幕引
掌に何か温かなものを感じて、私は重い瞼を開けた。ぼんやりとした視界が、徐々に明瞭になってくる。
「品子さん──……!」
「品子!」
「品子さま!」
あちこちから一度にたくさん名前を呼ばれたので、私は周りを見渡そうとした。けれど顔を動かそうとした瞬間、首筋に鋭い痛みが走る。
「首を動かしてはいけません、まだ傷が塞がってはいないのですから」
瞳だけ動かしてみるけれど、室内を見渡すことはできない。けれどこの掌に感じる温もりが、誰のものであるのかを私は知っている。ずっと、こうして手を握っていてくださっていたのだろうか。
「良かった……本当に──……私は医者を呼んでくる」
「重森さま、それなら私が──……」
「いや……君は品子のそばにいてやってくれ」
お父さまが、征之介さんにそう言う声が聞こえる。
「では私は、征嗣さまにご連絡してまいります」
今度はスズさんの声がして、足音と扉が閉まる音が続いた。
室内は急に静かになって、私と征之介さんだけが取り残される。
「──……品子さん」
征之介さんに名前を呼ばれると、何だか照れてしまう。
「はい──……何でしょうか、征之介さん」
「何でしょうか、ではありません」
征之介さんは、呆れと怒りをはらんだ声で言った。
「どうしてあんな馬鹿なことをしたのですか──……傷が器官に達していなかったとはいえ、場所が場所だけにあなたはたくさんの血を失った……あなたの目が覚めるまで、皆どれほど心配したことか──……」
「申し訳ありません、征之介さん……私には、ああすることしか思い浮かばなくて──……でももうこれで、征之介さんが責任を負う必要はありません。治嗣さまとお母さまは、大切なものを失ったはずです。美与子さんの無念も、いかばかりは晴れたはず──……それに私もこの通り自ら死に損ねた身ですから、征之介さんが私を殺めようとしていたことなど、もう些細な過去の出来事です」
「何を、仰っているのですか──……! こんな、こんな傷と痛みを負って……あなたは──……」
征之介さんは、私の首に巻かれた包帯に優しく触れた。
「征之介さん……お顔を、見せてはくださいませんか?」
私が言うと、征之介さんは私の視界に入るように顔を覗き込んでくださった。
「そんな、お辛そうな顔をなさらないで──……」
征之介さんの瞳からこぼれ落ちた涙を、私は指でそっとぬぐった。
「私はずっと、こうしたかった──……もう、お一人で苦しまないで──……」
「あなたのほうこそ一人で抱え込んだ挙句、命を危険にさらして──……!」
「だって……征之介さんにお伝えしたら、止められてしまうに決まってますもの」
征之介さんはため息をつきながら、握る掌に力を込めた。
「この掌に、また助けられてしまいました。眠っている間もずっとどこか心地くて、そして心強かった──……」
「助けられたのは……私のほうです」
征之介さんがそう言った後に、病室の扉が開く音がした。
私たちはどちらからともなく、握っていた手を離す。
お医者さまは私の患部を確認すると、命に別状はないと言ってくださった。傷痕は残るけれど、食事や言葉にも支障はないらしい。
お父さまと征之介さんの、安堵のため息が聞こえた。
「重森さま。では私は一旦屋敷へ戻り、兄と今後の話を詰めようかと──……」
「ああ、そうしてくれ。ここ数日ろくに休んでいないだろう、どうか身体もよく休めるように──……」
「ええ……では品子さん、またすぐ見舞いに参ります」
征之介さんが出て行くと、今度はお父さまと私だけになる。征之介さんはもしかしたら、私たちがゆっくり話せるよう気を遣ってくださったのかもしれない。
「お父さま……勝手なことをして、本当にごめんなさい。たくさん、ご迷惑をおかけしたかと思います」
「──……読んだよ、お前がくれた手紙を」
かねてからしたためていたお父さま宛の手紙を、夜会の日に届くよう私は手配していた。治嗣さまとお母さまのことを、私が知る限り詳らかにした手紙を──……。
「お手紙にも書いた通り……私にとってのお父さまは、お父さまただ一人です。たとえ実の子でなかったとしても──……私は、お父さまの娘でいたい──……」
お父さまに全てをお伝えすべきかどうかは、とても悩んだ。けれど緑子さまの言うように、もう隠し通すことは難しいように思われた。それならばせめて、私からお父さまにお伝えしようと思ったのだ。
「品子、お前は何を当たり前のことを──……私はお前を放り出す気などない。それに、私と華子はいとこなんだ。もしもお前が私の子でなかったとしても、私たちに血のつながりがあることに違いはない。だがそれにしても──……」
お父さまは言葉を切って、笑いながら言った。
「お前のこの無鉄砲さは、私の若い頃にそっくりだよ」
「お父さま──……」
何度も心配と迷惑をかけてしまって、突き放されたり呆れられたりするかもしれないと思っていた。けれどお父さまは、どこまでもお父さまだった。
知らずにいたお父さまのお仕事での一面も、私を大切に育て守ってくれている一面も、両方がお父さまなのだと今ならわかる。
「それから……気になっているだろうから言っておくが、華子はしばらく実家に帰ることになった。離縁の話も出ているが──……姦通罪で訴えるようなことをするつもりはないから、安心するといい。今後離縁になったとしても、華子がお前の母であることに変わりはない。今後お前がどうしたいのか、ゆっくり考えて過ごしなさい──……征之介くんとのことも、含めてな」
扉を叩く音が聞こえて、スズさんが戻ってきた。
「花ノ井さま、品子さま──蔵沢夫人がお見えですが、いかがいたしましょう」
「ああ、雪子くんか──……」
お父さまは渋い声を出して、私に歯切れ悪く言った。
「あー……衝撃を受けるといけないので先に言っておくが、その──……今回の件について、実は帝都新聞が──……」
「帝都新聞が記事にした件なら、存じ上げております。だって、私が雪子さんにお願いしたんです。どうか揉み消さずに、ありのままを記事にして欲しいと。だから、雪子さんも蔵沢さんも悪くはありません──……どうか、お咎めなどなさらないで」
「品子が──……? なんだってそんなことを!」
「公にならなければ、治嗣さまは何の咎めも受けないだろうと思ったのです。きっと、あの火事の真相も握り潰されているのでしょう?」
「ああまあ……あれは例の透子嬢の父君が色々と動いて、不審火として処理されることになった。うちや藤峰家も協力はしたがな──……彼女はしばらく精神病院へ入ることになったそうだ。いやだがしかし、記事になったことでお前にだって傷が──……」
「お父さま、だから私は雪子さんにお願いしたのです。とても賢い彼女のことですもの、私の傷が少しでも軽く済むような、素晴らしい記事を載せてくれたのではありませんか?」
「お前ときたら──……少し見ない間に、随分成長したものだ」
火事の後お見舞いに来てくれた際、私は雪子さんにひとつのお願いをした。握りつぶすことなく、載せて欲しい記事があるのだと。
その記事の詳細は後日伝えると言って──私が決行しようとしていることを手紙に書き、こちらもあの夜会の日に届くよう手配してあった。
「自分の目で、記事をたしかめてみるといい」
お父さまはそう言って、雪子さんを案内してくださった。雪子さんは病室に入るなり、またしても抱きつかんばかりに駆け寄ってきた。
「品子さん! あなたときたら、いったい何度心配をかけたら気が済むのよ! 私、手紙を読んでからすぐ緑麗荘へ駆けつけたけれど、その時にはもうあなたが──……目が覚めたと連絡をもらうまで、本当に生きた心地がしなかったわ! お願いだから、もうあんな危険なことはしないでちょうだい──……!」
雪子さんは矢継ぎ早にそう言いながら、私の眼前に新聞記事を突き出した。
「急いできたものだから、お見舞いの品が何もないのよ。でも、これは早くあなたに見て欲しかったものだから──……こんな感じで、良かったのかしら?」
それは、数日前の日付の帝都新聞だった。
「夜宴に血の惨事 運命に翻弄されし悲劇の令嬢」
仰々しい見出しのその記事には、私が婚約者である征之介さんとは結ばれるべきではない間柄だったことを知り、その悲しみから自ら命を絶とうとしたのだと記されていた。
治嗣さまとお母さまのことにももちろん触れられてはいるけれど、けして下世話にならない程度に上手に記事にまとめ上げてくれている。
「ありがとう──……さすがね、雪子さん。私の思惑を、最大限に理解してくれた」
「後追いの記事ももうけっこう出ているわ。しばらく世間はこの話題で持ちきりでしょうね──……でも仕方ないわ、本当にセンセエショナルな出来事ですもの」
そう言って、雪子さんは他の新聞社が出しているものも、まとめて眼前に見せてくれた。
「藤峰治嗣卿、爵位剥奪か」
「帝都を揺るがす大悲恋の結末やいかに──」
「華族と財閥の醜聞続く」
「悲劇の令嬢 花ノ井品子の激情一部始終」
「──……どれも想像ばかりで、実のある記事はほとんどないわ。けれどどの記事もあなたには同情的よ。藤峰さまやあなたのお母さまを非難するものはもちろんあるけれど、私が予想していたほど世間の反応は厳しくはない──……華族と財閥の華やかな恋模様と、あなたたちの悲劇的な関係性に誰もが興味津々ではあるけれどね」
「帝都新聞が、はじめの記事で世論を導いてくれたのでしょう? 本当にありがとう、雪子さん」
「こちらこそ──あなたのおかげで、帝都新聞の部数は鰻登りよ。それに夫が、初めて私の記事を掲載してくれたの。こんなに大きなネタ、手放すわけにはいかないものね」
「すごいわ雪子さん、もうすっかり新聞記者さんじゃない!」
「品子さんの情報提供のおかげよ! でも──……」
雪子さんは、私の首に巻かれた包帯を痛々しそうには見つめる。
「あなたがこんなことをする記事なんて、本当はちっとも書きたくはなかったわ。お願いだから──……もう、無茶はしないで。私、あなたに頼まれごとをした時はすごく嬉しかったのよ? まさかこんな内容の記事を頼まれるとは思ってもいなかったから──……」
「相談をしたら、絶対に止められてしまうと思って……でも私、昔に比べたらずっと我儘になったの。また雪子さんを頼ってしまうことが、これからきっとたくさんあると思うわ」
「あなたが傷つかない頼みごとなら、いつだってしてくれて構わないのよ」
雪子さんはこの記事をきっかけに、少しずつ仕事を任せてもらえるようになったらしい。やっぱり蔵沢さんが、雪子さんの才を放っておくはずはなかった。
それからしばらくして雪子さんが帰ってしまうと、今度は病室に緑子さまと征嗣さまがいらっしゃった。
「目覚めたばかりで遠慮しようかとも思ったが──……一刻も早く、あなたに謝っておきたかった」
「謝る──……?」
「あの時母があなたを焚き付けなければ、こんなことには──……」
治嗣さまは、病室で緑子さまが仰ったことを気にされていたのだ。
「私も、あなたを少しみくびっていたわ。まさかこんな形で意趣返しをするなんて──……あなたもなかなかやるじゃないの」
「母上!」
治嗣さまが緑子さまをたしなめるけれど、緑子さまは一向に気にしていないご様子だ。
「お言葉に甘えて、私はかなりの我儘をしてしまいました──……先ほど、少しだけ新聞記事に目を通したのです。藤峰さまの爵位について──……お二人にもご迷惑がかかるとわかっていたのに、我を通してしまって、本当に申し訳ありませんでした」
醜聞が取り沙汰されたことにより、華族の品位が損なわれたと判断されたのだろうか。治嗣さまの爵位が剥奪されたなら、藤峰家全体の家格に関わる。
征之介さんが考えていた通りの筋道にはなったかもしれないけれど、征嗣さまと緑子さんにまで迷惑がかかってしまったことに違いはない。
「爵位だのなんだの、そんなものはどうでもいいんだ。それに頼らなくても済むように、私は学を修め洋行で経験を積んできたのだから──……藤峰家のことは心配無用だ」
「そうね──征嗣は昔から要領が良かったから、あなたならどこでもやっていけるでしょう。私のこともお気になさらないで。離縁したら無関係だと、私がそう言って後押ししたのだから」
「そう、そんなことよりも──……まずは、君と征之介のことだ」
「私と征之介さん──……?」
「このままで、いるわけにはいかないだろう」
征嗣さまは、私が治嗣さまの子である可能性に気がついてらっしゃったのだろうか。とても頭の良い方だから、きっとその疑惑はお持ちだったのだと思う。だからこそ、ご自身が当主になられたら、私たちの婚約解消を命じるつもりだと仰っていたのかもしれない。
私の思惑がうまくいったなら、婚約が解消になることはわかっていた。私の気持ちに区切りがつくまでの関係だと、征之介さんにも伝えてあったのだから。
私たちの間柄に疑惑がある以上、許されることではないのだ。私と征之介さんは、このまま婚約者ではいられない。
「そう、ですね──……短い間ではございましたが、大変お世話になりました」
私が治嗣さまの子であるなら、征之介さんだけでなく征嗣さまとも兄妹という関係になる。もちろん不義の子かもしれない私が受け入れられるとは思っておらず、妹として接しようという気はないのだけれど。
「話を最後まで聞いてくれ。これは征之介にはまだ言っていないが──……私から二人に、一つ提案がある。まずは、君の意見を聞かせて欲しい」
そう仰る征嗣さまの提案は、私にはとても信じられないものだった──……。




