対面
翌朝目覚めて支度が済むと、私はあの場所へと向かった。
大きな開き扉を開けて、外へと足を踏み出す。
空にはどんよりとした雲が広がっていて、今にも降り出しそうな天気だ。いつもは見える遠くの景色も、今日は霞んでよく見えない。そう、あの夢と同じように──。
昨日は治嗣さまと征嗣さまがいらっしゃったけれど、今日は征之介さんと二人きりだ。私はまだ避けられているのだろうか。ダンスのお稽古の約束をしているけれど、征之介さんのお気持ちが気がかりだ。
征之介さんに会ったなら、何を話そう。踊りのこと、髪飾りのこと、治嗣さまや南さんのこと──? どれをとっても違う気がしてしまう。
夢の中の私も、同じように悩んでこのバルコニーに立っていた。向き合わなくてはならないことから、逃げるようにして。
この屋敷に来てから起こった、色々な出来事が頭をよぎる。
黒い拳銃、美しい薔薇、地べたに転がったあの小刀、治嗣さまの指先と桃色のリボン……そして焼きついて離れない、征之介さんのあの涙──……。
空からはとうとう、大粒の雨が降り始めた。地べたが濡れしきる頃には、冷たい風も吹き始める。
そして雨粒が風に乗って私の頬を濡らした時──私は息を吸い込んで、すぐ後ろを振り返った。
「──……いけません、征之介さん」
私が急に振り返ったので、征之介さんは驚いてたじろいだ。
やはりあの夢と同じように、征之介さんがこの場に現れた──……。
「征之介さんは、そんなことをしてはいけません……私は征之介さんに、涙を流して欲しくはないのです」
考えるまもなく、私の口から言葉が出ていく。そして言葉を発した瞬間、私が征之介さんに言いたかったのはこのことだったのだと胸に落ちた。
「何故、そんなことを──……」
意味がわからないという風に、征之介さんは首を振る。
「征之介さんはお優しい方です。いつも私を気にかけてくださって、私の命をも救ってくれた──……」
征之介さんの、温かく力強い手を取る。
「もしも征之介さんが望むなら、私は征之介さんの前から姿を消します。征之介さんが辛い思いをしてまで、この優しい掌を汚すことはありません」
「何を──……」
雨も風もさらに強さを増し、私の背に容赦なくあたる。
「お願いです──……もう、征之介さんに苦しんで欲しくはないのです……!」
夢の中で見た、征之介さんの辛く苦しそうな、そして悲しそうなお顔──なぜそんな顔をなさるのかはわからない。けれどもう、あんなお顔は見たくなかった。
私では征之介さんの苦しみを取り除くことはできないのかもしれない。それでも、征之介さんを止まらせることはできるはずだ。
私があの夢を見続ける限り、征之介さんは私を殺すことはできない。
征之介さんが、私の手を振り解く。
「止めてください──……私は……私は、あなたが情けをかけるような人間ではありません。私は、あなたのことを──……」
「征之介さんは、私を助けてくださいました。確かなことは、それだけです」
「違う……! あなたを助けたのは、あなたをこの手で殺めるためだ──……他の誰でもない、この手であなたを殺めなければと──……」
私は静かに首を振る。
「いいえ──征之介さんに、私を殺すことはできません。征之介さんは、そんなことができるお人ではありませんから」
「……あなたは……何もわかっていない──……」
「たしかに……私は知らないことばかりです。でも征之介さんがお優しい人なのだと、だからこそ苦しんでいるのだと──……それくらいは、私にもわかります」
征之介さんは顔色を失っている。表情もとても苦しそうだ。これではあの夢の中と大差がない──……征之介さんはしばらくの沈黙の後、濡れた髪をかきあげた。
そして、ようやく私の目をまっすぐに見る。そのお顔には諦念と、そして覚悟が現れているように感じられた。
「私は──……あなたを殺めるために、この屋敷へと呼びよせたのです」
「──……はい、わかっておりました」
「なぜ──……?」
「なぜ、でしょうか……でも、わかっていたのです」
「わかっていて、どうして逃げ出さないのですか」
「征之介さんを、一人置いていくわけにはいかないからです」
私だって、とうに覚悟は決めていたはずだ。緑麗荘へ越してくる前、お父さまとお母さま、そして自分自身に言った言葉を思い出す。
──私は征之介さんと、きっと幸せになります──……。
私は征之介さんとともに幸せになるために、この屋敷へとやってきたのだ。
「あなたは──……おかしな人だ」
「……私を厭う理由は、教えていただけないのですか?」
「あなたには……そのままでいて欲しい。あなたは、何も悪くないのだから──……」
「私は、ここにいても良いのでしょか」
征之介さんは、それには答えなかった。
「もう、部屋に戻りましょう──……このままでは風邪を引いてしまう。ひとまず身体を温めて、稽古は後日に───……」
「はい…………」
私は何かを、征之介さんを、変えることができたのだろうか。
夢での出来事は、現実にとても忠実だった。五感をなぞるだけでなく、部屋のつくりや街並みも──その中で一つだけ、現実とは異なる点があることに私は気づいていた。
《《君》》は、何も悪くないんだ──……。
夢の中の征之介さんはいつもそう仰る。けれど現実の征之介さんは、私のことを《《君》》とは呼ばない。
《《あなた》》は、何も悪くないのだから──……。
現実の征之介さんは、私のことを《《あなた》》と呼ぶのだ。その小さな違いは、現実と夢は同じ結末にはならないのだと、私に暗示しているように思える。
なぜあの夢をみるのか、あの夢の正体についてはまだわからない。
現実とは異なる点があるのだから──あの夢は正夢ではなく、予言の類とも違うのだろう。
強いて言うならばあの夢は、私に対する警鐘なのかもしれない。生きてやり遂げなければならないことが、私にはあるのだと。




