幻影
首の傷が痛まなくなってきた頃、ようやく私の退院が決まった。完全に傷が閉じたわけではないけれど、通院で充分なほどには回復しているという。
「──では品子さん、参りましょうか」
私の退院日には、征之介さんが迎えに来てくださった。荷物が全てそのままなので、私はひとまず緑麗荘へと戻ることになる。
けれどその前に、私はどうしても立ち寄りたいところがあった。
征之介さんに頼んで向かった先は、美与子さんの眠る場所──……正光寺だ。
病院からしばらく車に揺られた閑静な場所に、そのお寺はあった。そして緑に囲まれた広い境内の一角に、私たちは向かう。
きれいに掃き清められていて、墓前のお花も新しく生けられたばかりのようだ。
「ここが藤峰家代々の墓になります。ここに……美与子も眠っている」
「連れてきてくださってありがとうございました。もっと早く──……婚約が決まった時に、ご挨拶に伺うべきでした」
「いいえ──……私が段取りを飛ばして、強引に進めてしまったのですから。今こうして墓参してくださっただけでも、充分ありがたいことです」
征之介さんは墓前に向き直ると、お線香を供えながら言った。
「美与子──……《《君》》もきっと、喜んでいるだろう」
私はお線香を受け取ると、征之介さんにお願いする。
「少しの時間だけ……一人きりにしていただいてもよろしいですか?」
「それはもちろん──……構いませんが」
征之介さんは怪訝な顔をしながらも、先に車へ戻ってくださった。
私はお線香を供え、墓前へと手を合わせる。
──ご挨拶が遅くなってしまいました。花ノ井品子と申します。
──……美与子さん、きっとあなただったのですよね。私に、あの夢をみせてくれたのは──……。
なぜあの不可思議な夢を見始めたのか、私はずっと考えていた。そして知らなかったことが明らかになるにつれ、私は美与子さんという人にたどり着いたのだ。
美与子さんが残した言葉によって、征之介さんはいばらに囚われてしまっていた。自らの手を汚そうとしてまで、美与子さんの願いを叶えようと苦しんでいたのだ。
大切な人が自身の言葉によって苦しみ、その優しい手を汚そうとしている──それが、美与子さんの本意であるはずがない。
美与子さんが亡くなる間際、治嗣さまとお母さまの関係に憤りを覚え、私を恨んだことに違いはないと思う。それはどうしようもない感情で、抑えることなどできはしないだろう。真に迫っていたからこそ、征之介さんも必死でその願いを叶えようとしたのだと思う。
けれど美与子さんが征之介さんを大切に思う気持ちは、私に対する負の感情よりもずっと強かったのだ。
だから──……私に、あの夢をみせてくれた。征之介さんが、私を殺めることなどないように。
あの夢は正夢や逆夢ではなく、そして予言とも違っていた。あの夢は、美与子さんが恐れていた幻影──……だったのではないだろうか。
私を《《あなた》》ではなく《《君》》と呼んでいた、夢の中の征之介さん。
あの違いはきっと、美与子さんの目を通していたからなのだ。
美与子さんは、征之介さんに人を殺めてなど欲しくはなかった。苦しんでなど欲しくはなかった。
私は美与子さんからあの夢とともに、征之介さんをいばらから解放する役目を託されたのだと思う。
──これで、よかったのでしょうか──……。
私が心の中でそう呼びかけると、気持ちのよい風が吹き抜けた。墓前に供えられていた花を揺らし、花びらが私の鼻筋まで飛んでくる。
よく見てみると、その花びらには見覚えがあった。真っ白な色をしているけれど、この天鵞絨のような肌触りは間違えようがない。
美与子さんが好んでいたという、薔薇の花だ。
──美与子さん、ありがとう──……。
私はその花びらをハンカチに包むと、一礼とともにお墓を後にした。
「お待たせいたしました、征之介さん」
車の停まっている停車場まで行こうとしたけれど、征之介さんはお寺の門前で待っていてくださった。
「いいえ、もうよろしいのですか?」
「はい──……征之介さん。私、征嗣さまがご提案くださった件、お受けしてみようかと思います」
「──……ご決断、なさったのですね」
病院で目覚めたあの日、征嗣さまは私に教えてくださった。近年海の向こうでは、親と子の血の繋がりを調べる技術が発展してきているのだと。
信じられないようなことだけれど、私やお母さま、そして治嗣さまとお父さまの血を抜いて調べると、本当のお父さまかそうでないかがわかる可能性があるのだという。
血液にはいくつか種類があって、両親の血の組み合わせによって、子の血の種類も決まるのだそうだ。もしも私の血が、お父さまとお母さまから生まれ得ないものだったら──……。
──確実にわかるわけではないが、試す価値はある──……だが、調べるかどうかは君の気持ち次第だ。真実を知らないまま、好きなように過ごしたって構わないだろうと私は思う。それでも君が望むなら、調べる手配を私がつけよう。征之介とのことは真実を知ってから考える……というのも、君の選択肢の一つだ。
私は征嗣さまのお言葉に、すぐには返事ができなかった。真実を知ることが、この期に及んで怖くなったのだ。
けれど今日美与子さんに手を合わせることで、私の気持ちは固まった。
「どのような結果であれ──……品子さんが、私にとって大切な人であることに変わりはありません」
征之介さんはそう言うと、何かを取り出して私の首にそっと巻いた。
優しい肌触りの天鵞絨の生地で、黒に近い紺色をしている。
「これは──……?」
「これはチョーカー、という舶来の装飾具です。これならば、あなたの傷跡を隠すことができる」
首に巻かれた包帯は、上から少し見えてしまっている。けれどたしかに包帯が取れた後の傷跡なら、きれいに隠すことができそうだった。
征之介さんが、私の髪からうなじをなぞる。
「よく、似合っている」
そのチョーカーは、以前征之介さんが贈ってくれた簪ともよく合いそうだった。
「ありがとうございます、征之介さん──……それから私、もう一つ決めたことがあるんです。私──……父の事業を、引き継ごうかと思っています」
入院している時に、お父さまともよく話し合った。征之介さんとの婚約が解消されたなら、花ノ井家の跡を継ぐ人がいなくなってしまう。一人娘の私が婿を取らなくてはならないけれど、今更征之介さん以外の人と──とは考えられなかった。
事業を継ぐことは簡単ではないと、もちろんわかってはいる。時には難しい合理的な判断を求められることもあるだろう。
けれどこれから事業について学んでいったなら、もしかしたら南さんのような人を出さずに済む方法が浮かぶかもしれない。南さんを、救うことができるかもしれない。私にも、できることがあるかもしれない。
「征之介さん──……もしも征之介さんさえよろしければ、お力を貸してはいただけないでしょうか──……? 父は征之介さんの手腕を、大変褒めておりました。征之介さんがお力添えしてくださったなら、とても心強いですし──……それに……征之介さんは──……」
私は少し考えてから、まっすぐに征之介さんを見て口に出す。
「征之介さんは、私にとって大切な人なのです」
初めて会った時には考えられなかったことだけれど、私たちは互いの瞳を見つめ合っていた。
「品子さん──……私は、あなたを傷つけようとした。しかしそれにも関わらず、あなたは命を賭して私を救ってくださった──……あなたが望むのならば、私はいつまでもあなたをお支えします。これからは私が、あなたを守る棘となりましょう」
征之介さんがつけてくれたチョーカーに触れると、首筋の痛みなど忘れてしまいそうだった。
本当にあのまま死んでしまっても構わないという気持ちで、私は首筋に線を引いた。お医者さまにも言われた通り、一歩間違えればすぐに息絶えていただろう。
それでも、私は間違えることなどない自信があった。だって、私は何度も息絶えた経験があるのだから──……どれだけの痛みと血が死に繋がるのかを、私の身体は知っている。裏を返せば、どこまでの痛みと出血ならば耐えられるのかも──。
私と征之介さんの関係性はとても曖昧だ。夫婦ではないけれど、きちんと婚約を解消したわけでもなく、兄妹という確証もない。
けれど私には、たしかに言えることが一つある──……どのような関係になるにせよ、これから先も征之介さんはずっとそばにいてくださるのだ。
この先のことはわからないけれど、征之介さんが隣にいてくださるのなら、きっと私は幸せだろうと思えてしまう。
「征之介さん。これからも……どうぞ、よろしくお願いいたします」
力強く温かい掌をとって、私は征之介さんの隣を歩いていく。




