夜会
日が沈みあたりが暗闇に包まれる中、緑麗荘には火が灯っていた。
今夜、ここで密やかな夜会が開かれる。
あの火事の日から幾日かが経ち、改めて私と征之介さんの結婚披露の場が設けられたのだ。
あの火事からまだ日が浅いけれど、もうこれ以上先延ばしはしたくないと、私がお父さまに我儘を言ったのだ。お父さまが火事の真実を知る前に、今日の夜会だけはどうしても開きたかった。
征之介さんとは、あの日からほとんどお話ししていない。ゆっくり顔を合わせてしまうと、婚約の解消を言い渡されてしまう気がしたからだ。あともう少しだけ、私は征之介さんの婚約者──……。
今夜の会は、紫雲館で予定されていた舞踏会ほど大々的なものではない。大火という凶事があったばかりだから、あまり大々的に開くわけにはいかないのだ。
それでも藤峰家と花ノ井家の近しい親族や、立場のある方々が一同に集まる機会に違いはない。
「品子さま──お衣装もお髪も、とてもお似合いです」
支度を手伝ってくれたスズさんが、私の出立ちを褒めてくれる。
舞踏会で着る予定だったドレスは、あの火事でぼろぼろになってしまった。ドレスを新たに仕立てる時間はなかったので、既成のものの寸法を少し手直ししたものだ。髪飾りはもちろん、征之介さんがくれたあの簪──。
鏡台を覗き込んでみると、そこには紛れもない私が映っている。もう、違和感はない。
支度が整ったところで、扉を叩く音がした。出てくれたスズさんが、首をかしげて私に尋ねる。
「玄関に治嗣さまがお着きになったようですが……品子さまにお会いしたいと仰っているようです。予定よりもお早いご到着ですね」
「ありがとうスズさん。下の広間でお待ちいただくよう、お伝えしてください。それから支度はもう充分なので、スズさんも下へ行って皆さんをお出迎えするお手伝いをお願いできますか? 私もすぐに伺いますから」
他の方より早くに来ていただくよう、治嗣さまにお願いしたのは私だ。夜会が催されることが決まると、私は三通の手紙を書き、そのうち一通を治嗣さま宛にお送りした。
そしてうち二通は、ちょうど今夜着くように手配してある。お父さまと雪子さん──今ごろ読んでらっしゃることだろう。
スズさんが階下へ行くと、私は改めて簪を整えた。そして、治嗣さまがお待ちの広間へと向かう。
「──……お待たせいたしました、治嗣さま」
扉を開けると、一人たたずむ治嗣さまと目が合った。治嗣さまは私の姿を認めると、美しい所作で私に右手を差し出した。
「──……見違えたね、品子」
治嗣さまの視線が私をなぞる。
私は歩み出ると、差し出された手に掌を重ねた。
額とうなじを出した髪に、常はつけない濃い口紅。ドレスは深い紺色で、装飾を控えた艶やかなもの。今までの私がすることのなかった装いであり、私に一番似合う装い──……。
「治嗣さま。私と一曲、踊っていただけますか?」
蓄音機から流れる音楽が、私たちを心地よく包み込む。夜会の設えは済んでいるけれど、この広間には私たちだけしかいない。
征之介さんは時間通りに動かれるので、まだお部屋にいらっしゃるはずだ。
治嗣さまは微笑すると、無言で私の手を握り返した。曲に乗って、私たちは踊る。
「それで──今夜のご用件は? 私をここへ呼んだのは、踊るためではないだろう?」
治嗣さまが私に問う。
「いいえ、その通りでございます──……治嗣さまにお相手をお願いしたかったので、この時間にお呼び立ていたしました」
私はスズさんに付き合ってもらい、舞踏会のためのお稽古を続けていた。征嗣さまや征之介さんに指摘されたところを直し、身体が覚えるまで何度も繰り返した。
治嗣さまの動きに合わせて、遅れないよう足を運ぶ。もう、治嗣さまの操り人形のようにはならない。
「よく上達している──装いも完璧だ。君はこれから、まさしく社交界の華となるだろうね──……父として喜ばしい限りだ」
そう言いながら、治嗣さまは私のうなじを指でなぞった。治嗣さまの指は冷たくて、首筋にぞわぞわと悪寒が走る。けれど、脚を止めるわけにはいかない。
「治嗣さま──……たとえ治嗣さまが私の《《実の父》》であったとしても──……私の父は、花ノ井重森ただ一人です」
「…………それならば──……父としてではなく、男として接しようか」
治嗣さまは優雅に、そして力強く、私の腰を抱きかかえてくるりと回した。情熱的で激しい動きに惑わされそうになるけれど、私は必死に何でもないふりをした。
「ご冗談を! そのようなこと……許されることではありません」
「君は──……重森氏ではなく、私が実の父親だと思っているようだ」
「…………私には、本当のところはわかりません。ですが私の母は──……そう思って、私を育ててきたのでしょう?」
──兼ねてより婚約の噂高かりし藤峰治嗣卿の次男征之介様と、経済界の重鎮花ノ井重森氏の御息女品子嬢の結婚披露を兼ねた舞踏会が催されていた折柄であった──……。
治嗣さまの名前には、口という字が三つ含まれている。病室であの新聞記事に目を通した時──私はようやく気がついた。私の品子という名前が、治嗣さまの字面から付けられていたのだということに────。
「君の母上は可愛らしいところがあるからね──緑子に嫉妬をして、私との子が欲しいときかなかった。君が私の娘であるのかどうかは、私にもわからないことだ。君の母上にしたって、そう信じ込んでいるだけのこと──……真実はわからない」
本当のところはお母さまにもわからない──……たしかにその通りだけれど、治嗣さまと実の親子である可能性が消えることはない。
そしてその可能性が消えない限り、私は征之介さんと結婚することはできない。私と征之介さんは、腹違いの兄妹ということになってしまうのだから──……。
「治嗣さまは──……美与子さんが亡くなった日のことを、覚えてらっしゃいますか?」
同じことをお母さまにも尋ねたけれど、お母さまは答えてくださらなかった。
「ああ──もちろん覚えているとも」
「あの日……治嗣さまとお母さまは、この屋敷のお庭で逢瀬を重ねてらっしゃった──……」
「私が主催した舞踏会の日だった──……美与子は身体が弱かったからものだから……倒れてすぐに医者を呼んだが、悲しいことに間に合わなかった」
治嗣さまの瞳には、本当に悲しみがたたえられていた。美与子さんが亡くなったことで治嗣さまが心を痛められたことも、間違いではないのだろう。
「お二人は美与子さんが倒れられる前に──……私の話をしたのではありませんか?」
少しの間、治嗣さまは記憶を掘り起こすように沈黙された。
沈黙を縫って、音楽が流れていく。レコードの針は中心に近づいていて、私たち二人きりの舞踏会も終盤だ。
「──……ああ──……あの時、たしかに君の話をした。君と征之介の縁談について話していたんだ。もしも君たちが結ばれるようなことがあれば、私たちも幸福になるに違いない、とね」
「どうしてそんな──……私と征之介さんは、血のつながった兄妹かもしれないのに──……!」
「もちろん私たちだって、心から願っていたわけではない。まさか本当に実現すると思ってはいなかったものだから、征之介が君との縁談を望んだ時は驚いたよ──……だがおかげで、こうして完璧な君に出会うことができた。君の父親が誰であるか……答えのわからぬことを気にしても仕方がないだろう?」
治嗣さまの中では、その答えはどちらでも構わないのだろう。ただ自らの欲を満たすことができれば、他の事柄は全て些細なことなのかもしれない。
「治嗣さまやお母さまのお考えは、私にはよくわかりません。ですが私にも、美与子さんの気持ちはわかります──……美与子さんはお二人の関係を知り、その衝撃で発作が起きたのだと征之介さんはお考えでした。でも、私はそうは思いません。美与子さんは、《《私の存在》》にひどく衝撃を受けられたのでしょう──……」
そう考えると、征嗣さまと征之介さんそれぞれからお聞きした美与子さん像が一致する。
身体が弱く外へ出ることの少なかった美与子さんにとっては、征之介さんが全てだったのだろう。妹としてこれ以上ないほどに征之介さんを愛し、そして甘えていたのだと思う。
美与子さんにとって、征之介さんは「私だけのお兄様」だった。そのただ一人の実妹という絶対的立場は、たとえ征之介さんに思い人ができたとしても、揺るぎないものだったはずなのだ。
けれど私という存在がいることを知り、美与子さんの根底にあった大切なものが崩れてしまった。
──私は許さない──……認めない──……だからお兄さまも、許さないで。認めないで。お願い──……全部、奪って──……憎いの。私にはお兄さましか──……お兄さま……私だけの、お兄さま──……。
美与子さんの言葉は、治嗣さまやお母さまへ向けられたものではない。私に対しての、行き場のない気持ちのこもった言葉──……。
突然知った征之介さんのもう一人の妹という存在──しかもその妹は、征之介さんと夫婦になる可能性すらある。
美与子さんが私の存在を許せるはずがない。認められるはずがない。全てを奪いかねない私のことが、どれだけ憎かったかわからない。
「美与子が──……」
治嗣さまは、考え込むように呟いた。
ちょうど、流れていた曲が終わりを迎える。踊りを終えて、治嗣さまと身体を離した。
私の推察を聞き、治嗣さまは動揺されるかもしれないと思っていた。けれどその私の考えは大きく外れていて、広間には治嗣さまの笑い声が響き渡った。
「私はあの時に偶然発作が起きただけだと思っていたが、たしかに君の考え方のほうがしっくりくる──……兄への愛に生き、愛のために死んでいったとは……なるほど、美与子らしいことだ!」
治嗣さまは衝撃や動揺よりも、納得感が強かったようだ。治嗣さまとお母さまの言動が、美与子さんの死の原因かもしれないというのに──……。
愛のために、と言ってしまえば聞こえはいい。けれど二人が深い仲にさえならなければ、美与子さんは亡くならずに済んだかもしれない。助かったかもしれない。
そして征之介さんだって、あんなにも苦しまずに済んだはず──……。
なぜ私が美与子さんの本当の気持ちに気がついたのか──それは、私自身もよく似た衝撃を受けたからだ。
治嗣さまとお母さまの仲を知り、ひどく驚いたのは間違いない。けれどそれ以上に、征之介さんと兄妹なのかもしれないという事実が、私の心を大きく揺さぶってならなかった。
私は征之介さんの婚約者という立場を、いつのまにか手放したくはなくなっていたのだ。
事実を知ったからには、私はもう征之介さんの婚約者ではいられない。
今日をもって、私は婚約を解消するつもりだった。征之介さんに我儘を言って婚約解消を先延ばしにしたのは、全て今日この瞬間のため──……。
「──……君には、母上とも違う魅力があるようだ。美しいだけでなくとても聡く──……隙だらけのあどけない生娘かと思っていると、気づかぬうちにこちらが絡め取られている──……完璧だよ、品子」
治嗣さまが、私の頬に手を触れ顎を上げる。相変わらずお美しいお顔立ちで、どこまでも余裕と品格に満ちていらっしゃる。
私はそんな治嗣さまに微笑みかけると、髪からそっと簪を抜いた。
「治嗣さま──……お別れです」
スズさんの目を盗み、鋭く太い針を簪の先に忍ばせておいた。
「──……完璧な私は、もうおりません」
私は簪の切先を振りかざし、勢いよく自らの喉に線を引く。
触れた先が熱く痛み、血飛沫が広がった。思っていたよりも、たくさんの血が溢れ出る。
倒れゆく間際、治嗣さまのお顔が歪むのが見えた。初めて表情を崩した治嗣さまを見て、私はどこか満足する。
お母さまは、今の私を見て何と思うだろうか。きっと、ひどくお怒りに違いない。治嗣さまの心には、もうお母さまはいらっしゃらない。
治嗣さまにとって完璧でありながら、手に入らぬまま散った私──……私が治嗣さまのものになることはないけれど、治嗣さまの心は私のものだ。お母さまにとっては、それが何より辛いだろう。
私が地べたに倒れると、広間の扉が開く音がした。もう、夜会が始まる時間だろうか。誰かが何かを叫びながら、私のそばへ駆け寄ってくる。
「──……さん! 品子さん!」
とても温かく力強い掌が、私の身体を抱え起こした。
「父上! いったい何があったのです?!」
何かが首にあてられて、流れゆく血が押さえられた。
「幸い傷は深くない。すぐに医者を呼んで参りますから──どうか気をたしかに。品子さん──……あなたは私が、必ず助けます」
──……やっぱり、征之介さんは来てくれた。どれだけの危機にあろうとも、征之介さんがそばにいてくれるだけで、どうしてこんなにも心強いのだろう。
固く握りしめていた掌が緩み、簪がかたんと転がっていく。
心地よい安堵に満たされながら、私は意識を手放した。




