月夜(二)
どきどきと、騒ぐ心臓に手を当てる。
大丈夫──……このまま静かにしていたなら、征之介さんは私が寝ていると思うだろう。
征之介さんはそれきり黙っていたけれど、特に去っていく足音はしていない。
私は本当に寝てしまえないかと、そっとベッドへ横になることにした。
音を立てないように椅子から立ち上がり、静かにベッドへ移動──したつもりだったのだけれど──……。
がしゃん、と大きな音を立てて、机に乗っていたガラス瓶が横に倒れた。
食後にスズさんが持ってきてくれた冷たいお水だ。
「──……何事ですか? どうかされましたか?」
扉の外から征之介さんの怪訝な声がした。
机をつたって、お水がぽたぽたと垂れていく。
もう寝ているふりは難しい。
「…………失礼いたしました。お水の入った瓶を倒してしまって──……少々お待ちいただけますか?」
「お怪我はありませんか? 誰か人を呼んでまいります」
「いいえ! 怪我はありませんし、拭けば済むことですから……どうぞお気遣いなく」
こんな時間にお掃除の人を呼び出しては申し訳がない。
月が輝くほどに、もう夜も遅いのだから。
私は布巾で机を拭き、ガラスにひびが入っていないことを確認すると扉へ向かった。
そしてどうにかドアノブに手をかけたけれど、その時ふいに征之介さんが口を開いた。
「お身体の具合は、いかがでしょうか」
「えっ……と……まだあまり、気分が優れなくて──……今日はご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
顔を合わせず扉越しの会話だからなのか、私はすんなり征之介さんと言葉を交わすことができた。
「迷惑だなんてとんでもありません。こちらの都合で進めてしまったものですから……心身お疲れのことと存じます」
征之介さんの声は、私を労るように落ち着いている。夢の中の苦しそうな声とは全然違う。
「本当に──夜分遅くに失礼いたしました。どうぞ回復されるまで、ゆっくり身体をお休めください。明日もどうぞ無理のないように」
扉も開けずに失礼を重ねているのは私のほうなのに、征之介さんは私を咎めない。
「申し訳ありません……」
私は重ねてお詫びした。
征之介さんは私を気遣ってくれているのに、私の手はドアノブを握りしめたまま固まってしまって、依然として扉を開くことができずにいる。
「──……? 何がです?」
征之介さんが、私の謝罪の理由を問う。
夢の中で首を絞められたので怖くて会うことができない、なんて……まさかそんなことを口に出せるはずもなく、征之介さんも私がそんなことを思っているなんて考えてもいないだろう。
「あの……何かご用事があったのではありませんか?」
私は扉越しのまま尋ねた。
「ええ──……でも、今日でなくとも構わないのです。明日でもその先でも……いつでも構いはしないので、お気になさらないでください」
そう──明日、明後日、明々後日……そしてその先もずっと、私は征之介さんと共に暮らすのだ。
「──……私で、良かったのでしょうか」
ふいに、心の中で思っていたことが口をついた。
征之介さんの様子からは、私を好いているとは思えなかった。征之介さんは、なぜ私を選んだのだろう。
「──……あなたでないと、意味がないのです」
先ほどまでより小さな声で、征之介さんはそう言った。
「えっ?」
私は聞き返したけれど、私の問いに対する答えはそれ以上返ってはこなかった。
「──……では、私はこれで失礼いたします。不躾にもこんな時間に訪ねてしまって、申し訳ありませんでした。ご回復をお祈りしております」
扉の外でお辞儀でもしてくださっていたのだろうか。しばらくの間をおいてから、征之介さんが去っていく足音がした。
私はドアノブを握りしめたまま固まっていたけれど、その足音がすっかり聞こえなくなると、ようやく肩の力が抜けていった。
「おやすみなさい、征之介さん──……」
最後に伝えることができなかった、おやすみの挨拶を呟く。
心臓のはやる鼓動は治っていたけれど、代わりに少し手に汗をかいていた。よほど緊張していたようだ。
私は改めてベッドに潜り、今度こそ本当に寝ようと思った。もう征之介さんが訪ねてくることもないだろう。
ランプの火を消し、ぼんやりとした月明かりに包まれる。
あの日みた夢に、現実の征之介さんの言動、不思議に既視感のあるお部屋……。色々なことが頭に浮かぶけれど、考えようにも答えがわからない。
私は今度こそ恐れずに、もっと征之介さんとお話ししたいと思った。そして、もっと征之介さんのことを知りたい──知らねばならないと。
お父さまとお母さま、それにおよねさん……みんなが私の幸せを願って送り出してくれたのだから。
征之介さんの言うように、時間はたくさんあるのだ。明日も明後日も、明々後日もその先も。
──……あなたでないと、意味がないのです。
征之介さんのあの言葉は本心なのだろうか。そして本心ならば、一体私にどんな意味があるというのだろう……そんなことを考えながら、私はようやく眠りにつく。
満月は、すっかり窓から見えなくなっていた。




