月夜(一)
緑麗荘、という名を持つ藤峰家の別邸は、私の家とそこまで距離のないところにあった。
けれどその建物を目にすると、ずいぶん離れたところに来てしまったように感じ、不安と寂しさが襲ってくる。
何もかも和風の作りだった実家と違い、緑麗荘はすっかり洋風に建てられている。
白い壁にガラスの開き窓がいくつもついていて、三階建の豪奢な作りだ。お庭も洋式のようで、私が知らない美しい花が咲いていた。
平屋の広々とした渡り廊下や、お庭の梅や松の木が恋しくなる。
私が車から足を下ろすと、使用人らしき人々がきれいな姿勢でお辞儀をしつつ、私に出迎えの挨拶をしてくれた。
「お待ちしておりました、奥さま」
慣れない呼び方にどきりとしながらも、歓待してくれたことは素直に嬉しい。
「ご丁寧にありがとうございます」
お礼を言いながら車から降りると、先導車に乗っていた征之介さんが歩み寄ってきた。
「長時間のご移動、ご苦労をかけました。専属の使用人をおつけしますので、以後何かあればその者に申しつけるようお願いいたします」
征之介さんはそっけなくも丁寧にそう言うと、側に立っていた一人に目線で合図した。
絣の着物を着た、私とそう変わらない年頃の女だ。
「スズと申します。奥さまの身の回りのお世話を仰せつかりました。精一杯努めさせていただきます」
緊張しているのか、白い頬が痛々しいほどに赤く染まっていた。
「どうぞよろしくお願いします」
スズさんに挨拶をしていると、いつのまにか征之介さんの姿が消えていた。
早々に屋敷の中へ入っていってしまったようだ。
スズさんもそれに気がついたようで、慌てて私を室内へと案内してくれた。
「さあではどうぞこちらへ、奥さま」
他の使用人のみなさんは車から荷物を下ろしたり、室内のそれぞれの持ち場に戻っていったりした。
こらから少しずつ、みなさんとも仲良くなっていけるだろうか。
スズさんは私を部屋へ案内する途中、色々なことを話してくれた。
「緑麗荘という名前は、ご当主がおつけになったんです。屋根が緑色ですし、お庭の緑も素敵なんですよ」
「今日はお疲れかと思いますので、明日またゆっくり屋敷内をご案内できたらと思います」
「奥さまのお部屋は三階で、窓からの眺めも良いですし、この屋敷の中でも一等素敵なお部屋でございます」
スズさんは瞳が大きく、笑うととても可愛らしかった。
女学校の友人たちにはろくなお別れも言えず仕舞いであったし、同年代の子と言葉を交わすのは久しぶりのことだ。
「ありがとう、スズさん」
私がお礼を言うと、スズさんは恥ずかしそうに言った。
「スズさんだなんて……そんな丁寧に名前を呼ばれたのは、初めてでございます」
スズさんは親元を離れ、三年ほど前からこの緑麗荘に住み込みで奉公しているそうだ。
彼女のきれいな黒髪を見ると、女学校時代の友人がことに懐かしく思い出された。
「ねえスズさん……私、品子という名なの。奥さまではなく、名前で呼んでくれたら嬉しいのだけれど」
「えっ……?!」
奥さまだなんて、やっぱりまだ呼ばれ慣れない。そもそもまだ正式に結婚したわけではないのだし、年近いスズさんには尚のこと名前で呼んで欲しかった。
「では……品子さまとお呼びしてもよろしいでしょうか?」
スズさんは困惑していたものの、私の気持ちを察してくれたのか、控えめな声でそう言ってくれた。
一人きりで遠くへ来てしまい心細かったのだけれど、なんだか一つ私の居場所ができたように感じた。
「では奥さ……品子さま。こちらが品子さまのお部屋でございます。お部屋のお掃除やご用聞きは私が承りますので、何かございましたらいつでもお呼びください。室内にベルがございます」
私に用意されたお部屋は、三階の一番奥の部屋だった。
大きな開き扉に、真鍮のドアノブがついている。
スズさんがゆっくりと、その扉を開けてくれた。
「──……品子さまがお越しになってくださって本当に嬉しいです。ご不幸があってから、征之介さまのお嘆きぶりは見ていられなくて……でも品子さまとのご縁談が進むにつれ、少しずつお元気を取り戻しつつあるように感じられます。ですからこれから一緒に住まわれたらきっともっと──……」
「ご不幸……?」
私が聞き返すと、スズさんははっとして扉を開く手を止めた。
「……申し訳ございません。出過ぎたことを申しました」
言うべきではなかったことを言ってしまったのだと、慌てた様子で頭を下げている。
征之介さん、もしくは藤峰家の周囲で何かご不幸があったということなのだろうか。
お父さまやお母さまからは、特に何も聞いてはいない。
もちろん気にはなるけれど、何か事情があって、私の耳に入らないよう配慮されていたのかもしれない。
「頭を上げて、スズさん。聞かなかったことにします」
それ以上尋ねたとしても、スズさんは何も答えてくれなかっただろう。お話ししたのは少しの時間だけれども、スズさんからは信頼できる仕事ぶりが感じられた。主人のあれこれを軽々しく話すことはないはずだ。
「……私の余計なお喋りでございました。申し訳ありません、品子さま。どうかお気になさらずに──……お荷物はすでにお部屋にお運びしております」
スズさんが続けて扉を開けて、私を部屋へと案内した。
「品子さまのお気に召すと良いのですが……もしも何かご不便がありましたら、何なりと仰ってくださいね。お着物はこちらの箪笥に入ってございます。ご実家のご寝具はお布団と聞いておりますが、お部屋の調度品と合わせてベッドをご用意しております。ご夫婦のご寝室は別にございますが、自室でお休みされる場合はこちらを──……品子さま? 大丈夫ですか?」
私は扉の前で立ち尽くし、部屋の中へ入ることができなかった。
明るく広々として清潔感があり、内装の趣味も良いお部屋──……けれど私は、その部屋に入ることがとても嫌だった。
なぜならその部屋は、まさしく《《私が殺された部屋》》だったから──……。
あの時満月が映っていた出窓、取り囲んでいた白い壁紙、私が寝ていた大きなベッド……全て夢の中の部屋と相違がない。
こんなにも夢と合致することなどあるのだろうか。
あれはただの取るに足らない夢──……そう自分に言い聞かせていたのに。
私の婚約者として現れた征之介さん、そして私にあてがわれたこのお部屋──……もしもあの夢がただの夢ではないのなら──……。
「──……さま? 品子さま?!」
気づけば、スズさんが心配そうに私の顔を覗き込んでた。
「……ごめんなさい。少し、ぼうっとしてしまって」
「こちらのお部屋、お気に召しませんでしたか……?」
「いいえ! 違うんです、本当に──……少し疲れてしまったみたいで……」
スズさんをはじめ、この屋敷のみなさんが私のために用意してくれたお部屋だ。細部にいたるまでお掃除が行き届いている。
気に入らないだなんて、言えはしない。
「左様でしょうか……? 顔色が悪うございます。ひとまずはお入りになって、お掛けください。すぐにお飲み物をお持ちいたします」
スズさんは私を室内の椅子に座らせると、すぐに箪笥から着替えを持ってきた。
「よろしければこちらにお着替えください。晴れ着では横になりにくいと思いますので……お着替えのお手伝いは必要でしょうか?」
「いいえ……大丈夫です」
「かしこまりました。では、ただいまお飲み物をご用意してまいります」
スズさんが出ていくと、私は改めて室内を見まわした。
私がこの部屋に入ったのは、今日が初めてのことだ。緑麗荘にだって、今日初めて足を踏み入れたのだから。
けれど驚くほどの既視感が、私の中に確かにある。
まるであの夢の中を通して、実際にこの部屋にいたかのように。
そもそもいつもなら夢で見たことなどすぐに忘れてしまうのに、なぜだかあの夢に限ってはいつまでも頭に残っている。
帯を解いて着替えると、用意されていたベッドに横になってみた。
実家のお布団とは違い、身体が柔らかく沈み込んでいく。肌触りの良い絹の敷布が心地いい。
けれど今までお布団でしか寝たことなどないのに、やっぱり私はこの感触を知っている──……。
「失礼いたします、品子さま」
スズさんの声がしたので、私はすぐにベッドから起き上がった。
スズさんは暖かいお茶を淹れならが、心配そうに私を見る。
「お加減はいかがでしょうか? 征之介さまもご心配なさっています」
「征之介さんが……?」
「はい。お医者さまをお呼びしたほうが良いだろうか、と」
「いいえ、大丈夫です。少し横になれば良くなると思うので……」
私がそう言うと、スズさんは少し安心したように肩の力を抜いた。
「それなら良いのですが……本日のご夕食はいかがいたしましょうか? お身体に優しい軽食にいたしましょうか?」
夕食……となると、嫌でも征之介さんとお顔を合わせなければならない。
どうしてもあの夢が思い出されてしまって、私は気が進まなかった。
現実に征之介さんに何かされたわけではないのに、失礼な対応をしてしまいかねない。
「……よろしければ、お部屋までお待ちいたしましょうか? 征之介さまも、品子さまの具合を優先するように仰っておりましたので」
悩む私に気を遣ってか、スズさんはそう言ってくれた。
申し訳なかったけれど、私はその申し出に甘えることにする。
「もちろんです。では征之介さまにもそうお伝えいたしますね。屋敷内のご案内などは明日以降にまた改めて……今日はゆっくりお休みくださいませ」
スズさんの言う通りに、私はその日の残りを部屋で過ごした。
荷物の整理をしたり、窓からお庭を眺めてみたり、あの夢についてもう一度考えてみたり──……。
藤峰家の料理人が作るお料理は、とても美味しかった。
私の体調を案じて薄味に作られていたけれど、しっかりと満足感のある品々だった。
出立の前に、私の身を案じてくれたおよねさんの言葉を思い出す。やっぱりどうにも心細い。
明日は征之介さんとうまく接することができるだろうか。
征之介さんとはほとんど会話をしていないままだ。夕食を一人でとることにした私が悪いのだけれど……。
征之介さんは礼儀正しく、お父さまとお母さまが認める立派な方だ。
もっとゆっくりお話しする時間をとって、今度こそあの夢のことなんて忘れてしまいたい──……。
一日の終わりに、椅子に腰掛けてそんなことを考えていると、不意に扉をノックする音がした。
スズさんとは違う、力強い音だ。
突然の来訪に驚いて固まっていると、扉の外から声がした。
「──夜分に失礼いたします、征之介です。起きていらっしゃいますか?」
征之介さんの声はまっすぐで、扉越しでもはっきりと聞き取ることができた。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
私は先ほどまで思案していたことなど忘れて、どうにか寝ているふりをしてやり過ごせないかと考えた。
窓の外には、美しい満月が輝いている──……。




