征之介さんがそう言うので掌を開くと、人差し指の先に赤い線が入っていることに気がついた。
「棘で切ってしまったんでしょう」
征之介さんは着物の袖からハンカチを取り出して、私の手を取り指先にあてた。
先ほど手を引いた時にでも、棘に当たってしまったのだろうか。痛みにも気がつかないでいたけれど、傷を目にしてしまうとずきずきと痛みが走った。
「あとできちんと手当てをしてもらってください。それまでは、これで血を抑えて」
征之介さんは、ハンカチで指先をぎゅっと抑えた。
「本当に……ありがとうございます。この花があまりにもきれいだったので、つい触れてしまって──……申し訳ありません、ご迷惑とお手間をおかけいたしました」
私がそう言うと、征之介さんは手を離した。
そして今度はかがみ込んで、あの花を見ながら続ける。
「この花は舶来品で、薔薇という名だそうです。この美しさゆえに、身を守るためこのように棘だらけなのだとか」
「薔薇……これが薔薇という花なのですね。先だっての博覧会での人気は耳にしております。噂に違わぬ美しさですね」
「ええ、美与子が……妹が博覧会で気に入って、伝手をたどってこの苗を手に入れたのです。よくここで水やりなんかをしていました。妹はこの庭を好んでいたものですから──……」
征之介さんは立ち上がると、私を屋敷のほうへと促した。
「……申し訳ありません、少し喋りすぎました。では、もう戻りましょう。朝食の時間です」
美与子さんの話をする時の、征之介さんのお顔は見られなかった。けれど薔薇を見つめて話す口ぶりは、いつもよりもふわりと優しく感じられた。
「はい。あの、征之介さん……この花の名前を教えていただき、ありがとうございました。とても気になっていたのです。こんなに気高く美しい花は、初めて見たものですから──……美与子さんがきっと、丁寧にお世話されていたからですね」
この東側のお庭を見るに、美与子さんは植物がお好きだったのだろう。あちこちに思うがまま、好きな花や木々が植えられている。正門の庭園とは異なり、見栄えよりも好みを優先させたのではないかと思う。
花と香りに溢れるこの庭からは、どことなく美与子さんという女性の人柄がうかがえた。
私は名残惜しくて、最後に一度薔薇の花を振り返った。やはり、とても美しい赤をしている。
そうだ──博覧会で持ち込まれた苗が、もしかしたら植物園にも移されているかもしれない。もしくはお父さまにお願いして、どこかで苗が手に入らないか聞いてみよう──。
「……薔薇の花が、気に入ったのですか?」
前を歩く征之介さんは、振り返ることなくそう言った。
「ええ、とても。それにこのお庭全体が、とても好きになりました」
「そうですか──……この庭にも、好きに立ち寄ってくれて構いません。ただ、棘で怪我をしないように気をつけていただければ」
「えっ……よろしいのですか?」
ここは美与子さんが大切にされていたお庭であり、きっと征之介さんはあまり他所者を入れたくなかったのだろう。だからスズさんはあんな言い方をしたのだ。
そんなお庭に、私ごときが再び足を踏み入れてもいいのだろうか。
「……ここはもう、あなたの家でもあるのですから」
征之介さんはそう続けて、少し早足になった。
またこのお庭に来ることができる──それはとても嬉しいことだ。
緑麗荘のことを、ますます好きになることもできた。
けれど、私の中の疑問はさらに深くなっていく。このお庭にたどり着きさえすれば、夢は夢なのだと安心することができると思っていたのに。またしても、夢と現実が奇妙に符合してしまった。
前を行く征之介さんの背を見ながら、私は夢の正体に思いを巡らせる。
そして征之介さんが私の手首を摑んで助け起こし、傷口を労ってくれた時のことを思い出した。征之介さんは、優しい人には違いないのだ──。
けれどそうして征之介さんの後ろ姿を見ていた時、私はあることに気がついた。
征之介さんは、淡い色の薄手の着物を着ていた。その着物の袖に、何かを入れているように見えるのだ。
先ほどハンカチを取り出したそこには、まだ何かが入れられている。男の人が、着物の袖に物を入れることは一般的だ。けれど私が気になったのは、その《《何か》》の色と形だ。
黒い色に機械的な形状で、掌ほどの大きさのそれが──まるで、拳銃のように見えたのだ。
私の心の臓が早鐘を打ち、頭の中が再び混乱していく。
征之介さんは、なぜ袖に拳銃なんて入れているのだろう。そもそもなぜ、征之介さんはあのお庭にいたのだろう──……。
夢と現実が、交互に浮かぶ。
いいえ、あれは拳銃などではないかもしれない。きっと全ては私の思い過ごし──……。
私ははやる心臓を抑えながら、征之介さんが貸してくださったハンカチをぎゅっと握りしめた。




