出立
私の気持ちが追いつく前に、婚姻話はどんどん先へと進んでいった。
いつのまにか女学校は退学していたし、いつのまにか婚姻道具一式が誂えられていた。
そして瞬く間に、私が藤峰家の別邸へと引っ越す日がやってきてしまった。
「ああ品子お嬢さま、とてもお美しゅうございます。およねはこの日をどれだけ待ちわびたことでしょう」
私の支度を手伝いながら、およねさんは大仰に言った。
「そんな、大袈裟だわ」
「いえいえ、そんなことはございません。品子お嬢さまは本当にお美しく聡明にご成長されました。さぞや立派なお家とご縁があるだろうとは思っていましたが……まさかあの藤峰家との縁談だなんて」
華族の結婚には色々な手続きがいるそうで、正式な婚姻はもう少し先になるそうだ。
両家の親戚や関係者を集めて、大々的な食事会も企画されているらしい。
それならそれで、その間際まで引っ越しなどしたくはないのに──……そもそも婿取りなのだから、わざわざ別宅に越さずとも、ここで一緒に住めば良いのに──……けれど藤峰家たっての希望で、私は今日発たねばならない。
せっかくの豪奢な着物と簪が、ひどく重々しく感じられる。
「──……およねさん。私、本当は結婚なんてしたくないのかもしれない」
私はつい、そんな弱音が口からこぼれてしまった。
あんな夢をみたのは、私が心の底でそう思っていたからなのかもしれない。
「品子お嬢さま……」
およねさんは一瞬驚いた顔をしたけれど、すぐに優しい眼差しを私に向けた。
「ご不安になられるのは当然ですとも。しばらくは生まれ育ったこの家とも、ご両親とも離れて暮らすことになるんですから──……無神経な物言いでした、お許しを」
「いいえ……! およねさんは何も悪くないわ。ただ私が──……」
「品子お嬢さまはお優しいから、なんでもお一人で抱え込もうとなさる。もう少し我儘になっても構わないんですよ」
「私……もう十分我儘よ」
お父さまとお母さまを困らせてしまったし、今もこうしておよねさんを煩わせているのだから。
「ではもっともっと我儘になってくださいまし。もしも何か嫌な思いをすることがあれば、いつだってここに戻ってきたらいいじゃありませんか。品子お嬢さまのお部屋は、およねが毎日きっちりお掃除しておきますから」
「およねさん……」
「品子お嬢さまがお帰りになられたら、およねが腕によりをかけてお嬢さまの好物をお作りします。そりゃあむこうにも腕の立つ料理人がいるでしょうけど、お嬢さまの好物だけは、およねだって負けはしませんよ」
およねさんの言葉を聞いていると、少しずつ身体が軽くなっていく気がした。
「お嬢さま、とにかくお一人で悩まないでくださいまし。何か向こうで嫌なことや辛いことがあったなら、お父さまにきちんと相談なさるんですよ。品子お嬢さまのためなら、きっとすぐに対応してくださいますから」
「ええ……ありがとうおよねさん」
「品子お嬢さまの味方はたくさんいるんですからね。およねはいつだって品子お嬢さまの幸せをお祈りしていますし、この家の使用人たちはみんなお嬢さまを大切に思っておりますから……どうか、どうかお元気でお幸せに──……」
およねさんは涙声になって、私の手を握りしめた。
私もつられて瞳が潤んだけれども、そんな感傷に浸る間は、もう私には残されていなかった。
「──品子、支度は整って? お迎えがいらっしゃったわ」
扉の外から、お母さまの声がした。
私の旦那さまになる方、征之介さんがいらっしゃったのだ。
私は涙をぬぐって、自室へと別れを告げた。
「はい、お母さま。今参ります」
応接間に到着するまでの間、私は今までになく緊張して仕方がなかった。
初めてお会いする、私の婚約者さま。
いったいどんな方なのだろう。
あの夢は、いったい何だったのだろう──……。
もしかすると、私がただ思い違いをしているだけなのかもしれない。あの夢に出てきた殿方は征之介さんなどではなく、ただ夢の登場人物の一人に過ぎなかったのかもしれない。
そもそも会ったこともない人が夢に出てくるなんて、とてもおかしな話なのだから。
「──……失礼いたします」
そっと応接間に足を踏み入れて視線を上げた先に、その殿方の姿はあった。
軍服姿の凛とした出立ちに、華族のご子息らしい華やかさが添えられている。
緊張がゆらぎながらも、意志の強さを感じる瞳。生真面目そうに固く結ばれた唇──……。
先日写真を見た時以上の衝撃が、私の身体に響き渡る。
美しいと思った白い掌、涙を流していた瞳、辛く苦しそうな表情……夢の中の殿方の姿が、再び脳裏にありありと思い出された。
──……ああ、間違いない。
一目見た瞬間に、なぜだか私の中にその確信が生まれた。
あの夢に出てきたのはこの人だ。
この方と、私は夢で会っている──……。
その殿方──藤峰征之介さんは、私の姿を認めると、すっくと立ち上がって私に言った。
「──此度はお目にかかれて光栄です。藤峰治嗣が第二子、藤峰征之介と申します。今回の婚姻話につきましては、急な話にもかかわらず了承してくださいましたこと、心より御礼申し上げる次第です」
ただ台本をなぞっているかのように感情の起伏がなく、敬礼でもしかねない程に堅苦しい台詞だった。
「はじ……めまして」
私はなんとか、そう一言だけ絞り出した。
「さあ品子、おかけなさい」
私を部屋まで導いたお母さまが、今度は席にかけるように促した。
征之介さんはお父さまと何か歓談なさっていたようだ。室内のお父さまの雰囲気は柔らかく、心持ち表情もいつもより明るい。
「どうだ、二人とも。初めて顔を合わせた感想は」
「はい、お会いできて大変嬉しく思います」
征之介さんは澱みなく、そして表情を変えずにそう答えた。
お父さまは次に私のほうを見て、その答えを待っている。
「はい、あの……私はその──……」
何と言って良いのやらわからず、私はもじもじと小さく言った。
征之介さんの掌が今にも伸びてくるのではないかと思うと、彼のほうを見ることができなかった。
「ふふ、品子は緊張しているのよ」
お母さまがそう助け舟を出してくれたので、私はどうにか相槌を打つ。
「征之介さんがあんまり素敵だから、驚いてしまったのね。同じ屋根の下に住んで夫婦になったなら、緊張だってすぐにとれていくでしょう」
ああ、またお母さまの言葉が遠くなっていく。
あの日の夢が頭から離れず、何をどうして良いのやらわからない。
「何分かけ足で話を進めてしまったものですから……正式な両家顔合わせも済む前に、ご無理を聞いていただき感謝しかございません」
「それだけ品子を気に入って下さったということですもの。ねえあなた?」
「ご当主はお忙しいのだから、顔合わせの日が延びてしまうのは致し方ない。藤峰家とうちは、知らない仲ではないのだしね」
「ええ本当に。治嗣さまはお元気でいらっしゃる?」
「ええ──……父は変わらず息災に過ごしております。本来であれば父共々お迎えに上がるべきところ、ご無礼をお許しください。私といたしましては、一刻も早くお嬢さまをお迎えいたしたく……──」
私をよそに、三人は喋り続ける。
お父さまもお母さまも、とても嬉しそうだ。
私はどうにかして、頭の中からあの夢を追い出そうとした。
今日はとても喜ばしい日なのだから。
ただの夢に振り回されてばかりいては、せっかくの良き日が私のせいで台無しになってしまう。
あれは夢、ただの夢…………。
着物の袖を握りしめてそう念じながら、私は思い切って征之介さんのほうに視線を向けた。
たしかにお母さまがおっしゃる通りの好男子で、その姿形にも立ち居振る舞いにも、朱を入れるところが見当たらない。
少し堅苦しいきらいはあるけれど、それゆえに実直さが滲み出ている。
女学校の友人たちが征之介さんを見たならば、黄色い声を浴びせることだろう。
「品子は随分と箱入りに育ててしまったものだから、何か失礼があったらごめんなさいね」
「至らない点もあると思うが、大事な一人娘に違いはない。仕事のことは追々で構わないから、ひとまずは品子のことをよろしく頼む」
「とんでもありません。花ノ井家のご家業を継いでいくにあたり、私にこそ不足があると存じます。ぜひ今後ともご指導ご鞭撻いただきたく、改めてお願い申し上げます」
「まあ、なんて立派なお言葉……! 素敵な殿方と添い遂げられて、品子は果報者ね」
お母さまがそう仰った時──ほんの一瞬、征之介さんが私を見た。
征之介さんと、私の視線が初めてぶつかる。
「…………っ」
すぐに征之介さんが目を逸らしたので、私も思わず下を向いた。
あの夢から覚めた朝のように、心臓が早鐘を打つ。頬が赤くなっていくのを感じた。
征之介さんは、私のことを気に入ってくれたのだと聞いている。
夫婦になりたいと、一刻も早く一緒に過ごしたいのだと。
けれど征之介さんの瞳からは、私に対するそういった感情は全くと言っていいほど感じられなかった。
もちろん私はそういったことに聡くはない。初恋というものだってまだ知らない。
だけれども、征之介さんが私に向けている感情はそういった類のものではない──私にはそう思えてならなかった。
それが何なのかはわからない。
この方はいったい、何を心に秘めているのだろう。
あの夢は、何か関係があるのだろうか。
「あら、もうこんなお時間ね──……」
壁にかかった時計が、私の出立の刻を告げた。
「品子……準備はよろしくて?」
もちろん支度はできているけれど、心の準備は一向にできていない。
けれどそんなこと、この期に及んで口に出せるはずもなかった。
私はもう、前に進むことしかできない。
自分のことであるのに、どこか他人事めいた不思議な気分だった。
時計の針が、私を急かす。
「お父さまお母さま……不出来な娘でございましたけれど、今まで大変お世話になりした。私……私は──……」
つかえながらも、お父さまとお母さまにお別れの挨拶を述べる。
二人に心配をかけないように、そして自分自身に言い聞かせるように。
「──……私は征之介さんと、きっと幸せになります」
お父さまとお母さまは、満足そうな顔で頷いた。
征之介さんは膝に置いた自らの拳をじっと見ていて、どんな表情をしていたのかはわからなかった。




