情炎(二)
大声に驚いて、一瞬扉から後ずさってしまった。部屋の中からは、止むことなく女性の声がする。
「どうして──……?! 私とはお会いしてくださらないのに、なぜそんな庶民と……!」
私は我に帰って、扉を叩いて治嗣さまに呼びかけた。
「治嗣さま、どうなさったのですか──……!」
「……心配ない。彼女は私の知人だ」
「知人? 私が? 違う──……私と治嗣さまは恋人ではないのですか? どうして──……」
とにかく、部屋の中で不測の事態が起きていることはたしかだ。
声を荒げている女性はどこから入ったのだろう? あの渡り廊下の先の別館──? 裏から回り込んだなら、この部屋の窓から中へ入ることができそうだ。先ほどの何かが割れるような音は、窓ガラスが割れた音だったのかもしれない。女性は窓越しに話しかけている可能性もある。
「……透子嬢。なぜ君はここに? 今夜の舞踏会に、君は招待していないはずだが」
透子と呼ばれたその人は、私にも聞こえるくらいの声で泣き始めた。
「どうしても、お会いしたかったから……近頃は舞踏会においでにならないし、お屋敷に行くわけにも参りません──……お顔を見られたら、それだけで十分でしたのに……どうして──……」
「とにかく落ち着きなさい。騒ぎになってしまっては、君の家にも迷惑がかかるだろう?」
「家なんてどうなっても構いません。私はただ、治嗣さまの一番でいたかっただけなのに──……奥さまならばまだ耐えられます。家同士のことですもの。でも──……この方は治嗣さまにふさわしくありません。私のほうが家柄も年齢も、ずっと治嗣さまにふさわしいのに……! あんなに愛してくださったのに!」
「…………透子嬢。君は、何か思い違いをしているようだ。色と恋は分けて考えなければならない──……私にとって君はどちらか、ここではっきりさせようか?」
ため息まじりの治嗣さまの声はとても冷たくて、女性に対する明確な否定を感じた。それだけではなく失望や拒絶、嫌悪感が滲み出ている。
女性は何か返答したのかもしれないけれど、扉の外の私には聞き取ることができなかった。
そういえば治嗣さまはお若い頃から数々の女性と浮き名を流し、今もお噂は絶えないのだと雪子さんが言っていたっけ──……。
突然繰り広げられた出来事に戸惑ってしまったけれど、私はようやくすべきことを思い出す。治嗣さまも向こうにいる女性も、早くここから連れ出さなければならない。
「治嗣さまっ──…………っ!」
呼びかけたところで、私の耳には嫌な音が入ってきた。何かが燃えるような、パチパチと弾けるような音だ。続けて焦げ臭い、煤のにおいが漂ってくる。
いけない──……!
「治嗣さま、火事です──! 扉をお開けください! そちらにいらっしゃる透子さんも──……早く逃げなければ!」
扉を叩いて急かすけれど、治嗣さまが扉を開ける気配はない。
「火事……? まさか君──……」
透子さんの、狂ったような笑い声が聞こえる。
「治嗣さまの最期は私のものです。もう誰にも譲りたくない──……治嗣さま、こっちへ来て──……? その女よりも、私を選んでください。私と一緒に、二人だけの場所へ旅立ちましょう」
「治嗣さま、早くお逃げください! じきにここも火の海になってしまいます! 誰かっ──火事です!」
夢でみた景色を思い出す。もう時は一刻を争うのだ。火元はちょうど渡り廊下へ出たあたりだろうか。外壁を燃やし尽くす音が、今も絶えずに聞こえてくる。屋敷の内部に火が迫ってくるまで、もう時間がない。
「品子嬢、いいから君は早く逃げたまえ」
こんな状況だというのに、治嗣さまは落ち着いた声をしている。
「いけません治嗣さま、もう本当に時間がありませ──……きゃっ!」
爆ぜる音とともに、火の手が廊下の奥まで迫ってきた。扉の前まで火が来てしまったら、治嗣さまが外へ出られなくなってしまう。窓から外へ出るにしても、透子さんが治嗣さまを通してくれるとは思えない。
「火事です──……! みんな逃げてっ──! 治嗣さま、お早く! この扉を開けてください!」
扉を叩きドアノブを引いてみるけれど、中から鍵がしてあるようで開かない。
治嗣さまはなぜ出てきてくださらないのだろう。まさか透子さんと一緒に──……。
私がそう思いかけた時、扉の中から大きな声がした。それは有無を言わさぬ強い口調で、私を叱責する。
「品子──! いいから、早く逃げなさい!」
「────……っ!」
もう火はすぐそこまで来ていて、大きな炎の塊となって私に迫ってきていた。私はそれに追い立てられるようにして、玄関へと向かって走り出す。
私の声が届いたのか、大玄関のあたりに人が群がっているのが見えた。二階には誰も残っていないだろうか。みな、無事に逃げられるだろうか。
走りながら、頬に涙がつたった。
最後に聞いた台詞から、私は《《知ってしまった》》。私は、何も知らなかったのだということを──……。
身体が熱くて、脚がうまく動かない。走っているからなのか、熱気が満ちているからなのか、どちらなのだろう。
火が壁や天井の木材をつたって、大階段を燃やし尽くそうとしていた。大きな柱が炎を上げながら、私の行く手に倒れ込んだ。
もう、駄目──……。
私は走る気力を失って、とうとう床へと倒れ込んだ。呼吸が苦しくて、どこもかしこも熱くてたまらない。
ああ、そうだ──……。
手を伸ばして、髪につけた簪の真珠に触れる。夢と同じに、そこだけ少し冷たかった。
少し視線を動かすと、ステンドグラスの窓が目に入った。美しい窓ガラスに、ゆらめく炎が映っている。もうここまで辿り着いていたようだ。
私はもうまもなく火に飲まれるだろうけれど──どこまでも夢と同じであれば、征之介さんは私の前に現れることはない。
変、なの──……。
この気持ちは何なのだろう。どうして、こんな気持ちになるのだろう。心細さと、それから──……。
廊下の奥は炎に飲まれて、もう見る影もない。あたりには何もかもが燃えていく、静かで激しい音しか聞こえない。
そしてとうとう炎が私を捉えかけた時──がしゃん、と大きな音が何度かして、ステンドグラスが砕け散った。その音は夢の中で聞いた拳銃の発砲音にそっくりで──……美しかった窓ガラスが、見事なまでに粉々になる。
「──……品子さん!」
その窓を突き破って現れたのは、私が会いたくてたまらなかった人に違いなかった。
「征之介、さん──……」
「申し訳ありません、遅くなりました」
征之介さんは私をたやすく抱えると、素早く窓から外へ飛び出した。
「征之介さん……奥にまだ、治嗣さまと──……」
「……今しがた、窓から助け出されました。消防手も到着しましたから、もうご安心ください──……どこか痛みはありますか?」
外の空気が、私のほてった身体を冷やしていく。私は征之介さんの腕の中で首を振った。
「征之介さん、ありがとうございます──……私……申し訳、ありませんでした──……」
色々な感情が混ざり合って、涙が止まらない。子供のようにしゃくりあげる私を、征之介さんは優しく地べたに下ろした。
「あなたは、何も悪くありません」
夢の中のどの征之介さんとも、違う声色だった。大きく温かい掌が、私の身体を抱きとめる。言いようのない安心感と心地よさが、私の心身を満たしていく。
征之介さんの鼓動を感じながら──そのまま私は気を失った。




