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ベッドから飛び起きて、乱れた呼吸を整える。肺が空気で満ちていくのを感じると、乾いた喉を水で潤した。
ここは緑麗荘の自室──いつもと何も変わらない。私の身体に煤がついているわけでもなく、あの焦げついた臭いも感じられなかった。
また、あの夢──……。
しかも今度の夢は今までのものとは違う。私一人だけでなく、紫雲館にいた人々全員に危険が及ぶものなのだ。
そしてもう一つ異なっていたのは、征之介さんの存在──あの時、征之介さんはどこにいたのだろう──……昨日の征之介さんの台詞、今までの夢……頭に浮かぶ嫌な想像を、すぐに頭から追い出し否定する。
違う、征之介さんが火付けなんてするはずがない──では征之介さんは、舞踏会の日に何をするつもりなのだろう。それはあの火事と関係があることなのだろうか?
もう舞踏会まで時間がない──いずれにせよ、これまでのように夢とは異なる現実に導かなくては。あんな大惨事、起こしてはいけない。
けれど私に何ができる? 夢の話をしたところで、誰も信じてはくれない。舞踏会の日取りを変えてもらったとしたら、火事は起きずに済むのだろうか。舞踏会が開かれなくても、紫雲館自体で火事は起きてしまう? そもそもここまで話が進んでしまっていては──……。
目覚めてからというもの、私の頭の中は火事を防ぐことで目いっぱいだった。
朝食の席についても、食事の味はわからない。征之介さんはいつもと変わらぬ雰囲気に見えるけれど──もう一度踏み込んで昨日の会話の続きをすべきか否か、悩んでいるうちに食事の時間は終わってしまう。
「──本日は所用により、夕刻まで外出いたします。夕食までには戻るかと」
私が何も言えぬうちに、征之介さんはそう言って席を立っていってしまった。今日はお父さまの元へ行かれるのだろうか。
「征之介さんはどちらへお出かけなのでしょう?」
佐々部さんなら知っているかと、私はなんの気なにしにそう尋ねた。すると佐々部さんは言う。
「征之介さまは正光寺へ出かけられる予定かと──……美与子さまが眠ってらっしゃる場所でございます」
「美与子さんが──……」
正光寺は藤峰家の菩提寺、征之介さんは美与子さんのお墓参りに出かけられるのだ。
「……征之介さんと美与子さんは、とても仲の良いご兄妹だったのでしょうね」
「はい、奥さま──それはもう、大層睦まじいご兄妹でございました。美与子さまは幼い頃から病弱でらっしゃいましたから──……あまり外出も出来ぬ中、征之介さまとの触れ合いだけが心の拠り所だったのかもしれません。藤峰家の皆さまはお忙しい身……美与子さまはご当主や大奥さまとは、あまり過ごす時間がございませんでしたから」
「そうだったのですね──……」
「この緑麗荘へも、度々静養にいらっしゃっておりました。美与子さまは、この屋敷の庭園がお気に入りだったのです」
先日訪れた美与子さんのお部屋から、東側のお庭がよく見えたことを思い出す。
美与子さんはあのお部屋で一人、庭を眺めながら征之介さんが来てくれるのを待っていたのだろうか──……。
もっと知りたい──……征之介さんのこと、美与子さんのこと、二人のことを。
征之介さんは美与子さんをとても大切に思っていらっしゃる。征嗣さまのお言葉からすると、征之介さんの行動には美与子さんが深く関わっているようだった。
佐々部さんに尋ねてしまいたいことがいくつもある。けれど佐々部さんは藤峰家に尽くしてくださっている方で、征之介さんが口にしないことをお喋りしてくれるとは思えない。
佐々部さんやスズさんをはじめ、この屋敷の人々は信頼できる人たちばかりだ。主家のことを思い、主家に対して口も堅い。
そうだ──美与子さんのお部屋なら──……。
あのお部屋には、美与子さんのものがたくさん残されていた。あそこへ行けば、何かわかるかもしれない──もしもあの火事に征之介さんが関わっているのであれば、それを止める手立てが何かあるかもわからない。
私はそう思い立つと、征之介さんが外出されたのを見計らって、美与子さんのお部屋を訪れた。
けれど──……。
いざ扉の前に立ってみると、どうしても躊躇してしまう。
まだ征之介さんとは結婚前なのだから、私はまだ藤峰家にとって赤の他人だ。美与子さんどころか家族の許可すらない状態で、勝手に入って物色するなんて……とても無礼で非常識なことに違いない。
どうしたら──……。
今入らなければ、もう機会はないかもしれない。けれど探してみたところで、何も得られない可能性ももちろんある。
私は美与子さんのお部屋の前をいったりきたりしながら、しばらく逡巡していた。
すっかり考え込んでしまっていて、私の背後に人影が現れたことにすら、全く気がつくこともなく──。
「……何をなさっているのです?」
突然のことに、私は驚いて振り返った。いったいいつからいらっしゃったのだろう──……うまい言い訳など、もちろん浮かばない。
「ま、征嗣さま……本日も、ご機嫌麗しく──……」
慌てて取り繕おうと努めたけれど、もちろん征嗣さまには通じない。
「……美与子の部屋に、何か?」
「いえあの、別に何も──……」
「ああ……髪飾りか? やっぱり美与子のものが必要になったなら、遠慮することはない」
征嗣さまはそう言って、扉のドアノブに手をかける。
「いいえ、違うんです……! 私はただ、征之介さんと美与子さんのことが気になっただけで──……」
「征之介と美与子のこと──……?」
「ええと……その……私は、お二人のことを何を知らないので……美与子さんのお部屋へ入ってみたら、何かわかるのではないかと──……申し訳ありません。勝手に失礼なことをしてしまって──……」
結局言い訳は浮かぶことなく、私は征嗣さまに本当のことを話さざるを得なかった。
征嗣さまは不思議な方で、どうにも隠しごとができそうにない。
「ああ……成る程、そういうことか」
征嗣さまは合点がいったように頷くと、私を別の部屋へと案内した。
「それならば私の部屋へ来るといい──……美与子の部屋は本と装飾品がほとんどで、あなたが見てもつまらないものばかりだろう」
征嗣さまのお部屋は一階の角部屋で、私はお部屋の前すら通ったことがなかった。
「どうぞ──と言ってもここはもうあなたの家になるのだから、私がこの部屋を借りている状態なのだが──……」
そう言いながら、征嗣さまは棚から一冊の冊子を取り出した。
「たしかここにしまったはずだが──……ああこれだ」
征嗣さまが取り出したのは、小さな紙だった。
「──……これが美与子だ」
見せてくださったその紙には、征之介さんと美与子さんが映っていた。それは少し前に撮られた、お二人の写真だったのだ──。
征之介さんは今とほとんど変わらず、あのお見合い写真のように固く口を引き結んでいる。
対して美与子さんは、とても柔らかく微笑んでいた。椅子に腰掛けて少し征之介さんを見上げ、その表情は安心しきっている。歳のころは私と同じくらいだろうか、やや面痩せしてはいるけれど、とても綺麗な人だった。
そして征嗣さまは、その写真を裏返すように手振りで仰る。その写真の裏側には、刻み込むように文字が書かれていた。
「私だけのお兄様と──」
もう一度写真を表に戻して、美与子さんを見る。裏面の言葉が直接伝わってくるようで、思わず美与子さんから目を逸らしてしまった。
「……それが美与子だ。見ての通りあいつは征之介に非常に懐いていた──……身体の弱かったあいつの周りには、征之介しかいなかったんだろう──……両親は多忙で、私は学業だの留学だので構ってやれなかったものだから。この写真は留学先に届いたんだが、その文面は私に対する意趣返しだろう。私のことは兄として認めない、というな」
征嗣さまは続けて手紙の封を取り出し、どこか懐かしそうにそれを見る。
「さて、他に聞きたいことは?」
「その……美与子さんは、ご病気で?」
「ああ、あいつは生まれた時から心臓が弱くて──……仕方なかったんだ。いつその日が来ても、おかしくはなかった」
長らく病と闘いながら、どれだけ大変だっただろう。そして私と変わらない年で、儚くこの世を去ってしまうだなんて──……。
「……もっとも美与子が弱かったのは身体だけで、その中身は頑健なものだった。私もよく手を焼かされたものだ……だが、征之介には嫌われたくなかったんだろう──……あいつの前では、どこまでも無邪気で可憐な淑女だった」
「魅力的な……方だったんですね」
以前征嗣さまが仰っていたような、棘があるようには思われない。
「……どうだろうな? だがあいつは征之介が考えているような、何も知らない無垢なお嬢さんではなかった──……本ばかり読んで、背伸びをして大人ぶっているような──どこにでもいる、普通の娘だったんだ」
征嗣さまは写真と封を冊子に戻し、再び私に尋ねた。
「他に、気になることは?」
「──……征之介さんは、なぜ私と婚約しようと思ったのでしょうか」
私がずっと、知りたくてたまらなかったことだ。征嗣さまが答えをお持ちだとは思わなかったけれど、ただどうしようもなく口をついて出てしまった。
「さあ、なぜなんだろうな──……私にもそれが不可思議だった。あなたと結婚するということは、征之介にとって苦しい道に違いないからだ」
「なぜ──……?」
征嗣さまはただ首を降り、一番知りたかった疑問の答えは教えてくださらない。
「あなたは、何も知らない無垢なお嬢さんだ──……あいつはあなたと、美与子を重ねてしまっているんだろうな……だからこそ、苦しんでいるんだろう」
「私は……知らないままではいたくありません──……」
「……知らないほうがいいこともある。あなたは、何も悪くないのだから」
「そんな──……」
「品子嬢──あなたを悪いようにはしない。だからもうしばらくだけ、辛抱していて欲しい──……あともう、まもなくなんだ」
どうして征嗣さままで、征之介さんと同じことを言うのだろう。いったいお二人は、何をなさるおつもりなのだろう。何かを摑むつもりだったというのに、結局何もわからないままだ。
美与子さん──あなたは、何かご存知なのですか?




