追想
まどろみの中で私は、病室でお母さまと話した日のことを思い出す。
あの日私がお部屋を訪ねても、お母さまはいつもと変わらぬご様子だった。
「品子──……来てくれたのね。お父さまから聞いたわ、大事がなくて何よりよ」
そして私を抱きしめると、腕からのぞく包帯をなぞった。
「可哀想に──……いい薬をたくさん塗ってもらいましょうね。痕が残ったら大変だわ」
慈しみにあふれた声で私を労る、今までと何も変わらないお母さま──……。
「……お母さまは、どこもお怪我をされていないのですか?」
「ええ。私のいた部屋は石造りで、火が回りづらかったの。逃げる時に少し擦ってしまったけれど、なんてことはないわ。念のため入院だなんて、大袈裟よね」
「そう、ですか──……お母さまもご無事で、安心いたしました」
これは私の心からの気持ちで、全てを知った今も、お母さまのことを嫌いにはなれない。たくさんの愛情を注がれ、大切に育ててもらったことに変わりはないのだ。
けれど以前のように全幅の信頼をもって接することは、私にはできない──……。
「お母さま──……私、全てを知ってしまいました」
ぽつりと呟くと、お母さまは何も言わずに微笑んだ。
「どうしてあの時──……私に逃げるように言ったのですか?」
──……品子──! いいから、早く逃げなさい!
燃え盛る炎の中で聞いたあの台詞──お母さまが私に呼びかけなければ、私が真実に気がつくことはなかったかもしれないのに。
「どうしても何も──……あのままでは、あなたの命が危なかったわ。あなたはとても優しい子だから、私がああでも言わないと、あの場から動かなかったでしょう?」
「お母さまは…………私のことが、憎くはないのですか?」
「どうして──……? 品子は私の大事な大事な一人娘よ。憎いわけがないじゃない」
お母さまはいつものように、私の頭を優しく撫でた。私の頬から涙が流れ出て、感情が止められなくなる。
「どうして──……! どうしてなの、お母さま──……お父さまに出会って、真実の愛を知ったと仰っていたのに──……! どうしてお母さまは治嗣さまと──……!」
自分でも何を言いたいのかわからなくなっていたけれど、私はお母さまを問い詰めた。
お父さまをお支えるするお母さまの姿しか、私は知らない。信じていた幸せな家庭が幻想であったとしても──その裏にあった真実を、お母さまの口から直接聞きたかった。
お母さまは、私の涙を優しく拭う。
「……品子には、まだ難しいかもしれないわね。お父さまのことが嫌いなわけではないのよ。ずっと夫婦として暮らしてきたんだもの。それに、いつも感謝をしているわ──……お父さまのお仕事の繋がりで、私は治嗣さまにお会いすることができたのだから」
「え──……?」
「あれは結婚してまもない時──初めて舞踏会にお呼ばれした日のことだったわ。面白味のなかった日々が、あの日治嗣さまと出会ってから変わったの。真実の愛とは、女の幸せとはこういうものだと、私は初めて知ったのよ──……」
お母さまは思い起こすように、恍惚とした表情で語られた。まるで、恋をしている少女のように。
「その日からずっと──……お父さまを裏切ってらっしゃったの……?」
「品子にも、いずれわかる時がくるわ。家庭と恋とは別物なのよ。たとえいけないとわかっていても、止められるものではないの」
「──……お母さまは、美与子さんが亡くなった日のことを覚えていますか?」
お母さまは微笑を崩さないまま、その答えはくださらなかった。私は続けて、お母さまに問う。
「お母さま……私は、誰の子どもなの?」
「あなたは私の子よ。私と、私が愛した人の子──……」
「私の名前──……お母さまが、名付けてくださったのですよね? 品格のある子に育って欲しいと、そう願って付けたのだと──……でも、違ったのですね」
「──……あなたはその名に恥じない、立派な淑女に育ってくれたわ」
お母さまは、私の問いをするするとすり抜けていく。
「私……征之介さんとは結婚できません」
お母さまは、心底不思議そうな顔をする。
「どうして──……? 本当を言うとね、私はあなたをどこへもやりたくはないの。愛しい自慢の娘だもの。けれど征之介さんなら、あなたの相手に相応しいと思えた──……だって二人とも、私の愛する人の子なんですもの。征之介さんは立派な方だし、あなたにとっても素晴らしい話じゃない」
「お母さまのお考えは……私にはわかりません。そんなこと──……許されない」
「品子、自分の気持ちに素直になりなさい」
お母さまは、私の胸に手をあてる。
「あなた──……征之介さんに惹かれているのでしょう?」
私の胸はどくんと跳ねて、頬がかっと熱くなる。お母さまは、優しく私に微笑みかける。
「恋とはね、そういうものなのよ。いけないと頭でわかってはいても、心は止められない──……この人のそばにいたい、誰にも渡したくはないと、そればかり考えてしまう」
「違う──……違います! 私は──……」
私は征之介さんを憎からず思っている。けれど征之介さんに対する気持ちが、その類のものであるわけがない──……だって私たちは、血のつながった兄妹なのかもしれないのだから。
お母さまは、幼子をあやすように私を抱きしめる。
「──……どうして、私と征之介さんを引き合わせたりなさったのですか? 征之介さんと出会わなければ、私は──……」
「そうね、品子……私もお父さまに対して、同じことを思った時があったわ。今では感謝をしているけれどね」
お母さまの言葉は、私を暗い底なしの沼へと誘っている。違う、私はお母さまや治嗣さまとは違う──……。
征之介さんは、お母さまの一番大切なものは私なのだとお考えだった。けれど、それは大きな間違い──……お母さまの一番大切なものは、もっと別にある。
お母さまは私が大切ではあろうけれど、同時に恋敵にもなりうる存在としてとらえていたのだと思う。それが無意識のものだったとしても、ひどく歪な感情で、お母さまの根底にはいつも治嗣さまがいらっしゃる。
私は何も知らないほうがよかった──……? 知らずにいれば、こんな苦しみは抱えなかった。
それでも私は──もしも過去に戻れたとしても、真実を知る道を選ぶだろう。
私は、征之介さんを苦しみから救いたい。美与子さんの言葉に囚われて、動けなくなっている征之介さんを。
征之介さんができなかったことを私がやり遂げたならば、きっと征之介さんは救われる──……。
治嗣さまもお母さまも、自分の感情に我儘に生きていらっしゃる。それならば私も──大切な人のためになら、二人を傷つけることだって厭わない。
私の思う通りに、うまく事は運んだと思う。征之介さんは今、どんなお顔をされているのだろう──……。




