覚悟
清潔な消毒液の香りで目が覚めると、私は病院のベッドの中にいた。すぐ横には、お父さまが青白い顔をして腰掛けていた。
「品子──……!」
私が起きたことに気がつくと、お父さまは慌てて駆け寄り私の手を取った。
「よかった──……目が覚めて、本当に……」
しばらく顔を合わせていなかったからだろうか、お父さまがひどくやつれて見えた。
お父さまの瞳が潤むのを見るのは、初めてのことかもしれない。
「今医者を呼んでくる。特に怪我という怪我はしていないそうだが、念のために診てもらおう。その火傷も心配いらない、跡は残りにくいそうだから」
起き上がって自分の身体を見ると、ところどころに包帯が巻かれている。煤はきれいに拭き取られているけれど、まだどこか焦げ臭いような気がした。
「お父さま、他の方たちもみな無事ですか──……?」
「ああ、建物はほぼ全壊してしまったが……奇跡的に死者も重症者も出なかった」
「よかった──……お母さまは?」
「華子も無事だ。お前と同じように、念のため別室で診てもらっている」
「そう──……では征之介さんは? 私、また征之介さんに助けていただいて──……」
「征之介くんは諸々の後処理に回ってくれている。けっこうな騒ぎになってしまったからな……彼は本当によくできた若者だ──……私からも改めて礼を言わねばな。二度もお前の命を救ってくれた……こんなことになってはお前たちの結婚披露の場は先延ばしになってしまうが、しばらくは辛抱してくれ」
征之介さんはあの刃傷沙汰の時のように、騒ぎを最小限にしようと動いてくれているのだろう。征之介さんだって私を助ける際に傷を負っているだろうし、お疲れに違いないのに──……。
「品子が目を覚ましたと伝えておく。落ち着いたら、ここへ顔を出しに来てくれるだろう」
お父さまが部屋を出ていくと、入れ違いのようにスズさんがやってきた。スズさんは私の顔を見るなり、泣きながら抱きつかんばかりに駆け寄ってきた。
「品子さま、よかった……! 私、あの時品子さまをお一人にしなければよかったと、本当に後悔して──……ごめんなさい品子さま。本当に本当に、ご無事でよかった──……!」
スズさんは大きなボストンバッグを抱えていた。緑麗荘へ戻って、私の着替えを持ってきてくれたのだろう。
「スズさん、私のほうこそごめんなさい……たくさん心配とご迷惑をかけしてしまいました。私が一人になりたいと言ったんですもの、スズさんが気に病むことなんてないんです」
「でも、でも──……」
「スズさんが、征之介さんに伝えてくださったんでしょう? 私がステンドグラスを見に行ったと……だから私は助け出されることができた──……ありがとう、スズさん。スズさんのおかげで、私は命拾いをしました」
「そんな、私は何にもできなくて──……征之介さまが、品子さまを助けに行くと仰ってくださったから──……」
スズさんはしゃくりあげながら言う。もしもあの時征之介さんが来てくださらなかったら──私は夢と同じように息絶えていた。
「征之介さんには……いつ会えるかしら」
伝えたいことがたくさんあって、私はまた征之介さんに会いたくてたまらなかった。
スズさんの肩を抱いて落ち着かせていると、だんだんと呼吸が落ち着いてきたようだった。そして涙が治まってくると、スズさんはボストンバッグの中から何かを取り出す。
「これ……一旦お屋敷へ持ち帰って、簡単にですが磨いてきたんです。少し、汚れてしまっていたので」
それは、征之介さんが贈ってくれた簪だった。スズさんが磨いてくれたおかげか、火事の前と変わらぬ輝きを放っている。
「征之介さまも、早く品子さまにお会いされたいはずです。今は佐々部さんが征之介さまに付いてらっしゃらいますから、予定がわかりましたらすぐにお知らせいたしますね」
「ありがとう、スズさん──……」
簪を手に取ると、胸の中の不安が薄まっていくように思えた。
お医者さまがいらっしゃると、私は診察を受けて再び横になった。特段の怪我はなかったけれど、大事をとってもう一日だけ入院することになったのだ。
無理を言って見せてもらった新聞には、昨日の記事がもう載っていた。
「紫雲館、炎上す──名門藤峰家の舞踏会、一転して大火に包まれる 内外に名高い洋館である紫雲館において、昨日大火災発生せり。同館はその大部分を焼失し、現在もなお鎮火後の現場にて原因究明が続けられている。同館においては、兼ねてより婚約の噂高かりし藤峰治嗣卿の次男征之介様と、経済界の重鎮花ノ井重森氏の御息女品子嬢の結婚披露を兼ねた舞踏会が催されていた折柄であった。華やかなる宴の最中突如として火の手上がり、たちまち館内に燃え広がるや、会場は逃げ惑う人々により大混乱を呈す。しかるに幸いかな、この大火において死者は確認されておらず──……」
私は少し一人になりたいと伝えて、病室のベッドの上で色々なことに思いを寄せた。火事のこと、征之介さんのこと、花ノ井家や藤峰家、簪、婚約について、南さん、治嗣さまと透子さんのこと──……。
火事の原因については、まだ公表されていないだけなのだろうか。それともこのまま公になることなく、不審火として済まされるのだろうか。征之介さんは今、どんな風に動いていらっしゃるのだろう。
最初にあの夢をみてから今日に至るまで、たくさんの出来事があった。これまでの日々で私が得たこと、考えたこと、そして知ったこと──それらを含めて今の私にできること、しなければならないことを考える。
夢から逃れようと躍起になっていた時には何も名案が浮かばなかったというのに、不思議なものですぐに答えが頭に浮かんだ。とても自然に、今の私にできることはそれしかないのだと思えてしまった。
そうと決めてしまったら、私の心はひどく穏やかに凪いでいく。
夕刻になると、雪子さんがお見舞いに来てくれているとスズさんが教えてくれた。
雪子さんは以前と同様に、大きな花束を抱えている。
「品子さん……!」
雪子さんは私に巻かれた包帯を撫でながら、目に涙を溜めて労ってくれる。
「火事にあったと聞いて、どれだけ驚いたことか──……あんなことがあってから間もないのに、どうして品子さんばっかりこんな目に──……」
「心配ありがとう、雪子さん。特に痛みもないし、大丈夫なのよ」
「そんなことを言ったって、あなた──……」
そこで雪子さんは、私が新聞を読んでいたことに気がついたようだ。
「駄目よ品子さん、こんなものを読んだら。まだ病み上がりなんだから、養生に良くないわ──……」
「残念ながら帝都新聞は手に入らなかったの──隠しても遅いわ、もう読んでしまったもの」
雪子さんはため息をつきながら、新聞をもとの位置に戻した。
「……安心なさって。多分、全ては公にはならないわ。晴れの場であんなことが起きてしまって……この前のこと以上に、藤峰家も花ノ井家も隠し通そうと尽力なさっているみたい」
「そう、なのね──……」
雪子さんはどこまで知っているのだろう。少なくとも火事の原因については、蔵沢さんから聞いているようだ。
「ねえ雪子さん──……お願いが、あるのだけど」
「なあに? 品子さん」
首を傾げる雪子さんに、私は一つのお願いをした。




