婚約
目が覚めた時、私は自室の布団で寝ていた。目の前には見慣れた天井があるばかりで、あの掌も、見知らぬ殿方の姿もない。
夢──……?
起き上がって首筋に手を当てて、大きく息を吸ってみる。
空気が私の身体を満たし、正常に呼吸ができることに安堵した。
掌の冷たさ、首を絞められる感触、呼吸が奪われていく苦しみ、そして流れる涙の暖かさ──……全てが夢とは思えないほどに現実的で、私の記憶と身体にこびりついている。
けれど、私は今こうして生きているのだから、やっぱりあれは夢なのだろう。
少し乱れた呼吸と着物の胸元を整えると、私は布団から出て羽織を手にした。
休日とはいえ、いつもよりも寝過ごしてしまったようだ。
お父さまもお母さまも、もう朝食を済ませてしまったかもしれない。
自室から居間へと向かう途中、お手伝いのおよねさんと出くわした。彼女は長年うちに住み込みで働いてくれていて、私にとっては家族同然の存在だ。
およねさんは常にも増して明るく笑いながら、私に駆け寄って言った。
「お目覚めでございますか、品子お嬢さま。ちょうど今お声がけに伺うところだったんですよ」
「おはよう、およねさん。今日は寝過ごしてしまって、着替えもまだなの。寝巻きのままでごめんなさい」
「あらまあ、そんなこと構いはしませんよ。旦那さまと奥さまが、今か今かとお嬢さまをお待ちです。今日は特別な日なんですから。ささ、お早く」
「特別な日? 今日は何か予定が入っていたのだっけ?」
今日はお父さまのお仕事はお休みなのだと聞いている。私の女学校も今日から休校日なものだから、久しぶりに家族揃ってゆっくり過ごせるという意味だろうか。
「お二人にお会いになればわかりますよ。朝餉のご用意もできていますからね」
およねさんに言われるまま、私は居間の扉を開いた。
「おはようござます、お父さまお母さま。ごめんなさい、寝過ごしてしまって」
扉を開けると、ふくよかな紅茶の香りが漂ってくる。
思っていた通り二人はすでに朝食を済ませていて、食後のお茶を嗜んでいた。
「おはよう品子。あなたがお寝坊なんて、珍しいわね」
お母さまは朝からお化粧も着付けも完璧で、その整った美しい笑顔を私に向けた。
「……遅かったな」
お父さまは読んでいた新聞から少し顔を上げて、一言だけそう言った。そして、目線で私に着座するよう促した。
「──……?」
およねさんの言葉を聞いたせいか、今日の二人の態度に少し違和感を覚えた。いつもよりどこか張り詰めているような、落ち着きのなさを感じるのだ。
私が席に着くと、およねさんがさっそく温かいお茶をテーブルに運んできてくれた。
「ありがとう」
「朝餉をお待ちしてもよろしいでしょうか?」
およねさんはなぜか、私ではなくお父さまのほうを見ながら問う。
「その前に、あれを持ってきてくれ」
お父さまは、今度は顔も上げずにそう言った。
その様子を見ながらお母さまは紅茶を口に運び、くすくす笑っている。
いったい何だというのだろう。
およねさんは一旦下がると、手には何か白い色紙のようなものを携えていた。それを私にうやうやしく差し出す。
「さあどうぞ、お嬢さま」
不思議に思ってお父さまを見たけれど、お父さまは新聞に夢中でこちらを見てはくれない。
戸惑う私に、お母さまは優しく言う。
「品子、それを開けてごらんなさい」
およねさんから受け取ったそれは二つ折りになっていて、装丁からして写真なのだと気がついた。
ああ、あの時の──……。
先日写真館で撮った写真ができたのかと、私はみんなの態度に納得がいった。
お父さまとお母さまが急に家族写真を撮りにいこうと言い出して、わざわざ学校をお休みしてまで撮りに行ったのだ。
きっとよほど素敵な出来栄えだから、お父さまもお母さまもそわそわしていたに違いない。早く私に見せたかったのだ。
私は期待に胸を弾ませながら、その二つ折りの台紙を開いた。
けれど──中にあった写真は、私が想像していたような家族写真ではなかった。
私の心の臓が大きく跳ね、身体中に冷たいものが走る。
台紙には一枚の写真が貼られていて、そこには軍服を着こなした殿方が写っていた。
少し緊張した面持ちで、こちらを射抜くような眼差しをしている。
見た瞬間に思わず手が震え、持っていたその台紙をテーブルに落としてしまった。
テーブルの上のお茶がかたりと揺れて少しこぼれた。
「素敵な方でしょう?」
私の様子をどう捉えたのか、お母さまは微笑みながら続ける。
「でもね、ご本人は写真よりももっと素敵なのよ。お顔が整っているだけでなくて、とても真面目で紳士的な方なの。今は士官学校に通ってらっしゃるのだけど、お家柄も立派で、血筋も申し分ないわ」
お母さまの言葉が、私の耳をすり抜けていく。
私はこの写真の殿方を知っている──……今日初めて写真を目にしたというのに、私はこの方を知っているのだ。
白くて大きな掌、低くかすれた声、涙を流していた瞳──……まだありありと思い出すことができる、今朝見た夢。
間違いない。
この殿方に、私は夢で殺された。
「…………お母さま、この方は……この方はいったい、どなたなのですか──……?」
夢の恐怖を思い出して震える身体から、声を絞り出してお母さまに尋ねる。
いったいこの殿方はどこのどなたで、なぜ私の夢にでてきたというのだろう。
お母さまの唇が弧を描き、私ににこりと微笑んだ。
「ふふ。この方はね、あなたの婚約者なのよ」
「……っ──……!」
あまりの衝撃に、声にならない声が漏れ出でる。
「まあ、品子ったらそんなに驚いて。よほどこの方が気に入ったのね?」
私の心とは裏腹に、お母さまはとても嬉しそうに言葉を続ける。
「この方はね、藤峰征之介さんと仰るの。お仕事の話だからあなたはにはあまり言っていなかったけれど、実はうちと藤峰家はもう随分長い付き合いなのよ。お父さまのお仕事の関係でね。藤峰家といえば華族の中でも特に立派なお家でしょう? お父さまがあなたのために、こんな素敵な縁談をまとめてくださったのよ」
お母さまの美しく引かれた赤い紅が、なぜだか今日は禍々しく見える。
「征之助さんは次男でらっしゃるから、士官学校を卒業したらうちに婿入りしてくださるんですって。この方になら品子も事業も任せられると、お父さまがそうお認めになったのよ。本当によかったわ品子、こんなに素敵な方と結婚できるなんて──……」
結婚? 私がこの方と?
お母さまの言っていることがようやく頭に入ってきて、顔から血の気が引いていくのがわかる。
「嫌っ──……!」
私は思わず写真を机に打ちつけて、勢いよく立ち上がっていた。
突然大きな声と音を出したものだから、お母さまが驚いた顔で私を見る。隣でお母さまの言うことにうんうんと頷いていたおよねさんも同様だ。
お父さまも新聞から顔を上げて、怪訝な顔をしている。
「品子……? いったい急にどうしたというの?」
「ご……ごめんなさい。はしたないことをいたしました」
慌てて席に座り直して、なんと説明すればよいのか考える。
この人に殺された夢を見たから結婚なんてしたくない、なんて、そんなおかしな話はできない。
そもそも会ったこともなかったのだから、結婚嫌さに作り話をしていると思われるだけだろう。自分自身でも変な話だと思う。
「……ああ品子、ごめんなさいね。急に結婚だなんだと言って、驚かせてしまったのよね。きちんとお話がまとまってからあなたに伝えようと思っていたものだから……良くなかったわね」
いいえ──違うのお母さま。
女学校の友人たちも、すでに何人かは嫁いで退学している。そろそろ私にもお見合い話がきてもおかしくはないと、その覚悟はきちんと持っていた。
「私は……その──……」
「なんだ、何か不満があるのか?」
言い淀む私に、お父さまが静かに問う。いつのまにか読んでいた新聞は畳んでいて、難しい顔をして私を見ていた。
「どうしても、この方と結婚しなければ駄目なのですか……?」
なぜあんな夢を見てしまったのだろう。夢など見なければ、私はただ粛々とこの婚姻話を受け止められていたのに。
「お前は結婚したくないのか? それとも征之介くんが不満なのか?」
私は黙ってうつむくことしかできなかった。
結婚したくないわけではない。私は一人娘なのだから、いずれは結婚しなくてはならないのも当然のことだ。
だけれども、怖い──……。
この方のお顔を見ると、どうしても今朝の夢の恐怖を思い出してしまう。
「……あなた、ここは私が」
私の様子を見て、お母さまがお父さまに耳打ちをした。
「およねも下がってちょうだい。品子、少し二人でお話しをしましょう」
お母さまがそう言うと、およねさんはテーブルの上のこぼれたお茶を素早く片付けた後、私に心配そうな視線を投げかけて部屋を出ていった。
「品子──……」
お父さまは何か言いたげではあったけれど、お母さまの言に従うことにしたのか、眉間に皺を寄せたまま立ち上がる。
私のせいで、お父さまとお母さまを困らせてしまっている。
「ごめんなさい、わがままを言って──……」
うつむきながら口にすると、お母さまがそばにやってきて、私の肩を優しく抱いた。
「大丈夫よ、品子」
部屋の扉が閉まる音がして、お父さまが部屋を出ていったのがわかった。
「もしかして、他に好いた殿方でもいるの?」
お母さまの問いに、私は大きく首を振る。
そもそも年頃の殿方とお話ししたことだってほとんどない。
「……あなたはまだ初心だものね。突然結婚だなんて言われたら、戸惑うのもよくわかるわ。私たちが良くなかったのよ。もう少し、あなたにも段階を踏ませるべきだったかもしれないわ」
「ごめんなさい……」
「ふふ、謝る必要なんてないのよ。私もあなたとそう変わらない年でお父さまと結婚したのだけれど、最初はもちろん戸惑ったわ。ほら、お父さまはあの通りいつも仏頂面でしょう? いとこ同士の見知った仲で新鮮味もないし……結婚ってこんなにも面白味のないものなのかしらと、不貞腐れた時もあったわ」
お母さまにもそんな時があったのかと、意外に思う。
いつもお母さまはお父さまの隣で柔らかく微笑んでいて、結婚生活への不満など微塵も感じたことがなかったのだ。
お父さまとお母さまはいとこ同士で、幼い頃からよく顔を合わせていたのだそうだ。
幼い頃からの仲だなんて羨ましく思っていたのだけれど、そう単純なことでもないのかもしれない。
「でもね、品子。結婚してみないとわからないことも、たくさんあるのよ。お父さまと結婚していなければ、私は真実の愛を知ることはなかったと思うもの」
突然お母さまの口から愛という言葉が飛び出してきたので、ぱっと頬が赤くなるのを感じた。
「ふふ、可愛い子」
赤くなった私の頬に、お母さまの指が触れる。
「品子、あなたは私の自慢の娘よ。とても美しく、魅力的に育ってくれたわ。そしてそれに見合うだけの教養と品格と血筋だって、あなたにはあるのだから」
お母さまの指が私からテーブルの上へ移動して、例の写真をゆっくりなぞった。
「そんな素晴らしいあなたに似合う人が、いったいどれくらいこの世の中にいるかしら? 征之介さんは素敵な方よ。あなたを愛してやまない私が、あなたの結婚相手に相応しいと思えるくらいにね」
「お母さま……」
「お父さまもね、彼のことをとても気に入ってらっしゃるのよ。一本気が通っていて、真面目で勤勉な子だって。生真面目なところなんかは品子と少し似ているから、似合いの夫婦になるんじゃないか、なんて言って」
お母さまはくすくすと笑う。
もちろん、わかってはいるのだ。
お父さまとお母さまが私のためにまとめてくれた、これ以上ない良い縁談であることは。
家柄、年齢、容姿、内面、条件……話を聞く限り、藤峰征之介という方に欠点はない。
「ねえ品子。女なら誰だって、結婚前には不安になるものよ。でも安心なさい。あなたならきっと、征之介さんと良い夫婦になれるわ」
お父さまとお母さまの愛情が、ひしひしと胸に伝わってくる。
事業に才を発揮して、威厳溢れるお父さま。口数は少ないけれど、いつも私のために最善を尽くしてくれているのはよくわかっている。
そしてそんなお父さまを支えながら、家のことを取り仕切っているお母さま。娘から見ても華やかで美しく、私に惜しみない愛情を注いでくれている。
私の理想の夫婦像の、お父さまとお母さま。
「私も、なれるかしら……? お父さまとお母さまみたいな、素敵な夫婦に」
お母さまはまたくすくす笑いながら、私の頭の上を撫でた。
「私たちを目指す必要なんてないのよ、品子。あなたはあなたの幸せを摑めば良いのだから」
お母さまに撫でられていると、まるで子供に戻ったような心持ちになった。
そう、不安になることなんてない。
あれは、ただの夢。
自らに言い聞かせるように、心の中で繰り返す。
「征之介さん、品子のことをとても気に入ってくださっているのよ。この前撮ったあなたの写真を贈ったのだけれど、大変美しいお嬢さんだって、誉めそやしてらっしゃったんですって。それでね、まだ顔合わせも結納も何もしていないのだけれど……できるだけ早くに品子と一緒に住みたいって、そう仰ってるそうなの」
お母さまの口紅の赤だけがひどく浮いて見えて、私はぎゅっと目を閉じる。
けれどそうすると、脳裏に再びあの白い掌が現れて、今にも私の首に迫ってくる気がした。
「学校がちょうど休校日に入るでしょう? だからね品子、慌ただしくはあるんだけれど……先に一緒に住んで仲を深めながら、ゆっくり結納や式の日取りを決めてはどうかしら?」
頭の中の白い掌を追い出そうと、私はお母さまの優しい掌に意識を集中した。
まるで今も夢の中にいるかのように、お母さまの声が遠くなる。
「藤峰さまの別邸を、あなたたちの新居として用意してくださっているそうなのよ。美しい緑と花に囲まれた、とっても素敵なお屋敷を──……ふふ、藤峰さまも征之介さんには甘いみたいね」
お母さまはとても大事な壊れものを撫でるように、私を優しく撫でてくれる。
──……大丈夫。
あれはただの、夢なのだから。
私は何度も何度も、心の中でそう繰り返した。




