情炎(一)
夢をみてから考え続けたけれど、火事を食い止める名案はなかなか思いつかなかった。
征之介さんは変わらず部屋に籠りきりで、食事の際の会話も弾まない。征嗣さまも、あれきり緑麗荘へいらっしゃることはかった。
そしてとうとう──私は、舞踏会の日を迎えた。
「品子さま、ようやくこの日がやってまいりましたね」
紫雲館に向かう道すがら、スズさんが言う。
「ええ、本当に──……」
「舞踏会、とても楽しみです。たくさんお稽古されましたものね」
征之介さんには必要ないと言われたけれど、私はスズさんに付き合ってもらい引き続きお稽古を続けていた。
本来であれば舞踏会という大舞台に緊張しないはずがないけれど、今はそれどころではない。
「ごめんなさい、スズさん。予定よりも急かしてしまって……」
私は少しでも早くに紫雲館に着き、できる限りの策を講じようと思っていた。
「いいえ! ゆっくりお支度をするほうが、緊張せずに済みますものね。今日からは名実ともに、品子さまは奥さまですね──改めて今日からは、奥さまとお呼びしたほうが──……」
そうだ──すっかり忘れていたけれど、この舞踏会は私と征之介さんの結婚報告の場なのだ。華族としての順序も踏み終えて、舞踏会が無事に済めば私は征之介さんと──……。
「……スズさんさえよろしければ、これからも名前で呼んでいただきたいです」
いまだに奥さまと呼ばれることには慣れていない。そもそも、結婚自体にしっかりとした現実味を持てていないのだ。
今日が終わる頃には、私は結婚というものを心から受け入れることができているだろうか──けれどそのためにもまずは、舞踏会を無事に迎えなくては。
紫雲館に着くと、私は二階の控えの間に通された。予想していたことだったけれど、そのお部屋は夢でみたものとそっくり同じだった。
夢をなぞるように、スズさんに支度を手伝ってもらう。えんじ色のドレスに袖を通し、征之介さんが贈ってくれた簪をつけて──鏡の中を見ながら、どこにも乱れがないことを確認した。
前髪はお母さまがしてくれたように七三に分け、後ろ髪は編んで整えてもらっている。額とうなじは出したほうがいい、と治嗣さまに言われた言葉が頭をよぎったけれど──私はそれを頭から追い出した。
お父さまと征之介さんは、お仕事の視察を終えてから一緒の車で来るらしい。早めに紫雲館に着いたので、到着までまだ時間があるはずだ。藤峰家の方とお母さまは今支度をされていて、招待客のみなさんが来るのはもう少し先──……。
「スズさん。私の支度はもう充分ですから、一階の広間のお手伝いをお願いできますか? 佐々部さんお一人では、館の方に指示をするのも大変でしょうから」
「ですが……品子さまがお一人になってしまいます」
「私は──……こちらの建物の装飾がとても素敵だったので、少し拝見させていただきたくて。一階にあったようなステンドグラスの窓ガラスなんて、あまり見ることのできないものだから」
「品子さまはお屋敷から外に出る機会が、なかなかありませんでしたものね──……わかりました。では私は佐々部さんへご用聞きに行って参りますが、何かあれば遠慮なくお呼びくださいね」
「ありがとう、スズさん」
そしてスズさんが階下へ降りていくのを見計らって、私は二階をひと通り歩き回った。
給仕の方とすれ違う度に、適当な文言で階下へと誘導していく。
「すみませんが、本日のお食事の確認をお願いできますか──?」
「広間の人手が足りないようなので、お手伝いを頼んでもよろしいでしょうか」
「帰宅時の車の手配を、増やしていただきたいのです──……」
廊下に人通りがなくなると、ついで室内にも誰も残っていないかを確認した。二階は花ノ井家の控の間が割り当てられていたけれど、もうお母さまもそこにはいらっしゃらなかった。すでに支度を終えられて、玄関へお父さまのお出迎えに向かわれているのだろう。
これでもし火事が起きたとしても、二階から逃げ遅れる人は出ないはず──……。
私は念のため、大階段の前に二階侵入不可の張り紙を貼り付けておいた。私が書いてこっそり持ってきた張り紙なので、効力があるかはわからないけれど……それでも、ないよりは安心できる。
夢の中では、一階の西側が激しく燃え盛っていた。きっとあの辺りが出火場所だったのだと思う。私は階段を降りて、急いで西側のお部屋へと向かった。佐々部さんに確認したところ、西側には藤峰家の控えの間があるのだ。
夢で見たステンドグラスの窓ガラスの前を通り、奥の廊下へと進んでいく。西側の館の先には渡り廊下があり、紫雲館の別館へと繋がっているようだ。
「──……治嗣さま、いらっしゃいますか?」
私は呼吸を落ち着かせてから、まずは一番奥にある治嗣さまの控えの間を訪ねた。
今のところ火の気は感じられないけれど、用心するに越したことはない。早く治嗣さまに避難していただかなくては──……。
少しの沈黙の後、扉の奥から治嗣さまのお声がした。
「──……珍しいね、品子嬢」
「治嗣さま……もう、お支度はお済みですか?」
治嗣さまは扉を開けてはくださらない。
「支度は済んだが、時間にはまだ早いだろう?」
それはそうなのだけれど、火事が起きる時間は迫っているのだ。
「その──……少し早めに、藤峰のお母さまにもご挨拶ができたらと。ご紹介いただいてもよろしいでしょうか?」
「ああ……彼女ならまだ到着していないんだ。支度は全て家で済ませて、直前に車で来るそうだよ。征嗣がきちんと連れてくるはずだが──すまないね、妻はできる限り家に閉じこもっていたい性なんだ」
ということは、今お部屋には治嗣さましかいらっしゃらない。どうしたら治嗣さまを連れ出すことができるだろうか。もう火事はいつ起きてもおかしくない──……私はだんだん焦ってくる。
「治嗣さま、では──……征之介さんをお迎えに、玄関までご一緒しても?」
「はは、征之介の出迎えなら君一人で十分だろう。私がともに迎えに出たところで、征之介は喜ばない」
「そんなことは……私もその──……洋装におかしなところがないか、治嗣さまに見ていただきたいですし……」
「品子嬢ときたら、今日はずいぶん強引だ」
頬が赤くなってくるけれど、私も引くことはできない。多少強引であっても、治嗣さまに出てきてもらわなくては。
「治嗣さま、私──……」
けれどもう一度説得をしようとしたところで、部屋の中から何かが割れる音がした。
そして続けざまに、女性の大きな声が響いてくる。
「治嗣さま──……! なぜ……なぜ、そんな女なんかと一緒にいるのですかっ!」
甲高く震えるその声は、今までに聞いたことのないものだった。




