幽影
私はそれから、スズさんに緑麗荘の案内をしてもらった。
立派な応接間、美しい庭園、眺めの良いバルコニー……緑麗荘はどこをとっても素敵だった。
ここを自宅だと思えるほどには、まだ馴染めてはいない。けれど、私はすっかりこの洋館が好きになった。
「あの……品子さま」
案内が終わると、スズさんは言いづらそうに切り出した。
「今夜はどちらでお休みになられますか? 品子さまのお部屋か、ご夫婦のお部屋か……」
そういえば、夫婦の寝室は別に用意があると言っていた。
「……征之介さんは何て?」
「品子さまのお好きなように、と仰っておりました」
私たちは婚約中の身ではあるけれど、まだ正式な手続きは終わっていない。
少しでも早く話を進めたいからと、征之介さんが私を呼び寄せたのだと聞いているけれど──征之介さんが好きなようにと仰るなら、少しだけ我儘を聞いてもらえるだろうか。
征之介さんと一緒に過ごす時間はもう少し欲しいとは思うけれど、まだ夫婦として過ごす気にはなれなかった。
「では、今晩も自室で休ませていただいても……?」
「かしこまりました。では、そのように準備いたします」
「ありがとう。あの、それからスズさん──……」
「なんでしょうか」
私は、スズさんに美与子さんという方について聞いてみようかと思った。
けれど今朝の征之介さんの様子を思い返すと、その質問を口にすることができない。
「その……お夕食が楽しみだなって」
美与子さんというのはきっと、征之介さんにとって大事な人なのだ。
こうして陰で人に聞くのは、あまり良い気がしないだろう。
「夕食には和食をご用意しております。征之介さまが、品子さまは和食のほうが慣れておいでだろうからと」
「征之介さんが……?」
今朝の会話で料理の話をしたからだろうか。
こちらで食べる料理はどれも美味しいので、私は本当に洋食でも和食でも構わなかった。けれど征之介さんの気遣いはとても嬉しくて、私はお夕食が尚のこと楽しみになった。
お夕食の席に現れた征之介さんは、今まで以上に口数が少なかった。
「こちらのお吸い物は、お出汁がよく効いていてとても美味しいですね」
「それは何よりです」
「士官学校はいかがでしたか?」
「特に変わりはありません」
「明日もお出かけされるのですか?」
「はい」
「──……」
「──……」
お返事はしてくださるけれど、一向に会話が続かない。
私と征之介さんとの間には見えない線がくっきりと引かれていて、とても距離が縮まるとは思えなかった。
けれどこのままの距離を保っていては、私は何も知ることができない。征之介さんの気持ちも、幸せな結婚生活というものも。
「……征之介さん。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
私は今朝からずっと気になっていた、あの問いを投げかける。
「──……美与子さんというのは、どなたなのでしょうか」
私が美与子さんと口に出した時、部屋の空気に緊張が走った。
ちょうど給仕をしていたスズさんの身体が一瞬こわばる。
そして征之介さんは食事の手を止めて、なんとも言えない表情をした。悩ましげであり、悲しそうでもあるお顔だ。
そのお顔を見て、私は聞いてしまったことを少し後悔した。けれど、このまま知らずに過ごしていくのも嫌だったのだ。
「──……美与子は…………」
征之介さんは、答えるべきか否か迷ったようではあったけれど、深い息を吐いてから言った。
「……美与子は、私の妹です」
「妹……さん?」
征之介さんが次男であり、お兄さまがいるというのは聞いていた。けれど、妹さんがいるというのは知らなかった。
藤峰家に娘さんがいるという話も耳にしたことがなかったので、私はてっきり二人兄弟なのかと思っていたのだ。
「妹は生まれつき身体が弱く、ほとんど家から出ることがありませんでした。公の場に出ることもなかったので、妹の存在を知る人は少ないのです──とは言え成長するにつれ体力もつき、少しずつ外にも出られるようになってはいたのですが──……」
そして征之介さんは、さらに苦しそうに顔を歪めた。
「仔細あって──……昨年、息を引き取りました」
私は思わぬ出来事に息を呑んだ。
スズさんが言っていたご不幸とは、美与子さんが亡くなったことだったのだろう──……。
「……他に、何かお聞きになりたいことは?」
「申し訳ありません……私、なんて配慮のないことを──……」
美与子さんが亡くなられて、征之介さんはどれだけ悲しい思いをされたのだろう。美与子さんの話をしている時の表情から、それが深く伝わってきた。
きっと征之介さんは、美与子さんのことを思い出すことも辛いのだ。
「……いいえ」
征之介さんは、謝る私を見て首を振った。
相変わらず目線は合わないけれど、征之介さんの声はまっすぐ私に向かっていた。
「──……あなたは、何も悪くありません」
あなたは何も悪くない……その言葉は、私にあの夢を思い起こさせた。
──すまない……君は、何も悪くないんだ。
夢の中のあの台詞と、よく似た征之介さんの言葉。
低く絞り出すような、苦しそうな声。そして今にも涙が溢れそうなお顔──夢の中の征之介さんと、目の前の征之介さんが重なって見えた。
そっと首元に手を当てて、夢の中の征之介さんに問いかける。
私が何も悪くないと言うのなら、あの時なぜ私の首を絞めたのですか──?
目の前の征之介さんは、青い顔をして立ち上がった。
「──申し訳ありません。所用を思い出したため、先に部屋へ戻らせていただきます」
「いいえ、あの──……」
「どうぞごゆっくり召し上がってください」
征之介さんは、また私の顔を見ずに去っていく。
なぜ、あなたは私をここに呼んだのですか──?
美与子さんの死が、何か関係しているのですか──?
疑問ばかりが私の中に積もっていく。
明日か明後日か、それとも明々後日かその先か──私は答えを得ることができるのだろうか。




